多和田葉子「百年の散歩」

松永美穂さんが解説で書かれているけれど、ベルリンにはなんと多くの通り(や広場)があることだろう。つぶさに調べたわけではないが、本書の各編に付された題には人名を冠した通りの名前も多い。私はかなり散歩が好きな方だと思うけれど東京で、そんなところをパッと挙げることはできない。それともごっそり記憶から抜け落ちているのだろうか。それはそれで興味深いことではあるけれど。
散歩とは観察の目のことだと思う。ここでも「私」が普段からよく来ている場所にも関わらずこれまで見落としていたことや、思考に吸い寄せられたように目についたものが並んでいく。しかしみることは現実だろうかという問いもまたある。幻想や幻視であることが明示されているところもあるが、では他のところがそうではない、という保証はない。くどいくらいステレオタイプに描写される「彼」は多分に妄想的であり、明確に「私」の他者感を反映したもののように思える。「私」は歩くことで他者と触れ、他者の物語に生き、いっとき同じ皿の上に並ぶ。
歩くとき「私」は外部者であり続ける。あくまでも外側から、あらゆることを見ている。そして、ひりひりとした馴染めない感触が常に漂っている。たのしい気持ちは夢の目覚めのようにあっさりと絶たれ、気紛れに立ち寄った飲食店ではまずいものばかり出てくるし、歴史が自分の内面と響き合ったとしても3分に満たないポップソングのようにエンディングが用意される。
彼女が楽しんでいるのは、発見の鮮やかさと、自身とそのものごとのそぐわなさの両方なのではないか。
「わたしのベルリン」がここにはある。それは誰かのベルリンと重なるようで重ならない、あるいはまた逆も然り。都市とは都市生活者の夢の集積とするなら、彼女のそれは、違和とともに新鮮な感覚を一滴落としてると言いたい。
誠実すぎる足取りがあちこちに痣をつくるように進んでいくさまに、何もそこまでとハラハラしながら読み進んだのだけれど、本編最後の都市からはみ出していく思考をどう捉えればいいのだろう。
「彼」のように、届かぬものとして彼女のベルリンはあったのだろうか。外側にあるのは非都市、自然、田舎というのは短絡過ぎる捉え方な気もする。
彼女の中で何が終わってしまったのか、と考えてみる。切断を伴う衝撃、刺激のための刺激、憧れとしての他者、そういったものは彼女の合わせ鏡でもあった。
それはいつでも、ベルリンで彼女は誰なのかという事実を突きつけているようだ。通りから通りへ歩き続けたどこかで、もうざらりとした差異を自らにぶつけなくともよくなったことに気づいた瞬間があるに違いない。
私にも覚えがある。時が過ぎることを祈ること。数をただ数えるようにして時を過ごすこと。終わったと気づいたときに終わる類のことがある。
彼女は目と足でなぞることを更新した。それは「彼」へと通ずる道を行くことではない。もはや彼女はベルリンに夢を見る、あるいは夢見られたい(理想の達成)のではなく、彼女の都市が夢のように立ち上がる。あるいは書く内容ではなく書くことそのものを味わうように歩き始めたと言えないだろうか。
ある意味ではメタ散歩を提示した小説なのだ、と思えてくる。あるいは都市空間との接触の諸断面をパーソナルに捉えた疎外小説。
外を歩くということが今までとはまったく違ってきた今年、散歩そのものをあらたに経験し直したような一冊だった。そこにあるのは安易な親密さではない。あなたは誰なのか、どこにいるのか、なにを見ているのか、と問われている気がする。返す言葉には、柔らかくない沈黙が待ち受けているだろう。彼女はこれから何をどうみるのか、私たちは何を。
今日も孤独な魂が、マスクをして逍遙しているだろう。

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