堀江敏幸「燃焼のための習作」

堀江敏幸「燃焼のための習作」を読む。私は堀江さんの文章がとても好きだ。にも関わらず、手軽に買える文庫であっても未読のものが結構ある。なんだか一気に読むのが勿体ないと思ってしまうのは何故だろう。そろそろかなと思ったときに小口に指を掛け、取り出す。なるべくちびちびとやりたい。そういう距離感と時機の到来を心地よく感じるのだ。
最初のページの片隅に記された枕木、という妙な名前で、「河岸忘日抄」に登場したあの枕木さんかと膝を打つ。豪雨の中足留めされ、便利屋みたいな探偵(ほんとうは逆かもしれない)の仕事場で、アシスタントと依頼人の3人は道草を続けるように会話をし、記憶に光を当てていく。当てた光に照らされたものは、薄ぼんやりしたまま堆積していく。行き先の分からない話題たちは冗長に思えることもあるかもしれないが、このようなやり方でしか確認できないこともある、と頷くしかない。
風に晒されて角が取れたようなまあるい思考が少しずつ重なり合い、記憶の在り方やその確かめ方を掘削していく様はやはり「河岸忘日抄」に連なるものだなと感じるし、そこで語られていた「記憶は繰り返し思い出されあるいは語られることによって単なる過去の情景ではなくなる」ことの一例というか逆再生のようだ。昨年Wiredの記事で読んだ、記憶は脳のシステムそのものであるという足元に転がっていたものをようやく視界に捉えることができたような驚きを持った一文を思い出す。
枕木、郷子さん、熊埜御堂氏、三人とも河岸に係留する舟のようにその場を動かない。語られるのは、不在の人々の過去の動きである。それらを誰の目で見たのか、忘れてしまうくらい私は「不在の記憶」を積み重ねてこの本を読む。
時々挟み込まれる彼らの体調と気候の変化によって、時計の警告音のように目の前に在ること、それを他者とともに認知することの希少性(それがどんなにありふれたものであっても)に行き当たる。
彼らはいったい何を点検していたのだろうか。
私はと言えば、彼らの眼と思考を通して、不在の記憶に通ずるトンネルを掘り進むレッスンを受けているような気分になった。燃焼のための習作、それは一抹の苦みとともに時間や意味をひょいと躱してしまい他所に消えて、謎を残す。謎をどこかで受け入れること。それは紛失したネジの不確かな穴をじっと見つめ、やがてどこかから別のネジを拾ってくることでもある。
枕木の、その風采に似つかわしくない滲んだ詩性を、その生々しさの薄い生々しさを、ゆえに馴染み良い味を持ったものとしてとても好もしく思う。
2020年のこの状況に少し重なるような物語としても読めてしまうのは良いことだろうか。躊躇はするが、そう信じたいという微かな声を正直に残しておきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?