石田千 屋上がえり

私はどんな季節でも散歩が大好きだけど、こんな風に屋上を訪れてたのしむという嗜好は持ち合わせていない。そして生活環境外にある屋上にあがるのが好きだ、というひとに今までお目にかかったこともない。いや、本当は屋上愛好家は進んでそれを表明することはないというだけなのかもしれないが…。
屋上というのは建築のなかでも非日常に属するのではないだろうか。普段は立ち入り禁止だったり、権限がないと行けない場所。逆に自由に立ち入れるとしたらそこはなんらかの商業施設か規則のゆるい学校、あるいは建物まるごと所有するような企業。建物のなかでも一番わざわざ行く場所に集う人々は、著者が言うように確かに「道ですれちがうひとは、その日かぎりと思うのに、屋上で会ったひとには、また会えそうな気がする。」
目的といえばそうだし、少しだけ目的の手前にあるような浮遊感ある空間。石田千がぱっと捉える光景は、その興味のあり方をさっと掬いあげて綴られていて早い展開でも自然とその視線と思考に同期できる気がする。
翳りがありつつさっぱりしたユーモアにはいつもクスリとさせられるし、彼女の観察対象からいきなり彼女が何かを受け取って行動に結びつく瞬間にはハッとするぐらいリアリティがある。遠くでぼんやり鳴っていた音楽が急に耳元でくっきりとその細部をあらわすとでも言えばいいだろうか。
そしてなんといっても彼女の行動範囲が自分と重なるので、あそこにそんな光景が、という親近感のある驚きがある。上野、浅草、新宿、池袋、銀座、渋谷…。

屋上がえりは「たのしい」のだろうか?いや、どうだろう。たのしいとはちょっと違うんじゃないだろうか。それはまだ想像でしかない。そこに行かないと見れない光景。建物にいるのに外にいる感覚。たまたまそこに居合わせるひと。少し淋しげだったりぶっきらぼうなものたち。
私もしっかり「屋上がえり」をしたくなってきてしまったようだ。

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