見出し画像

【~連載~静岡の歴史を学ぼう120】Construction of the Sumpu Castle and ‘Tenka Bushin’ 駿府城の建築と「天下普請」

※ この記事は「静岡移住計画Facebook」に掲載しております。
上記の写真は 「駿府城 巽櫓・東御門」静岡市提供です。



ゴールデンウィークは天気も良く、まさに行楽日和。駿府城公園でもイベントがおこなわれます。

散策にも良い季節。このような歴史を知るとより楽しめるのではないでしょうか。

Construction of the Sumpu Castle and ‘Tenka Bushin’

駿府城の建築と「天下普請」

Tokugawa Ieyasu started an expansion work of the Sumpu Castle in February 1607 after his retirement as the shogun.

徳川家康は将軍を引退後、1607年の2月に駿府城の拡張工事を始めました。

将軍引退後、大御所時代の家康公像

The construction proceeded rapidly.

工事は急ピッチで進みました。

Lord Ieyasu ordered all daimyo (local lords) across Japan to participate in the constructions initiated by the Edo feudal government.

家康公は日本中の大名に江戸幕府が始めた工事に参加知るよう命じました。

The nationwide project was called ‘Tenka Bushin’, which literally translates as ‘the construction ordered by the shogun’.

全国規模のプロジェクトは「天下普請」と呼ばれました。文字通り、「将軍によって命じられた工事」と訳されます。

Aside from Sumpu Castle, many castles such as Nagoya Castle, Hikone Castle, and Zeze Castle were also built under this order.

駿府城の他に、名古屋城、彦根城、膳所城など多くの城がこの命令の元、建てられました。

名古屋城 提供:名古屋市

Infrastructures such as roads and levees were also constructed under this policy.

道や堤防のようなインフラもこの政策の下、建設されました。

Tokugawa Ieyasu took advantage of ‘Tenka Bushin’ to control the daimyo.

安倍川の洪水を防ぐために家康公が作らせた堤防「駿府御囲堤」(薩摩土手)静岡市葵区

徳川家康は「天下普請」を大名統治のために利用しました。

The nationwide project forced daimyo to pledge their obedience to the Edo feudal government and reduced their financial power and capacity to rebel against the government.

その全国規模のプロジェクトは大名に幕府に対して忠誠心を強制的に示させ、幕府に対して反逆する財政的な力を減らしました。

Lord Ieyasu succeeded in developing castles and controlling daimyo effectively at the same time.

家康公は城を建てることと大名を効果的に制御することを同時に成し遂げました。

駿府城跡天守台発掘調査現場にて   慶長期(家康公大御所時代)の石垣


It seems that the biggest reason behind the ‘Tenka Bushin’ was to handle the remaining Toyotomi family members.

「天下普請」の背後にある一番大きな理由は残った豊臣家の人々に対処することでした。

Toyotomi Hideyori and Yodo-dono (Hideyoshi's son and concubine respectively) were still residing in Osaka.

豊臣秀頼と淀殿(秀吉の息子と側室)はまだ大阪にいました。

豊臣秀頼 肖像画

There was a threat of the remnants of the Toyotomi clan attacking the Tokugawa clan.

豊臣家の残党が徳川家を攻撃する恐れがありました。

Sumpu was located between Osaka and Edo.

駿府は大阪と江戸の間にありました。

So as a military strategy, Tokugawa Ieyasu had to reinforce the Sumpu Castle and the city to protect Edo.

ゆえに軍事的戦略として、徳川家康は駿府城と駿府の街を江戸を防御するために再強化する必要がありました。

No bridge was built over the Oi and Abe rivers to restrict access to Sumpu city.

大井川と安倍川に橋を架けることは禁じられ、駿府の街にやすやすと入れないように制限をかけていました。

歌川広重「東海道五十三次 嶋田 大井川駿岸」

参考文献:見て 歩いて なるほど!「駿府城」まるわかり 静岡市

参考資料:「大御所四百年祭記念 家康公を学ぶ」 

 制作統括 元大御所四百年記念祭推進室 専門員 黒澤 脩 



この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?