堀井和子「小さな家とスイスの朝食」

小さな家は、もちろんコルビジェの、レマン湖畔にある建築のことである。書籍「小さな家」をフランス語版と日本語版で愛蔵する堀井は、下調べをよくしなかったせいで(特定の日にちしか中を見ることができない)なんと建物のなかを見ることはできなかった。タイトルに入っているような場所があっさりと扱われてしまうことに大笑いしてしまうけれど、「朝食」のほうはこれでもか、というくらい素敵なものが滑らかに記され並んでいく。とりわけ、朝食のパン、晩餐のメインやサラダ。見る、味わうことへのわくわくがこんなにさらっと綴られることの不思議。著者も友人にスイスに何があるの、と問われるが、私としてはこの本を読んで、写真を眺めてほしいといえば充分な気がしている。
スイスに続いてはスペインのバスク地方。ここでも堀井のわくわくは止まることを知らず、パンに、ジャム、ワイン、レストランやバールの魅惑的な料理の数々……。私がとりわけ好きなのは、バスクのクロスについての文章と、「庭の美しいバスクのホテル」の、的確な描写とセンス。何というか、食べもののセレクトもそうだけれど、豪華さではなくて、切実なまでの確かさが彼女の素晴らしい眼差しなのだ、と思わせられるし、窓から見える植物はどんなものがいいか、読む側の好みやセンスへの微かな問いかけもあるような気がして、背筋が伸びる。

この本の最後に置かれたのは、小学生の頃、最後の1〜2年間同じクラスだったとある男の子へのメモワールだ。その後会ったこともない、今まで記憶の底から浮かび上がらなかった人。なぜ、これがスイス、スペインの紀行文のうしろに、と首をひねるのだけれど、最後まで読むとだんだんとその必要性みたいなものが、受け入れられるようになった気がする。ここにあるべきだ、と。
覚えている、とはどういうことだろう。あるいはどういう風にそれは可能なのだろう。ずっと以前の出来事が、現在に挿入されるときに、記憶がもたらす、あるいは記憶に近づくときにもたらされる感情はどんなものだろう。
この30年前の記憶について、彼女は「澄んでいて、速く伝わってくる。少しおかしくてとても懐かしい。」と書いている。それは、私が彼女の観察、思考、文章に感じるそのものでもある。「しりたがりや」な堀井和子は素直にそこへ向かっていくし、その文章をゆっくり追っていくとき、読む側もまた、構えずにすっとそれを受け取れる。
読み終えて、また最初からページを繰って行く。公文美和のおっとりとした、しかし同時に凛とした光を纏った写真が、目にするものに特別なフィルターをかけるように、堀井がスイスやバスクから持ち帰った記憶たちを輝かせていることに眼を見張るだろう。堀井和子のまなざしは、シンプルなだけではないシンプルさで、美しい。
これは恋ではない。では何か、というひとつの答えを見た気がする。

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