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【私の感傷的百物語】第三十四話 電車怪談考

電車とは、本来ならば怪談とは縁遠い乗り物ではないでしょうか。もしも自動車ならば、目的のコースから外れて、暗い路地、山奥、墓場などに移動し、怪異に巻き込まれるというパターンがあり得ます。船の場合でも、バミューダトライアングルのような異界と繋がる海域へと迷い込んでしまえば、即座に怪談が成立する訳です。

しかし、電車はというと、路線の上を車両が走るだけで、迷いようがないのです。停車時間も、走る電車の本数もこと細かに決まっており、遅延があればすぐに分かります。さらに、我が国では深夜以降の時間帯に、通常の列車はまず運転していません。ここまでシステマティックに動き、丑三つ時にはすでに止まっている電車において、怪異の要素はほとんど存在しないかに思えます。

にも関わらず、電車にまつわる怪談というのは世間に多く伝わっています。例えば、本来ならばあり得ない(存在しない)はずの駅や電車が出現するという話です。映画化もされた、インターネットに伝わる「きららぎ駅」がそうで、僕の地元、静岡県が舞台とされています。県内某所に住んでいるという人が、仕事からの帰宅途中に、電車が駅に停まらなくなっていることに気づき、携帯電話でネット掲示板へ状況を投稿します。閲覧者たちとやりとりをしながら、しばらく後、ようやく電車が停車した「きさらぎ駅」という場所で下車をします。構内には時刻表もなく、そもそもそんな名前の駅は検索しても出てきません。周囲は山と野原。徒歩で帰ろうと線路にづたいに歩き始めた投稿者は、その途中でいくつかの怪奇現象に見舞われます。その後、運良く通りがかりの男性と出会って車に乗せてもらいますが、その車は山へと向かっていき、その人物は訳の分からない独り言を呟き出します。携帯のバッテリーが少なくなってゆく中で、「隙を見て逃げ出そうと思う」といった書き込みを最後に、投稿者の連絡は途切れるのでした。

なんとも背筋の寒くなる話ではありますが、「電車が停車した」「携帯電話は繋がる」といった状況であるにも関わらず、どこにいるのか分からないというのは安心と不安の狭間を行き来しているかのようです。そうした中で、徐々に不安が肥大化していき、唯一の連絡手段である携帯電話の電池が切れることで、その不安は頂点に達します。そして、「そこから先のことは一切分からない」というのが、この話の最大の恐怖です。単に幽霊がその場所に出た、といったものではなく、レールも、電車も、駅も、途中の風景も、丸ごと異次元や異界に放り込まれてしまったという、スケールの大きな前提が、ここで際立ってくるのです。前述の電車にまつわる常識をすべて破壊し、怪談物語に仕立て上げる力がこの話にはあります。

もう一つ特徴的な怪談が「最終電車」にまつわる話。終電(あるいは終電間際)の車両内で、幽霊に遭遇するパターンですが、これは以前取り上げた「下校放送」とも似た、「これより後はどうなるか分からない」と宣告されているような緊張感と、どことなく疲労感の漂う雰囲気が、幽霊話との相性を良くしているのでしょう。闇夜の中を走る電車の中、吊革を握りながらこちらを覗く幽霊は、実に怖そうです。

幽霊、で思い出しましたが、踏切や線路でも、よく幽霊が目撃されます。電車での人身事故のニュースは現代でもよく耳にします。なるほど、僕は冒頭で、電車は怪談と縁が遠いと書きましたが、電車にも怪談を生み出す要素が(むしろその整然としたシステムの中に)存在していたのです。電車をはじめとし乗り物はすべからく、人間の「より早く、安楽に移動したい」と欲する業から生まれた影を引きずって動いています。その影は時間と空間を超越し、現実と異世界を行き来させ、事故死した者が目の前に立ち現れてくる、暗く、悲しい影です。

人の生活とともにある限り、これからも、すべての乗り物から、怪談が生まれ続けてゆくのでしょう。

人々のさまざまな想いを背負いつつも、
今日も電車は走る。

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