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【題未定】「親切な人」とは仲良くできないという社会不適合者の悩み【エッセイ】

  今回の話は似た内容を大分以前に記事としてnoteに書いたものだ。その当時とは状況の変化があったものの、大筋の考え方は現在も変わっていないが、もう一度まとめ直したいと思う。ネット上の記事から書籍に至るまで同じ筆者が同じことを繰り返し書いたものは世に溢れている。自己啓発本などはその典型だ。そうであれば私ごとき木っ端noteライターがその轍を踏んでも石を投げられることもないはずだ。

 「親切な人」というのは学校や職場などどんな場所にも存在する。あたかもこちらを優しく受け入れる味方のような顔をして近づき、アドバイスをくれるような人間のことだ。「ここ(この職場、学校)では○○した方が良いよ。」、「うちでは○○なやり方をしとかないと損するよ。」といった具合でアドバイスを頂ける。彼らの腹の内がどこまで善意で満たされているのかは定かではないが、こうした一見親切な人は決して少なくないだろう。

 まず結論から言うと、私はこの手のアドバイスがそもそも嫌いだ。そしてこの手の助言者はアドバイスにそのものに輪をかけて嫌いだ。別に彼らの腹の内の打算がどうとかという問題ではなく、単に組織や集団の不文律に対して忖度を求めたり、懐柔してこようとするその姿勢が苦手なのだ。挙句の果てにアドバイスのお礼の間接的な強要までセットになった日には目も当てられない。

 仮に本当にそのルールが必要なのならば明文化してしまえばよいし、それが合理的で妥当性があるのならばわざわざ破るつもりはない。しかしこうしたルールの多くはお気持ち配慮だけの胸を張って成文化することができないルールであることがほとんどで、だからこそ忖度を求めてくるのだろう。

 断っておくが、こうした「親切な人」を私は批判、非難するつもりはない。彼らの行動のある一定割合は善意から来ているものだろうし、組織や集団内における打算も処世術の一つだ。そうして感謝された成功体験も存在するかもしれない。だから彼らやその行動を断罪するつもりは毛頭ない(そもそも罪ですらない)のだ。ただ、私とは価値観が合わない、というだけなのだ。

 おそらくだが、「ここでは○○というやり方をしている。」という事実の伝達だけならばそこまで嫌悪を感じないのかもしれない。しかし多くの「親切な人」はそこに「こうするべき、良い、悪い」といった価値判断をセットにして提供してくれる。これが私には受け入れがたいのだ。良いも悪いも判断をするのは私であって、誰かに介入をされる類のものではない。私は自身の価値判断を別の誰かや集団に依存することを望まないし、ここに踏み込んでくる人間とは距離を置くだろう。

 言うまでもないことだが、こうした「親切な人」をありがたがる人が存在することは知っているし、そうした存在を評価したり感謝する習慣が存在することももちろん知っている。しかし、そうした習慣とは距離を置きたい、抵抗を感じる存在が一定数存在することを知ってほしいだけなのだ。

 年を取ると、そうした好意に対して思ってもいないお礼を言えるようになった。それがマナーだとはわかっていても、その行動が「親切な人」の増殖に一役買っているのかもしれないと考えると悩ましいところだ。


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