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ルイーズ

 
 アンヌはずっと、転校生だった。

 物心ついた頃から引っ越しばかりを繰り返して、同じ場所に2年以上暮らしたことはなかった。慣れない土地へやって来て、ようやくいつも通る道、いつも見る看板、庭先に繋がれた犬、クラスメイトの顔ぶれに馴染んできたと思ったら、またもや知らない土地でまっさらな白紙に戻される。1から覚え直し。住所だって何度も間違えて書いて、行き先さまよった郵便がその度に返されて来た。自分が今どこにいるやら、わからなくなるからちゃんとメモして持ち歩いてないといけない。犬と仲良くしたって別れがつらいし、人の名前を覚えても無駄。そんな理由で、この海辺の町にやって来た当初も、アンヌに友達を作ろうなんて気はさらさらなかった。

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 転校生が無条件にもてはやされるのは最初の1週間くらいで、その後は人柄の良さとか協調性の有無とか話の面白さとか、そういうものによってクラスに溶け込めるか否かが決まる。といってもアンヌは最初からもてはやされるような子ではなかった。まず笑顔が下手。顔も地味だし、声が小さくて愛想も良くない。転校初日といえば、小声で早口に自己紹介を終え、教室の床の木目を見つめながら席に戻って、誰とも目を合わさずに今度は机の木目を見つめ出すのがお決まりのルーティン。そんな子に話しかけようなんて勇者はよっぽどの向こう見ずか空気を読まない質の子だけで、大方すぐに興味を失くすとわかっていた。ひとときばかりの友達なんて、作っても何にもならない。どうせ引っ越したらどこの誰だか、ごちゃごちゃになって忘れていくだけ。だからアンヌは、また引っ越しする日が来るまでずっと、自主的に転校生という異分子であり続けた。

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 けれど今度の転校は、いつもと何かが違っていた。終始伏し目なアンヌの態度にも怯まず、明るく澄んだ声で話しかけてくる子がいたのだ。これまで通り、当たり障りなくさらりと会話を切り上げるつもりだったアンヌは、用心深く俯けていた顔を上げて、彼女のきらきらした瞳に見つめられた瞬間、見えない意思の力に引き込まれるようにそらせなくなった。その子の名前は、「ルイーズ」といった。


「おはよう転校生さん。ご機嫌いかが?」
「え、ええ・・・あなたは」
「とっても元気。あなたとお友達になってもよくて?」
「でも私、すぐいなくなるわ」 

アンヌの返事を聞いたルイーズは、くすくす笑って手を振る。

「そんなの、私だっておんなじよ」
「あなたも転校生?」
「ちがうわ」
「じゃあいなくならないじゃない」
「みんないつかは、いなくなるのよ」


 ルイーズが何を言いたいのか、正直よくわからなかった。でもこれがルイーズの通常運転なのだとしたら、あれこれ推測しても仕方ない。アンヌはそんなことより、彼女の瞳の吸い込まれそうな美しさに惹かれて、それまで想像もしなかった「友達になりたい」という思いが湧くのに気づいたけれど、言えなかった。友達じゃなくてもいいから、ただずっと見ていたいと思った。するとルイーズは軽やかに笑って、アンヌの手を取った。

「どうぞよろしく、新しいお友達さん」

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 ルイーズの瞳は、自身を含め、アンヌがこれまで見てきた人間のものとは輝き方がまるで違っていた。それは、コバルトブルーの湖に粉々に砕け散ったガラスが浮かんでいるような、そうでなければ誰も知らない海岸の、岩礁の窪みに溜まった海水に映る星空のような瞳なのだった。この瞳にアンヌはひどく心揺さぶられる思いがした。また不思議なことにルイーズは、初めて会う子であるのにどことなく、なつかしかった。巻き貝のような耳の形も、つんと上向きの鼻も、すべらかに透き通った肌も、白にほど近いブロンドの髪も。美しいことは確かだけれど、どうにもそれらが、初めて見るものでない気がしてならなかった。

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 その日から、アンヌにとっては初めての、友達のいる学校生活が始まった。ルイーズはアンヌと正反対に、よく笑ってよく話す子だった。何を見ても何が起きても、いつも楽しそうにしていた。ルイーズはアンヌの真後ろの席に座っていて、授業中にメモを交換したり、髪を梳かし合ったり、わからない問題を教え合ったり、キャンディを分け合ったりして過ごした。ある日、アンヌが先生の話のつまらなさに頬杖をついて窓の外を眺めていると、肩をたたかれ、「先生、話はだめだけど顔はロベスピエールに似てる」とノートの端に書いて見せてきた。それまで人の顔をろくに見てこなかったアンヌは、初めてちゃんと先生の顔を見て思わず吹き出しそうになり、教科書に顔を押し付けて耐えた。またある時は、体育の授業が憂鬱なアンヌに、ルイーズはこんなことを教えた。

「アンヌ、一緒に影絵しましょう」
「影絵?」
「今日は鉄棒だから先生も見ていないし、ばれないわ」

そう言うとアンヌの腕をひき、陽の当たる校庭の隅まで連れていった。

「まずは私から。アイ」

ルイーズは真横に伸ばした2本の腕を折りたたむように、両手を頭に乗せてみせる。地面に目を落とせば、大きな瞳のシルエット。

「ほら、あなたの番」
「アイ・・・」

大きな瞳の隣に、少し遠慮がちな瞳が並んだ。

「アイズ」
「誰の目かしら」
「私達を見てる、女神様」

今度は両手を頭から水平にあごまで下ろして、

「女神様のウインク」

私もルイーズの真似をする。

「まばたき」

ルイーズが手のひらをひらいて、

「女神様の、睫毛」

 ふたりが笑うと、影の女の子達も一緒に笑った。それから色々な形を作るうち、他の生徒にも見つかって、いつしか鉄棒を放り出してクラスみんなで影絵大会になった。結局先生にばれたけれど、ルイーズは先生まで仲間に入れてしまい、「先生は背が高いから」と彼女のリクエストでピサの斜塔を作らされていた。

 ルイーズと一緒にいると、アンヌはいつも楽しかった。彼女のいない学校生活を、今ではほとんど思い出すことさえなくなっていた。

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 アンヌはもう、ルイーズと出会う前のアンヌではなかった。自分がこんなに笑ったり泣いたり心から喜んだり出来るのが不思議で、嬉しかった。昔は何を見ても、ただの景色だと思っていた。どんな人も物も言葉も、手を上げないまま目の前を通過していくタクシーみたいに一瞬の関わりしか持てなかった。水捌けのいい乾いた砂地には、何の花も木も育たない。友情も愛情も、注ぎ方さえ知らなかった。日々の出来事はその場かぎりの記憶にとどめ、最低限の内容を把握しておけば困らなかったし、何より楽だった。よく見かける鳥。家からずっと西に進むと海。風がつよい。隣の席のローリーは宿題を見せる代わりにハーシーズをくれる。先生はそんなに怖くない。夏休みが長い。図書館にはあんまり良い本がない。アンヌの中でそれらはどれも並列な、温度を持たない情報として処理されていた。

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 ふわふわ羽ばたく蝶の夢のような日々は、捕まえようといくら走っても次第に遠ざかって、ふと気がついた時には追いつけなくなっている。その日の朝、いつものように学校に来たアンヌは、信じ難いニュースを聞かされた。ルイーズが海に落ちた。騒然とした教室で、誰も彼もが瞳孔を開いてルイーズの身に起きたことを話していた。みんなの交わす潜めた声が、ひどい耳鳴りのようにうるさくこだまする。

「待って、落ちたってどういうこと?」
「落ちたんだよ海に。今、病院だって」
「いつ、それいつの話」
「昨日の夜。ひとりで行ったらしい」
「病院に運ばれたのは朝で、息してないって」


 嘘だ。何それ。あの子がひとりで海に? 何で?
頭が回らなかった。ルイーズはおふざけでも根は真面目でしっかり者だし、そんな馬鹿な真似をしたりする子じゃない。ロマンチストだったけど、まさか夜中に海まで月を見に行ったってことはないよね? 昨日だって一緒に帰って、今夜は満月だからみんな魔法が使える日って嬉しそうにしてたじゃない。嘘だ嘘だ、嘘って言ってよ、お願いルイーズ・・・

 アンヌは居ても立ってもいられなくなり、教室を飛び出した。廊下を走りに走って、向こうから歩いてくる驚いた顔の先生が引きとめるのも無視して、階段を転げ落ちるように校舎を出た。そのまま校庭を突っ切って校門までひた走り、向かった先は市民病院のある方角ではなく、海だった。乱れた思考の中でよろめきながら、アンヌはまっすぐ海へ導かれるようにして走った。

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 海沿いの町を駆け抜けるうちに人家より草地が目立つようになり、そこから徐々に視界が開けて、朝の光をいっぱいに浴びた蒼い海が広がった。穏やかな初夏の、いつもと変わらない海。遠くの汽船がはいた煙がそのまま雲になって浮かんでいて、ほとんど静止画に見えた。風が吹く度に潮の匂いがして、すっかり乾ききっている打ち上げられた海藻を踏んだら粉みたいにバラバラになった。規則的な波が倦むことなく、ざざん ざざんと互いに力を打ち消し合っている。この町の、砂浜のない岩ばかりの海岸をアンヌは好きになれなかった。この海は、海水浴には向かない。人が立ち入らないので綺麗だったけれど、波打ち際まで行こうとしても堅くて黒々した無数の岩が行手を阻んできて、少しでも足を滑らせばすぐ怪我をする。でもルイーズはなぜかこの海岸が大好きで、「私達の砦」と楽しそうに呼んでいた。学校が終わると、ルイーズは気乗りのしないアンヌを引っぱって海まで連れて来て、小さなヤドカリや岩に咲く花を多く見つけた方が勝ち、と言ってはふたりで競争をした。

 アンヌはまるでルイーズがまだそこにいることを期待するかのように、岩から岩へ、昔ふたりでした宝探しやかくれんぼの続きのように、ルイーズが空洞になった岩壁のどこかに隠れていないか、祈りにも似た気持ちで探し続けた。彼女は今、病院のベッドにいて、息をしていなくて、もうこの世にはいないのだという事実が、黒いペンキで何もかも塗り潰そうとしているのを頭の隅でわかっていながら。それら全てに背を向けて、馬鹿になったみたいに、狂ったみたいに、何度も足を踏み外しては身体を傷つけながら。


 そうしてやっと、海に突き出た岩の先端まで辿り着き、そこからアンヌは海を見渡した。相変わらず穏やかで、塵ひとつない綺麗な蒼。とその時、何か小さな物がどこかから流れてきて、岩礁の縁に打ち寄せられたのに気づいた。ぷかぷかとそれは、無抵抗に波に揺られている。

 そろそろと岩を伝って、アンヌは海の近くまで下りて行った。小さなものは、近づいて見ると人形のようだった。ブロンドの髪に蒼い瞳、ストライプのワンピースを着た女の子の人形。海から拾い上げてじっくり観察すると、ここに流れ着くまでにおそらく何度も波に擦られたのだろう、顔は薄汚れ、布地は日焼けしてくたびれて、ほつれかかってはいたが、ワンピースに文字が縫い取られているのが見つかった。"Louise"。確かにそう読めた。それから、この人形の目。蒼くて深い、星空みたいに燦くその瞳は、ルイーズの瞳にそっくりだった。それを見た瞬間、アンヌは思わず小さく叫び声を上げていた。長い間忘れ去っていた幼い頃の記憶が一度に押し寄せてきて、全てを思い出したのだ。

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 それは7年前の、季節はやっぱり初夏だった。

アンヌはその時も引っ越して来たばかりで、両親に手を引かれて見慣れない町を歩いていた。アンヌのお父さんは貿易船、お母さんは病院の受付に勤めていて、普段はあまり家にいない。でもこの日は久しぶりに家族揃っての外出で、両親とも機嫌が良かった。海辺の商店街の、舶来物を取り揃えた玩具店の前で、上機嫌なふたりは「何か買ってあげる」とお店に入って行った。アンヌはほしい物も特になかったし、子どもがたくさんいる場所が何となく苦手だったから、斜向かいの売店に置かれていた巻たばこの箱を眺めたりして両親を待った。

 戻ってきた両親は、人形を抱えていた。アンヌが喜ぶだろうと思ったのか、その時のアンヌの半分くらいの背丈はある人形の女の子だった。精巧に作られた、美しいガラスの瞳をしていた。両親は「この子と一緒に遊んだらいいよ」と言ってアンヌにその人形を託した。人形は大きさに比べてずっと軽く、金色の髪が潮風にさわさわ靡いた。


 アンヌはこの美しい人形を唯一の友達として遊ぶようになった。最初は大きくて邪魔だと思っていたのが、いつしかどこへ行くのも人形と一緒になった。どんな景色もどんな物事も、アンヌには関係なく思えたけれど、この人形だけは別で、アンヌをまっすぐに見つめるその瞳は、自分を信頼してくれているように感じられた。「ルイーズ」と名前をつけて、拙い手先で人形のワンピースにその名前を刺繍した。


 ある日のこと、アンヌは人形の手を握ったまま、岩礁の上に座って海を見ていた。単調に満ちては引く波が、アンヌの心を落ち着かせた。風はほとんどなく、雲の動きが遅くて、すぐに眠たくなった。こくこくと微睡むうちに、いつしか眠っていた。目を覚ますと、太陽はすっかり傾いて、空全体が紫がかった橙色に染まっていた。その時アンヌははっと気がついて、咄嗟に自分の片手側を見遣った。人形がいない。跡形もなく消えている。おそらく眠っている間に力が弛んで、手を離してしまったに違いない。突き出した岩礁から真っ逆さまに、美しい友達は海へと落下してしまったのだ。アンヌが何度も海に身をかがめ、目を凝らして探しても、その姿はどこにも見当たらなかった。思えばこんな所で眠るなんて、危険な行為だった。人形と一緒に自分も落ちていたかもしれない、誰にも秘密にしておかなくては騒ぎになる。アンヌは人形を失くしたことを、その悲しみと一緒に忘れようと決めた。もともと無かったものが、また無いものに戻るだけなのだから。幸い両親は日々の仕事に忙しく、一向に気づく気配もなかった。

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 あの出来事を、どうして今まで忘れていられたのだろう。アンヌは幼い頃から、物事を記憶に残さないようにするのがあまり上手すぎた。離別の苦しみから身を守る癖がずっとあって、過去を振り返っても白いページが何枚も続いて、自分がどこにいるのか、何が好きで何がしたくて生きているのか、いつもわからなかった。人形のルイーズは、あの頃のアンヌにとってあんなに大切な存在だったのに。あんなに大好きな友達だったのに。傷ついたり悲しんだりしなくて済むように、可哀想な自分を認めなくてすむように、始めから何も無いふりをして生きてきた。だからだ、だからこんなことに、これは天罰なのだ。ルイーズを大切に思っていたこと、私はあの子にちゃんと伝えないといけなかった。手を離したりしてごめんねって、言わないといけなかった。もう遅い。アンヌの世界は、何もかもが変わってしまった。あの子は私をこんなにも、人間にしてしまった。こんなに痛くて苦しくて、どうすることもできない気持ちを知ってしまって、私はどうしたらいい。初めて出来た親友だった。でも、こんな気持ちを知るくらいなら、ずっとずっと、転校生のままでいれば良かったのだ。

 さらさらの砂地だったはずの自分の身体から、水みたいな涙がとめどなく溢れ落ちて、止め方がわからなかった。自分も流れて水になって、全部海に溶けてしまえばいいと思った。

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「アンヌさん」

 自分の名前を呼ぶ声に、アンヌは顔を上げた。クラスの担任の先生だった。ロベスピエールに似てるとルイーズが言った先生。今ではそんな冗談も遠い遠い昔の、ここからは何次元も隔たった場所での出来事に思えて、余計に悲しかった。先生は寂しげな微笑みを浮かべ、静かな口調で話し始めた。


「ルイーズさんの病院に行ってきました」
「あの子は、もういないのですか」
「安らかな表情で、苦しそうではありませんでした。何度も、名前を呼んでいました」
「名前・・・」
「あなたの名前を。それから、ごめんね、魔法はお終いなの。でも、もうあなたは大丈夫よ。という言葉を、繰り返し呟いていました」


 アンヌは人形をしっかりと抱いて立ち上がり、先生の元へ行った。そしてその胸に、顔を埋めて泣いた。今まで両親にさえそんなことをしたのは数えるほどしかなかったのに、あの子のせいで、誰かに縋りついていないと脆くなった中心から崩れ落ちてしまいそうだった。ルイーズの嘘つき。満月だからみんな魔法が使えるなんて言ったあの時、本当は自分だけ魔法を解きに海へ行こうとしてたのでしょう? 私を置いて行ってしまうなんて、私ひとりを人間にして、あなただけ人形に戻ってしまうなんて。ひどいのね。わかってない、私、全然大丈夫なんかじゃない・・・・

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 温かい、先生の体温。手を握っても頬を寄せても冷たいままの、人形のルイーズ。ふたつの身体の間に挟まれて、温かさも冷たさも、知ってしまったこの身体は、どこへも行かれない。ねえ教えてよルイーズ、どうしたらあなたの所へ行けるの。今だってこんな私を、どこへも行けない私のことを、あなたはどこかで見てくれているのでしょう。冷たくてもいい、それでもいいから、私だって人形に、なれるものならそうしてほしい。


 アンヌの瞳からいつまでも、生温い塩水が流れ続ける。少しずつ少しずつ、時間をかけて、海を失くしていくために。一滴残らず流れ切ったら、またあの砂地に戻れるのじゃないかって、ルイーズともう一度出逢えるのじゃないかって、先生の腕に抱かれながら、ぼんやり淡く期待して。

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