見出し画像

釜爺へのラブレターらしきモノ

言葉にできない衝撃を受け、心臓をわしづかみにされたセリフってありますか?
私にはあります。2001年公開「千と千尋の神隠し」の釜爺(かまじい)のセリフです。

「手ぇ出すなら、しまいまでやれ!」

これは当時、主人公の千尋とそう年の変わらない子どもだった私を震わせる一言でした。

「きちんと責任をもつことは大切だ」
「最後までやりとげることは偉い」

あまりにありふれた言葉で、私にとってもよく耳にしたり、物語のテーマにもなりやすい特別新鮮味のない言葉です。

ところが、大きなスクリーンから突然投げかけられたその一言は、子どもの私を心底から震わせるのに十分過ぎる力を持っていました。

電気ショックならぬ「釜爺ショック」を受けながらも、その後次々と展開するストーリーにすっかり夢中になり、かわいい坊ネズミに癒され、湯婆婆の恐ろしさにおののくなどしているうちに、映画の終盤には「釜爺ショック」は、身を潜めてしまっていました。

しかし、「釜爺ショック」として私の心の奥に入り込んだ釜爺は、しっかりと住み着き、時おりその時の衝撃と共に顔を覗かせることになります。

「もう、このくらいでいいだろう。」
「あ、あの人困ってる。手伝ったほうがいいのかな。」

主にこの2パターンの状態に遭遇すると、私の意識を、占領してあの髭もじゃのジジィが大きな顔をして吠えるのです。

「手ぇ出すなら、しまいまでやれ!」

これは、びっくり。
いつしか、私が気弱になったり怠け心を出すと、釜爺が一喝するという厄介なルーティンが出来上がっていました。

このジジィの支配力は凄まじく、うじうじとした中途半端な気持ちになった私を
「しまいまでやるんだ!」
「気づいたなら、行動にうつせ!」
と、突き動かすのです。

釜爺は言ってしまえば、架空の存在です。私が何をしようと、釜爺はがっかりしないし、私だって釜爺にどやされることもありません。
ところが、どうしてこうもあのジジィに抵抗し難いのか不思議でなりません。

そこで、ちょっとこの謎について考えてみることにしました。


思い当たったこと その①

私自身、中途半端な人間だという自覚があるから。

なんといっても、私は飽きっぽい性格をし、三日坊主ならぬ1日坊主のこともよくあります。やりたいと願って買ってもらった電子ピアノも、すっかり物置と化しピアノから不穏な空気が立ち上るのを見てみぬふりをするなど、この不名誉な実績は両手に余るほどあります。

このような性質の私を釜爺はあっさりと看破し、ありがた迷惑にも主人公の千尋をさしおえて、私個人に一喝してきたとしか思えません。

私につきまとう後ろめたさにドンピシャはまったセリフだったのです。


●思い当たったこと その②

惚れた弱み 疑惑。

出会って間もない、それも髭もじゃのうえ、シュルシュルと伸びる何本もの腕を持つジジィに、子どもの私は一種の一目惚れに近い念を持ったのではないでしょうか。

だって、どうでもいいやつか、気に入らないやつから、そんな偉そうに怒鳴られたら、気にも留めないか、反発するかじゃないですか?

それがこう、律儀にも奮起させられたり、突き動かされたりするのです。それも、20年も!

ちょっと信じがたい考察結果ですが、そう考えると、納得できる部分があります。
それは、厄介なジジィが大声で叫ぶと、とっさに私は
「がっかりさせてはいけない!」
という思いが湧いてくるからです。

宮崎駿さん、なんてジジィをつくってしまったんですか、、


もちろん、いくら惚れたからといっても、時には私だって、釜爺に逆らうこともあります。
しかし、たいてい私はこの声に従います。

それは、結局逆らってもモヤモヤと思い悩むことが多いからです。
また、背中をドンッと押してもらえたことで
「ありがとう」
をプレゼントしてもらえることが多いからです。

この「ありがとう」は、「わぁー!昨日やっておいて良かった!昨日の私ありがとう!」と自分自身への感謝や、お手伝いした人からの「助かったよ、ありがとう。」の言葉だったりします。そして、笑顔のおまけまでついてきちゃったりします。

やるなぁ。釜爺…。
ありがとう。釜爺…。

さて。ここまで、長々と書き連ねてきましたが、つまるところ、何が言いたいかと言うと、

「釜爺、不本意ながらあなたのことが、私は大好きです。」






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?