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好きではない言葉

一つの言葉選びがその人自身を表すことがある。相手にとっては些細な一言でも、いかに言葉に気を使っているか分かったり、また時にはそうでないことを露呈させる。肌感覚では後者の方が多いのだが、その言葉の内に”本能”とか”生物学的”が使われることが多い、と感じる。僕の場合、上にあげた二つの言葉を使われるとまず身構える。

大抵はその後に不快な発言が続くからだ。例えば「女性には本能的に母性本能が備わっている」と言うおじさん教師に、「男の方が偉いのは生物学的に見れば仕方ない」だとか言われたことがある。他にも「恋愛して結婚したいって思うのは本能的にそうなってるんだよ」と抜かす人もいたので、おいおいマジか……と思ったりしたことがある。

”本能”だとか”生物学的”という言葉は自分の説明を強調する時に便利なのだろうと推測する一方で、むしろ説明することを放棄している。思考放棄の単語のように使われることが多いのではないか。と思ってしまうことも多い。

実際、本能的だとか生物学的という言葉を使うことによって、自ら前提を作り上げているのだ。そこに科学的に根拠がある場合はほぼ無いし、むしろ使っている人たちは「科学的」を装っていることのあくどさすら感じる。

その”本能”から取り残される人はどうなるのか。と問いかけてみると大抵の場合「例外はあるから」と言われるが、例外が一定層いる時点で本能でもなんでもないじゃないかとさらに問い詰めたくなる。そうすると会話がストップするので、実際にはそもそも何も言わないことが多いが、漠然と嫌な気持ちになるのは毎回こっち側である。

 結局は思考放棄なのだ。自分の価値観を、習慣を、さも一般的に見せかけるような小手先の技術でしかない。

本能や生物学的という言葉が一般に出てくる場合、性別やジェンダーの話」とセットで出てきやすい。

例えば、「本能的に人はお腹減るからな~」という言葉よりも「男と女ってもう本質的に違うから」という言葉の方がずっと耳に入ってくる。そのような言葉を使った時点でインターセックスやノンバイナリー、トランスなどの存在を無視していることが露呈してしまうのである。

”本能”や”本質”という言葉は時にナイフになる。無自覚ゆえになお鋭さがある。だからこそ僕は立ち止まる、少なくとも僕はそんな無根拠に本質主義にはなりきれない。

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