堀江敏幸「熊の敷石」

リアルタイムで追い始めたわけではない(いや、いったい私はリアルタイムでつぶさに誰かの作品を追った、あるいは追っているなどという事実は未だ嘗てないのだけれど)作家の初期作に手を伸ばすのはどこか億劫だ。作風が違う、独特な青さがある等遠ざけてしまう理由には事欠かない。しかしこれはある程度のキャリアがあるからそう言えてしまうわけで、僅かな作品を残して筆を置かざるを得なかった作家には当て嵌まらないはずだ。そして、音楽作品においてよく言われるように、デビューアルバムにはそのひとの全てが詰まっている、初期作にしかない輝きと魅力があるという事実もまた否定し難い。
私はというと、作品をコンスタントに出している作家の初期作はついつい後回しにしてしまう。集中してひとりの作家を、ましてや発表順に読むなどまるで不向きな乱読型。平松洋子の言う「野蛮な読書」そのものだけれど、それが後から来た者の特権のはず。
さて、堀江敏幸の第三作目に漸く手を出してみる。パッと目につくのはこれが長編でも短篇集でもない三つの小品集だということだ。中篇というにはこじんまりとした「熊の敷石」「砂売りが通る」「城址にて」は、これ以上でもこれ以下でもない適切なボリュームが見事だと思う。もう一篇含まれていたら少し食傷しただろう。
「熊の敷石」と「城址にて」は堀江作品にお馴染みの(そして段々と比率が少なくなっている)記憶装置としてのフランスが魅力的な作品。そして、その後の堀江作品より、前のめりというか、対象への距離が近いと感じる。韜晦や思索も込み入っていないし(もちろん易しいということではないが)、随分ストレートだな、と思う。行動のあり方がなのか、文章そのものが、なのか。あるいはその両方か。とくに最後まで走りっぱなしな「城址にて」。様々な伏線を回収して進んでいく「熊の敷石」。どちらも昏さが時折掠めるように過ぎていき、それが少しづつ重ねられる重石のようでもある。登場人物たちの齟齬は、ヒヤリとするところをギリギリあたたかい思いやりで掬っていく。
妙齢のちょっと個性的過ぎる女性たち、友人たちの何かがずれた新しい家。そして友人たちやものごとに諦めがありつつも丁寧に視線を向ける、というのがこの二篇に共通の特徴かもしれない。
そして中間の「砂売りが通る」。砂浜をただひたすらに歩き、やがて砂の城をつくる。それだけのことに、たくさんの記憶が織り込まれていく。淡々と記される友人の妹のこれまで。彼女が「砂の城」をつくることに託してきたことは何だろうかと気になる。彼女がこれまでしてきたことは砂の城をつくる「ような」ことなのかもしれない。彼女が壊れるとわかって作ることを「はかなさと表裏した奇妙な達成感」と表現したことには頷くしかない。
横溢する記憶と現実を前に戸惑いや諦めがあって、積み重なったものはやがて砂に還るのか、蜃気楼のように気づいたら見えなくなってしまうのか…堀江敏幸というひとは一時のことに記憶のレイヤーを生じさせて独特の距離感を生み出すのが本当に上手い。

私はこの本の端々にある奇妙さ、そしてそれゆえにこちらの心を揺さぶる何かに、レイモンド・カーヴァーに共通するものを感じて意外な気がした。
少し例外的な作品だと思ったけれど、読みやすさと余白が好もしくて案外最初の一冊にいいのかもしれない。文庫本の、川上弘美の解説も必読と言って良いだろう。

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