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期待に応え続けた人生、本能のままに生きろと言われても

ずっと「いい子」で生きてきた

思春期を過ぎたころから、いい子でいることにこだわってきた気がする。
※このいい子というのは、もちろん主観です。

どんな言葉を使えば相手によく見られるか
グループ内の摩擦を極力減らすためにはどのポジションに行くべきか
NOを穏やかに伝えるにはどういう声色にしたら良いか
どの進路を選べば親が納得するか

人から嫌われないこと、周りから良い評価を得ることは、わたしのアイデンティティの基礎部分にあった。いつだって物事を俯瞰で見ることが最優先で、感情や衝動はランク外だ。
どこまでが建前でどこからが本音か、の境界線がわからなくなっていたし、何なら建前すら本音だと思い込んでいた。過去の行いをふるいにかけても、今の自分ですら区別がつけられないくらい。
むしろ本音を人前に晒す、その場で浮かんだ言葉(特に相手の気分を害するもの)をフィルター加工することなく発するなんて恥ずべきことだとすら思っていた。せめて、耳障りの良い言葉に変換してから口にしなければならない。
だから、たいていの人とはうまくやれた。
それが自分をすり減らす行為だったなんて気がつく隙もなかった。

他人の人生=自分の人生だったはずなのに

わたしに演劇の経験はほぼない。あるのも、学芸会レベルなので記憶にない。
ただ、建前で過ごす時間が長すぎて本音がわからなくなる、というのは、役者が役から抜けられない、という状態に少し似ている気がする。
誰かに期待されることで、他人の人生という舞台上で名前のある役をもらう。
その役には期待されるト書や台詞があって、それを察して演じることでOKをもらう。
1ヶ月後にはその行為すら忘れられることだってあるのに、「これは意味のあることなんだ」と思い続けてきた。
誰かにとっての数時間、数日、数ヶ月を大事に大事に抱えることが、自分の生きる意味なのだとすら考えていたように思う。
そんな奴に「自分のやりたいように生きて」と言ったところで、あとはお察しである。急にピンライトを当てられても、自分の足元以外は真っ暗闇にしか見えないのだ。

いい子(主観)、墜つ

ただ、ここ数年は思うようにいい子をキープできなくなった。
これまで通り頭で考えて最適な道を選んでいるはずなのに、なんだかうまくいっている気がしない。きしんで動かない扉を力技で開けようとしているときみたいに、頭の中の自分が扉の向こう側で抵抗している気がする。
抑えつけても抑えつけても消えてなくなれなかった自我と、社会性とのズレ。それが原因で去年わたしは体調を崩したはずだ。だけどこの半年間、「本音で生きたかった自分」に気がつくことができなかった。
だからこれまで通り他人がどう受け取るかを優先して行動を選んだし、「本音」という聞こえのいい皮を被った無遠慮な会話に眉を顰めた。
その一方で、「このアプローチはなんか違う気がするな」と思う自分もいた。いつだってわたしは数メートル上の自分に見張られている。
そしてとある人に近況を交えて胸の内を明かしたところ、こう言われた。

「君が他人に苛立つのは、いい子の自分はこんなことしないのに、と思うからだね」

この言葉が、いつになく腑に落ちた。ああそうか、わたしがこれまで人に嫌われたくなくて我慢してきたことを、他人がやっているのが羨ましいんだ。いい子じゃない自分を許せないんだ。そうなりたい自分がいるのに認めたくなくて、こんなに頭と心がバラバラなんだ。
人間関係の摩擦を最小限にするためにいい子でいることを選んだはずなのに、いつの間にか足に大きな重りがくっついていた。
そっか、そっかあ。わたしって、そんなできた人間じゃないや。
その日、わたしのアイデンティティの一角はボロボロと風化した。

これからは本音で生きる?

さあ、いい子でいるのをやめて本能のままに生きよう!
と思ったところで、今のところ日常は変わらない。
十数年かけて習得したこの対人術は役に立つし、柔らかい言葉を使うのはもはやわたしの美学になりつつある。きっと別人のような振る舞いはできないだろう。
ただ、感覚に従って時間やお金を使う練習をすることで、十数年後のわたしは幾分か生きやすくなっているかもしれない。いや、そうなっていると信じたい。
「あ、これいいな」
「ここに行きたいな」
「ここで働きたいな」
「この人、好きだな」
瞬間瞬間の感覚は、前髪しかない女神様と同じ。
せめて全力理性ガードだけはしないように。

2022.5.6 朝

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