自分のことを正しく認識するのって難しすぎんか?の話 努力して当然という神話

まあ客観的に見ればそうなんだろうけど、ということがありすぎるので、ここしばらくずっと考えていた。

世には「自分より優秀な人たちといる方が心地よい」タイプと、「自分が一番優秀な方が心地よい」タイプがいると思っていて、私は前者になる。
これは恐らく生まれながらの境遇があると思う。というのも、私は長子でないからだ。上に優秀な人間がいて、それが当然として生きてきた。

私の上は生真面目で、品行方正であり、教師受けが非常に良かった。ついでに見た目も良かった。一方私はといえば、子供の頃から忘れ物と遅刻の常習犯で、宿題はせず、身だしなみも特に整えず、自分でもだらしないとはわかっていたが「それでも勉強は出来てるんだからどうでもよくね?」という可愛げのない人間だった。
子供に対する大人の価値観で言えば完全に上の方が良く出来た子供である。しかしそれは誰かに言われたわけではなく私が自分で勝手に思っていたことであって、上と比べて……といったことを誰かに言われたことはなかった。比べられるにしても「あの人より◯◯だね」と褒めの文脈だったのでこれは周囲の人に恵まれたなと思う。
そしてこの状況は年月と共に変化する。
子供の頃は数年の差が大きかったが、成長するにつれて数年の差は意味をなさなくなる。それどころか、世間的には年長だからといって必ずしも優秀とは限らない。
かつては自分よりはるかに優秀だったはずの上は絶対的な存在ではなくなった。しかし、それでも子供の頃に植え付けられた「あらゆる面で自分より優れた年上の存在」は今なお青々と茂っている。子供時代の幻影が未だに影響して、自分より優れたものがいることの心地よさを手放せない。

自分より優れたものがいる、というのはつまり責任逃れの一つでもあって、「もっと適任がいる」「もっと優れている」といった考えは何らかの重責を担いたくない気持ちの表れでもある。
「だから、出来なくても仕方がない」とハードルを下げる行為になる。
また、何かに優れるというのは飛び抜ける、目立つと同義でもあって、それが良いことか悪いことかは人と、場合による。
それらを複合するとNo.2こそ最良となる。
より上の存在がいつつもそれなりに優れてもいる、という状況は最高に心地が良い。

また、自分より優秀な人たちで構成されていると、あらゆることがオーガナイズされていて、何をなすにもスタート地点が明確になっている。
そして「自分が出来ることは大抵他人も出来る、それでも得意不得意はあるのでお互いにそれを補っていこう」になるので、とにかく息がしやすい。

近年、仕事において「スキルに差はあれど、根本的には自分が最も優秀」という状況になってしまい、ずっと苦しい。
というか、そもそも自分が最も優秀であるという発想がなかったので、どうしてこの程度のことが出来ないのか!?どうして自分の状況を説明できないのか、まともに話し合いや交渉が出来ないのか、自分がやるべきことをやらないのか、全く理解出来ず精神的にかなりきつかった。
特に何がきついかと言うと、別に評価されて昇格も昇進もしていない、なんなら他の人間の方が給料が高い。それなのに、彼らが出来なかった仕事が私に回ってくる。
拝金主義にはこれが特にきつかった。

本当に、同僚たちが何を考えているのか全く理解出来ず、どうしてやらないのかと思っていたが、「やらないんじゃなく、出来ないんだと思うよ」と言われて初めて、自分が出来る側の人間であることに気づいた。
私は平均80点を取れても95点と30点が混在しているような人間なので、自分のことをつい30点しか取れないと思っていたが、平均が60点で概ね60点前後でまとまっている人と比較した時、職場という評価する面が限られる場で本当に30点を自分の評価として考えていいのか?となると変わってくる。理屈はわかる。理屈はわかるが、まだ納得していない。
自分がどれだけ出来ないかは、自分がよく知っているからだ。

このことに関して、前職で先輩に言われた言葉を思い出した。
私は先輩方に教えてもらっても同じミスをしてしまい、あまりの不甲斐なさに悔しくて泣きながら帰ったことがある。先輩は何度でも指摘してくれたし、何かを直したところで別でミスしてしまっても、繰り返し指摘してくれた。
先輩がある時「言ったらすぐ直してくれるし、すぐ覚えてくれるからすごい」と褒めてくれた。私は、当たり前のことでは?と思ったのでどう答えたものかと困った。しかし、他の先輩方も口々に褒めてくれた。その先輩方はトリリンガルやマルチリンガルの中国人で、日本語も方言と標準語を使い分け全く問題なく話す、私としては途方もなくすごい人々だった。その先輩方に比べれば私は役立たずもいいところだったが、ものすごく褒めてくれたのが印象的だった。その時はあまりよくわかっていなかったが、数年を経てようやく「指摘しても全然直さない人間が世の中にはいる」という現実に直面して意味がわかり始めた。

最近ようやく自覚したことの中に、「努力して当然という神話」を固く信じている、ということがある。
そもそも私は何事も効率的に行うのが好きで、そのためには大抵努力や工夫が伴う。そのためには根回しや交渉もする。また、より質がいいものを求める傾向にある。よって、副次的な意味で努力が好きらしい。私は長年自分を怠惰極まりないと思っていた(思っている)ので、この気づきはかなり大きい。
子供の頃はとにかく宿題をやらない子供だった。家事も嫌いなので可能な限りしない。それらはやりたくないからやらないのであって、私は好きで努力していることになる。また、好きで努力しているので、好きでもないことや、自ら望んでいるわけではないことは全く努力しない。
よく考えてみると、自分の人生を振り返って「何も頑張っていない時期」というのがほとんどない。無職の頃でさえ長時間勤務でボロボロになった体の回復に努めていたと言えなくもない。
過去には、「仕事から帰ってまったりしてるだけもなんだから、何か資格でもとるか…」と思ったりもしていた。なお、この時間は後にゲームに吸い取られた挙げ句、仕事が大変なことになって消失した。そして消失したが無理やり捻出してゲームするはめになった。余裕を持っておくことは大事だ。

この「努力して当然という神話」は何かと「頑張れ」と声がけすることが多い日本に広く認知されているものだと思う。そしてそれは昨今「努力が報われた成功体験がある者が言いがち」であるといったことも指摘されている。
まあそう言われれば大体報われてきたな……とも思うし、要領がいい(いかにして手を抜くかを常に考えている)ので自分の性能から努力するポイントを見極めるのが上手いのもあるかもしれない。そして、「この領域には行けないな」と先に上限を見てしまい、そこを越えようとはしないので報われているように思う。報われるというより、自分が思う通りに自分のスキルツリーが伸びていく感覚に近いかもしれない。
相対評価における自己評価はズレているが、自分には何が出来て何が出来ないかという絶対評価においてはそこそこ正しいのかもしれない。ここはまだ少し、要観察の部分になる。

努力するのが好きだがそれは趣味の範疇の話で、努力すること自体が楽しい。「出来るようになる」という楽しさを感じている。なのですぐ趣味の話にも努力を持ち込もうとする。
私は文章を書くのが趣味で、いつも「もっと上手くなりてえ〜!!!!」と思っている。趣味なので書く事自体を楽しんでもいるものの、もっと上を目指そう!!という謎の努力根性がある。文章を書くのが好きなのはもともとそれなりに出来て、さらに「◯◯が出来るようになった」という手応えを得やすいからかもしれない。

周囲が自分より優秀という場は、努力するモチベーションも高まる上、目標を見つけやすい。
もしかすると自分より優秀な人々に囲まれていたいというのはそういうことも一因としてあるかもしれない。

「努力して当然という神話」は「年長の方が優秀である」という思い込みに繋がりやすい。
圧倒的性能差でもなければ、努力している期間が長ければ当然、より長けているに違いないと思い込みやすい。
しかし現実には人間の性能差は大いにあるし、リソースの振り方も人によって異なる。
高校や大学などは自分と似たような性能の人間、あるいはそれ以上の教授陣に囲まれて過ごすことになる。ここで「努力が報われた成功体験」によるバイアスがかかる。基本的には努力しない人間がほとんどいない空間だからだ。
私はずっとど田舎の公立(人数が少ないので、校内でも勉強のレベル差がかなりある)で来ている割に、この人間の性能差に思い至らなかった。

他国はどうだか知らない。ただ日本の学校は生活共同体の側面もあって、勉強が出来るからといって、出来ないからといって、共同体での評価に直結するとは限らない。同様に、運動などにも言える。
しかし職場は違う。まあ多少の差はあるにしろより最適化されたプロセスで金を稼ぐことを目的にしていることが多く、効率や正確さが求められる。評価軸がある程度狭まり、さらに複合的に評価される要素が減ることによって、要求されている能力の有無が評価に直結しやすい。職務上の適性だけでなくコミュニケーション能力の有無が関係するにしろ、それは究極効率を考えた結果に過ぎない。
学校での評価と職場での評価は全く違うもので、さらに学校を出ると最低レベルの担保がなくなるので、能力差が格段に大きくなる。
私はここがよくわかっていなかった。

そして、努力魔は「努力したから得たこと」と「努力せずとも得られたこと」を分けて考えがちで、「努力せずとも得られたこと」は性能差が大いに関わってくるが「努力していない」だけに、どうして他人が出来ないのか理解出来ない。
そもそも「努力が報われてきた」人間は恐らく、環境や本人の性能が恵まれている傾向にある。だからこそ報われやすいからだ。その理由が環境であれば親ガチャなる言葉があるように比較しやすく、客観的事実に基づいて判断しやすいが、純粋な本人の性能差となると比較が難しい。環境と、生来の要因が複雑に絡み合い相互作用を生み出すせいで、因果関係を明らかにしづらい。
また、この性能差はやる気に大きく左右されるため、単にやる気がないのか出来ないのかを見極めることはほぼ不可能だ。
そうして努力魔は他人に自分と同じ水準を要求するようになる。やる気を出せばみんな出来るはずで、やる気を出すべきだと思いこんでいる。努力して何かを成すことは楽しいと、疑っていない。

努力魔の私でさえ、あまりに激務、長時間労働が辛く仕事を辞めたいと上司に伝えた時に「色々手を尽くして頑張って高いハードル(売上)をこえていくの、達成感ない?」と聞かれて「全然楽しくないですね……(日銭を稼ぐために働いてるので達成感は趣味で得ます、それよりゆっくり寝たいです)」と答えたので世の中には信じられないレベルの努力魔、達成感ジャンキーがたくさんいる。前年対比、目標比100%を割ったことがなかったが、この頃はマジで達成感がなかった。努力は行き過ぎると「あとは何を犠牲に出来るか」の域に入ってくる。

近年、お金をもらっているのに仕事をちゃんとしようという意思がない人間がいることに、本当に、心底驚いたのだが、彼らは単純に趣味と価値観が違うらしい。そしてそれはもしかすると、子供の頃からすり込まれてきた努力すべきという思い込みから解放された姿なのかもしれない。
何度手を変え品を変え指摘しても直さない人が何を考えているのかわからず、精神的につらい時期もあった。最近は考えるのをやめた。ついでに先手を打って問題を潰しておくのもやめた。自分の行いと結果を正しく認識して、そこからどうするか考えてもらえばいい。効率を求めない人もいるとやっとわかった。私は努力すれば報われる環境と基礎能力が偶然あっただけで、そうでない人もいる。
そして私も、給料に見合わない努力をする必要はないと思えるようになった。仕事に趣味を持ち込むのではなく、純粋に趣味で完結させた方が良い。
私は努力が好きで、努力が報われてきた幸せな人間であり、それ故に社会、あるいは会社にとって都合がいい人間らしい。同僚、先輩、上司に評価されるというのはそういうことだ。
私は誰かに褒められるのも好きなのでそれでいいと思っている。だか給料以上にあまりにも努力しすぎるのはサービス残業やサービス休日出勤並の害悪で、会社にいいように利用されるいわれはないということにも気づいた。

ちなみに前職では効率厨の努力魔(休日に仕事の勉強をしに行ったり、仕事から帰ってからも仕事の復習をしていた)だったからか常に最高評価で、同期より給料も多かったのでそういう意味での不満はなかった。

「努力は報われないこともある」という学びを従業員にさせる経営者は従業員に発破をかける資格もないな……と改めて思った。今のところ経営者になる予定は全く無いものの、今後の人生においてこの気付きは大事にしていきたいと思う。

のらりくらり生きていこう。頑張りすぎないで。給料分だけ働けばいいから。努力は趣味の方でやって。わかった?よろしく私。

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