「うっせえわ」が毎日鳴っていたころ日本に必要なリーダー像があった

同じ時代に生きていても、同じものを見ているとは限らない。
同じものを見ていても、同じように感じるとは限らない。


声が大きい=多数派でもない。
ただ、内側の声を外に発してこそ、一歩が始まる。

音楽ストリーミングサービスのチャートにて急上昇。
YouTubeでの再生回数が1.8億回に到達した。

社会への不平不満を丁寧で辛辣な言葉て、こうあるべきでしょと求められる自分と、平静を装いながらふつふつと湧き上がる溜め込まれる鬱屈。


そして、そこから一転。

「うっせえ                 うっせえ
 うっせえわ!」

と続くその歌詞は、

「親が子どもに歌わせたくない」       ということでネットニュースで上位になったほど。

「当たり前のことを当たり前にできて一人前」「空気を読んで、輪を乱さない」      「自己主張より、周りに合わせる」


それらを押し付けてくるのは、        親でだろうか?               大人だろうか?               上司だろうか?

それとも社会全体に対してか?

圧倒的な力に対して、抑圧された感情が爆発する。

そこに多くの若者に共感を呼び、
繰り返される

「うっせえわ」

と罵倒するキャッチーなフレーズが
耳に残り、中毒性がある。

いつの時代にも、社会や大きな力に向けての不平不満がさまざまな方法を用いて表現されてきました。

それは歌であったり、映画であったり。
古くは学生運動であったり、
政治を通してであったり。

ここでは一人、生涯を通じて国家と世界に対し

「うっせえわ」精神を貫いた人物を紹介します。


その人は

『中曽根康弘元総理』


若い世代の方は、バーコードヘアの政治家。

昨年国家予算9,600万円を投じて、
このコロナ禍にありながら昨年盛大な     合同葬儀が執り行われた人物といえば
思い浮かぶかもしれない。

さて、なぜ今中曽根元総理なのか。

中曽根康弘元総理は
生まれは大正末期。
東京から車で1時間半ほど離れた群馬県高崎市。
材木問屋の5人兄弟の次男坊として生まれる。

幼少期を広大な敷地で使用人が常時20名はいたというので、お坊ちゃん育ち。裕福な環境で幼少期を過ごし、今で言う東京大学へ進学。

当時成人男性の平均身長が162センチ前後だったが、中曽根元総理は180センチ近く大柄で。   端正な顔立ちで、人気者だった。

卒業後、自ら志願して大日本帝国海軍へ入隊。
戦争に必要な物資の輸送船の指揮官として、
太平洋戦争を最前線で経験する。

戦争という大きな世界情勢の流れにのまれ、
間近で自身の部下の死を目の当たりにした


「ただ一人の戦後の総理大臣」        といわれている。

やがて敗戦を迎え、戦争で部下や弟を失い、  日本は一面の焼け野原になった。

その時中曽根青年でさえ、          部下を、家族を戦火で失い焼け野原でなにを  思ったか。

これからの日本をどう復興させていくかを   全身全霊て考え抜き、寝る間も惜しんで    この日本のために奮闘したことだろう。

ぐうの音も出ないほどの
無力感と絶望を味わったに違いない。

その強烈な体験から、この祖国を復興しなければいけないと決意したのだ。

その決意から2年後、初の衆議院近選挙で全国最年少(28歳)で初当選。

インターネットなどない時代に、
白塗りの自転車に日の丸を立てて選挙区を回り、
総理大臣を目指すことを公言するなど、
人目を引く大胆な発言やちゃめっけのあるパフォーマンスを行った。

同世代の日本人としては大柄な体躯や端正な風貌もあって、早くから存在感を示してきた。

元々の育ちの良さもあってか、周囲に対するサービス精神も旺盛。
テレビやマスコミを巻き込んで、
政治家

『中曽根康弘』

の地位を確立させていくのだ。

その甲斐あって、初当選から約56年も     政治活動は続いた。


歴任した役職は以下の通りだ。

・衆議院議員連続20回当選
・科学技術庁長官 第7代
・科学技術庁長官 第25代
・運輸大臣 第38代
・防衛庁長官 第25代
・通商産業大臣 第34代
・通商産業大臣 第35代
・行政管理庁長官 第45代
・自由民主党総務会長
・自由民主党幹事長
・自由民主党総裁 第11代


そしていよいよ内閣総理大臣まで上り詰めるのだ。

日本の復興を誰より強く願った敗戦から、37年。
その目標を達成する時がきた。

期間は5年にわたり、昭和では内閣総理大臣の任期としては
三番目の長期政権となる。

類稀なリーダーシップで、

・国鉄(現在のJR)

・電話電電公社(現在、NTT)、

・専売公社(現在、JT)の民営化を行い、

赤字の国営機関を分割し立て直しを計った。

また、資源の乏しい島国である日本にいち早く
原子力エネルギー(いわゆる原発)の開発を推し進めたのだ。

国防にも力を注ぎ、軍事力強化のため予算制限の撤廃。
安全保障基本法、自衛のための軍事力の強化を掲げる。

外交面でもその力は遺憾無く発揮された。

国防を踏まえた上で、アメリカとの日米安全保障条約を結び、
アメリカの輸出産業を盛り上げるため、
日本国民へアメリカ産製品や牛肉・オレンジの購買を自ら呼びかけた。

これらにより、
「ロン(アメリカ大統領のファーストネーム)・ヤス(中曽根元首相のファーストネーム)」で
呼び合う親密な関係を築くこととなった。

また、現在では想像しがたいが、
アジア諸国の協力が世界に向けて必要であるとして、
近隣諸国、特に中国・韓国との外交にも力を注いだ。

さて、戦後の焼け野原からの復興を堅く誓い、
有言実行、数々の功績を残した、

政治家「中曽根康弘元総理」

なぜここまで強い意志と、行動力があったのだろうか。

その答えの核となるインタビューを、みつけた。


中曽根元総理は語る。


「常に自分の身体に国家がある。

 戦争で部下や弟を失い、焼け野原を見るという

 強烈な体験から、この祖国を復興しなければい

 けないと感じたのだ」


それほどまでの体験を私たちはしたことがあるだろうか。

少なくとも、私にはそこまでの体験はない。


不平不満すら出てこない絶望的な敗戦から、
今年戦後76年を迎える。

周りを見渡せば、焼け野原のまま放置された場所などない。
ライフラインは整備され、産業は発展し、
目覚ましい速度で復興以前より余りある経済的拡大を遂げた。

国際国家の中の「日本」復興は成し遂げられたと言っても
過言ではないだろう。


時代は変化する。

『戦後』という概念も

戦争を知らない世代が増え気薄になってきた。

しかし、社会、世界、「圧倒的な権力」からの
抑圧された感覚は形を変えて、受け継がれている。

当時に比べては、社会や世界に向けて不平不満を自由に表現できるようになったとしてもだ。

今後日本はどこへ向かうのか 。

今年はオリンピック・パラリンピックの強行開催。

コロナ禍という緊急事態にもかかわらず

臨時国会も開催されず、衆院選挙は荒れ。

新たな発展の方向性を示し、共感を得られる強いリーダーをいつでも必要としている。

その澄んだ目で、この日本を

取り戻そうと立ち上がる魅力溢れる人物を

待っているのだ。

「中曽根康弘元総理」のように。

どこからか、
うっせえわ!と聞こえてきそうですが。

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