本を読むキッカケは推理小説
私が最初に本を読み出したのは高校一年の頃である。
確か、松本清張の時間の習俗だったと思う。点と線、黒い画集、清張の後半生の歴史的な本はちょっととっかかりが難しく、あまり読まなかったが推理小説はほとんど読んだ。
その後、大学生になって横溝正史、エルキュールポアロ等々読み、なんともなく推理ものから他の本を読んでいった記憶がある。
そのうち、自分の心に刺さる小説を読んでいないのに気が付き、太宰治を読むようになった。
年齢を経てから太宰を読んだせいか、ハマることはなかった。同時期に、三島由紀夫の仮面の告白と金閣寺も読んだ。他には純文学より哲学的な本を読む様になった。
本来、本当は谷崎潤一郎とかに傾斜すればまた違った本との出会いもあったのだろう。
最初に推理小説から入ったことが、本を読むのに感情を余り傾ける事なく、すらすら読むことができたのではないか。
その可否は別として、純文学から読み始めなかったことが、その後の私の本の読み方を決定した様な気がする。
本は何も無理して読む必要はないのだ、自分で理解できるところで終わってもいいのだと、したがって、私は本を買ってまでは余り読まない。
図書館で借りてきた本を読む、それは読まなくでも、単に誰かが読んだ形跡のあるのが好きだったのかもしれない。
図書館に行って、その場の雰囲気、タイトル、表紙を見て借りるタイプ。
私も学生時代から何度か引っ越したが、たいがい住んでいる近くに図書館があったことが幸いした。
本は図書館から借りてきたものを眺めておくだけでもいいのだ。さわりだけでいいのだ。と、自分で勝手に納得していた。
ほんの1箇所でも自分が納得すればいいものと考えたから、乱読である。
ただ、太宰治だけは違っていた。同じ故郷であり、母親の実家が太宰の生家に近いこともあり、特別な感情があった。
つい、最近、なくなった私の母方の叔父に会った際に太宰の津島家の事について聞いたら、叔父も太宰の家に何度も行ったことがあると話しをしていた。
母親が生前、津島家と私たちは遠縁の親戚だと話していたが、
叔父からの話も聞いて、我密かに喜んだ次第ですね、なるほど、太宰が好きな理由がわかったと。