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ダークソウルと金枝 10

さて一応の最終回となる今回では、いよいよグウィンの秘密について考察します。先回考えたように雷が竜の魂の力だとしたら、それを手にしていたグウィン自身の力は何なのでしょう。

火の時代を拓き、誰よりも輝かしい栄光を纏った太陽王。しかし同時に、それだけの野心を持ち、力を渇望し、誰よりも多くのソウルを求めた存在であったはずです。

グウィンの”流派”

先の回でも述べましたが、グウィンの流派、剣の使い方には特徴があります。多くの戦士たちや、彼の配下であった銀騎士、黒騎士たちが盾を持つのに対し、彼は盾を持たず重厚な大剣を片手で振りぬきます。

他のボスと比べ極端に技数が少ないわけではないのですが、いわゆるエスト狩り、こちらのアイテムモーションに反応し、距離に応じて突進か両手持ちでの攻撃を咄嗟に行うことから、要領さえ覚えればパリィを連続させて割合に簡単に撃破出来てしまいます。

しかし多くの考察者に指摘されているように、この攻撃パターンはダークレイスたちがダークソードを操る ††ダーク戦い方†† ににており、左手による掴み攻撃は、ダークハンドによる 卍ダーク吸精卍 にも似ています。グウィンとダークレイスとはカアスの言によると敵対する仲のようですが、互いの流派、剣術が似ていることは不思議です。

グウィンとダークレイスの攻撃。
片手振り、両手振り、突進突き、掴み攻撃、蹴り。モーションはそれぞれ違うが、攻撃のパターンは大部分が共通している。盾を持たない場合の基本的なスタイルとも言えそうだが、それにしてもラスボスの戦い方としては硬派だが淡白。

今はまだ不思議という事しか言えませんが、とにかく不思議です。

そもそも人間性とは人間性なのか

このダークレイスたちがこぞって求めた、人間性。カアス曰く闇のソウル(Dark Souls)とは、本当に人間由来の力なのでしょうか。

そもそも灰の時代に存在した何かの結果として火があるのなら、その力もまた何かの由来があり、大元は岩か大樹か竜なのではないでしょうか。そしてその火によって分かたれた力もまた、それぞれに由来する何かの発露であるはずです。

人の見出した闇のソウル、このゲームの表題にもなったダークソウルについて、今一度考えてみる必要がありそうです。

最初の死者ニトの力

最初の死者とされるニトは、偉大な王たちの一人です。
彼は王のソウルを見出しながらその力の殆どを”死”に注いでおり、どちらかと言えば暗いイメージのある存在です。

彼のボスエリアの手前には人間性の泉のような場所があり、小人の骸骨が無限に湧き、彼らは”人間性”をドロップします。

戦闘時には紫色のエフェクトの深淵にも似た爆発攻撃、左手による掴み攻撃、そして相手の位置を特定し赤い霊体の剣を召喚する攻撃を行います。これらの攻撃方法のいくつかは四人の公王と(モーションやエフェクトは違うのですが)共通しており、赤い霊体の剣は侵入した闇霊にも似ています。

墓王の剣舞(追跡)。
ニトの使う紫色のエフェクトは、ベルカの奇跡や四、五人の公王の技にもにている。
しかしこの赤いエフェクトは他に見られず、唯一似ているのは闇霊の姿。
またこうした赤い霊を纏った曲剣の攻撃は、先の人間性を落とす小人骸骨と同じく劇毒を帯びる。

地下墓地のボス”三人羽織り”は彼から力を盗んだとされ、そのドロップは三種の仮面ガチャと確定での”注ぎ火の秘儀”です。これによって篝火に人間性をさらに注いで、エスト瓶により多くの暖かみを入れることが出来るようになります。

イザリスの魔女の力

イザリスの魔女と混沌の娘たちは、王のソウルを見出した一人(?)です。しかし始まりの火を渇望し、自ら作り出そうと考えたことで、その破滅を迎えます。彼女たちの都は火によって滅び、今やデーモンたちの巣屈となっています。

彼女たちの代名詞ともいえる混沌の炎は、人間性によって威力を増します。また火の力によって変化したイザリスの魔女の姿は、篝火のような何かによって封じられ、それを壊していくとやがてダークソウル3の巡礼の蝶のような姿を現します

樹木の体を持った巨大な何かの背から、生え出でるイザリスの真の姿。
その姿は3の火継ぎが絶えた世界に飛ぶ巡礼の蝶にも似て、また竜のようにも見える。
人から樹木への変化、人の背から何かが羽化するというイメージは、火の絶えた3の世界によく見られた現象。

彼女たちのこの力。この石造りの巨大な都を滅ぼすほどの火の力は、どこから、どうやって集められたのでしょう。

太陽の光の王グウィンの力

グウィン自身の力がおそらく雷ではなく、その剣技もダークレイスに似ていることは先ほど話した通りです。しかし彼の太陽の光を継ぐとされるグウィネヴィアの奇跡も、その効果はある意味で不死人のもつエスト瓶に似ています。

ダークソウル屈指の癒し系女神。
しかしこの姿は幻であり、その中身は男性。
……なのだが、実は同時に男の娘でもあるという、現代のVTuber文化にも通じる多様性神話。
これらを求めてしまうのは、”人の業”とだけ言えるのだろうか?

今となっては知らない方もいるとは思いますが、初代ps3版『ダークソウル』では、オンラインプレイ時白霊を召喚したホストがエスト瓶を使うと仲間たちも回復し、白霊たちはエスト瓶を使用できない(うろ覚え)ような仕様でした。

当時は前線を交代しながら奇跡を使うか、”女神の秘薬”、”人間性”などのアイテムで各自回復していました。そうした中で、この女神の奇跡やホストがエスト瓶を使用する瞬間は、白霊の生命線だったのです。

もちろん「ダークソウル リマスタード」では違う仕様になっていますし、今となっては2,3には受け継がれなかった、上書きされた設定です。

ただ神々の使う奇跡が、人間性を得た人が呼び合うように、世界を越え”共鳴”するという仕様は今も残ったままだと思います。白教の誓約を付けていれば、「ダークソウル リマスタード」で、今でもごくたまに白い光の輪を見つけることが出来る可能性が無きにしも非ずでしょう。

奇跡の共鳴した場所……に似た、センの古城の頂。
本物はもう少し白かった(ような気がする)が、こんな感じの光の輪が見られた。その場所で奇跡をつかうと、その威力が増したらしい。

神々の力がどのようなものかはわからないですが、少なくともいくつかは人の力によっても再現されうる現象です。

そもそも、人間自身の力

”人間性”が人間の力であるのかをそもそも調べるためにも、人間自身の性質を考えておくべきです。

この世界の人間はどうやら神の枷を嵌められており、それによって今の人としての姿があるようです。つまり、神の枷を嵌められた状態が”人間性”を使用した生者の状態。神の枷を外れてしまった状態が、その後に死んだ亡者の状態です。

このあたりの設定を考えると少し混乱するかもしれませんが、おそらくこれであっています。

なぜなら通常の不死人のステータスは

  1. レベル

  2. 体力

  3. 記憶力

  4. 持久力

  5. 筋力

  6. 技量

  7. 耐久力

  8. 理力

  9. 信仰

の九つです。

2~9の能力値を一つ上げるとレベルも上がり、レベルにしたがって基礎的な防御力もある程度まで上がっていきます。このある程度まで上がる防御力によって、自由にステータスを振っても積むという事はなく、レベルに応じて敵との戦闘は徐々にですが楽になっていきます。

しかしこのレベルシステムには裏技的なものがあって、それが”人間性”です。この人間性を道中の亡者型の敵から得るか、オンラインプレイやアイテムの”人間性”を使用して得ると、ステータス画面で10個目の能力値のように書かれた人間性の値が上がります。

初代『ダークソウル』のステータス画面。
今は人間性は0だが、様々な要因でその値は変動する。とくにアイテム発見力は様々なアイテム堀に便利。”人間性”を得るために人間性を利用するということも多い。

この所持している人間性の値は通常のゲーム画面のHPやスタミナバーの横にも書かれていますが、これによりアイテム発見力、呪い耐性、特定の武器や呪術の攻撃力に影響し、また1レベル分の防御力も加算されます。つまり”人間性”とは一つのステータス、1つ分のレベルとして扱うことが出来るわけですが、これは死ぬと一時的に、落とした血だまりに触れず再度死ぬと、永久に失われてしまいます。

よくある解釈としては、この”人間性”があることが人の特別な力であり、3の考察ではアンリの直剣の文を採って”人の本質的な力”だと解釈されます。

しかし私の考えでは、これはどうにも違うように思えます。

もしも人間にとってこの人間性が”本質的な力”だとすれば、一度手に入れた力がこうも簡単に失われるでしょうか。魂というものが肉体から離れやすいというのは『金枝篇』にも書かれているのですが、通常のソウルをつかって上げる他の能力値は、死んでも別に下がりません。そして不死人にとって、人間性が完全になくなっても、問題なく生き死にを繰り返すことが出来ます。

もちろん不死人たちはこの人間性を利用して様々なオンラインでのやり取りや、アイテム堀り、低レベルでの初心者狩りなども行えるわけです。しかし上記の王たちと比べても、人間だけが世界を越えて他者に分け与え、人間だけが何かを渇望し、人間だけが他者から奪っていると言えるのでしょうか。

もちろん、この”人間性”を簡単に扱えるというのは、人の一つの特徴です。2の時代には見失い、3の火のない灰たちは、おそらく”運”のステータスとしてこれを使えましたが、初代の不死人ほど便利には扱えません。

しかしこうした後天的な力を、自分のもののように扱う例は、この不死人に限った話ではありません。

「人間性」という名、火の封

おそらく、何かから得た力を自らのもののように使うというのは、古来からこの世界で行われてきたことです。

おそらく、竜たちは自分の本質的な力である雷や結晶が、自分たちを殺しうるものだと感じてこれを隠していました。普段、彼らの使うブレスは後天的に手に入れたなにか、火や毒の力を使っているようです。

そしておそらく、そうした力を利用してグウィンや裏切り者のシースは竜を狩りました。そのような力を存分に使えたのは、竜たちのブレスのように、それが本質的な力とは別のものだからでしょう。奪われたときに自分たちへの牙となる力は、慎重に隠したままのはずです。

しかしある時、闇のソウルを得た小人たちを見て、グウィンはこれを恐れました。

それはなぜか。

その闇のソウルこそがグウィンにとって、彼の本質的な力だったからです。

グウィン自身、おそらくこの闇のソウルを道具として使う手段は、持ち合わせていません。彼にとって”死”そのものであり、禁忌でもあるこの力を、容易には研究できないからです。

しかし今人たちの祖、小人の王がこれを扱う術を見出し始めた時、これによって自分が殺される可能性を考えました。イザリスの魔女や墓王ニトが、己の力を高めるためにこれを利用していることは、さほど気になりません。小人の種族がウーラシールのような闇術を見出したことが、おそらく問題だったはずです。

バルドルを貫いたヤドリギ、竜のウロコを砕いた彼の雷のように、人間たちが武器としてそれを扱っているからです。

ウラシールの闇術。
この時点では単に物理攻撃力を持った魔法だが、後にこの闇属性の攻撃は神々に対する有効な攻撃手段となっている。その力は”人松脂”など人間性に象徴される属性だが、”人間性”を持っているから即ち”人”だとは言えないのではないか。

しかし竜たちに戦いを挑むほど貪欲で、彼らの弱点を注意深く探すほど狡猾な彼は考えました。もし小人たちのダークレイスを狩り続けても、この力はなくなるばかりか、ダークレイスたちに戦いの術として余計に学ばれてしまうだけだろうと。

そこで彼の考えた策は、名づけによる呪いでした。

ヴァンクラッドが火を継がなかった2の世界、世界が終わりかけ吹き溜まりの底から行ける輪の都では、神の名が失われかけています。おそらく火の時代の特徴は、名づけによる認識の分別です。

公爵の娘シラの問答。
単にどの神を信仰しているのかではなく、神の名を覚えているかどうかも同時に訊ねている。
2の時代には初代での神の名の多くも失われ、3の時代では2の時代の神の名も失われた。
おそらく火が継がれた、奪われたという事が、その時代の存在の名にも影響すると思われる。

ここでは火=光明、名色というような、すこし仏教や哲学的な感覚が入り込みますが、『ダークソウル』の世界にそうしたエッセンスがある事は、なんとなく感じてもいるでしょう。

おそらく、グウィンが行ったことは、小人たちの渇望や野心。敵の死体の中にアイテムなどの役に立つものを見出す力や、己を強くしようとソウルを欲する、炎のように燃え燻る力。そのような、彼らが闇のソウルを利用して得た力に対し、それを彼ら種族の特徴のように指摘し、名前を付けたことです。

それに何の意味があるのかと思うかもしれませんが、これは重要な事です。

”人間性”という一種の、バズワード。実社会で皆さんもこれを指摘されれば、内心穏やかではいられないでしょう。たとえ、誰しもに当てはまるような指摘、お金を欲しがっている、地位を欲している、人に注目されたいという、承認欲求。ひとたび指をさされ、貴方自身の中にそれが少しでもある事を言い当てられれば、誰でも己を恥じてしまいます。

このシリーズ最後のDLC「輪の都」。
王女フィリアノールの夢を解いて暴かれた世界では、小人の王たちは枯れて萎え、奴隷騎士ゲールに襲われるまで、みな大人しく崩れ果てた廟に座していました。それまでの絢爛な輪の都の姿でさえ、銀騎士やグウィン、おそらく大王の友であったフラムトの像ばかりが崇められ、小人たちの像は裸の亡者か、己の背負った巨大な輪に虐げられているものばかりです。

巨大な枷のようにも見える、輪を背負う亡者の像。蓋を背負う聖職者。
輪の都全体に見られるこの科せられた輪のイメージは、彼らの中にある闇のソウルを縛り付けるための物のようである。しかしそのように闇を抑えようという克己心こそ、本来の意味での「人間性」と呼ばれるべきものではないだろうか。

実際には彼らの中に、マヌスの深淵のような深い渇望も、かつてグウィンが継ぎ、始まりの火を千年も燃やし続けたほどの野心も、ありませんでした。

小人の王たちがそうまでして封じたもの。輪の都の騎士がそれでも見失うまいと、己の目を塞ぎ見出そうとしたもの。それはこれまで見てきた通り、人に限らず、実はこの世界の誰しもが持つ小さな闇だったのです。

「輪の都」の統治権=王冠と、王女フィリアノール=緑花の指輪+3を授けられる、小人の像。
グウィンのよこす伝令を信じ、世界の終わりまで彼らは王女の眠りを守り抜いた。

ダークソウルと金枝

もうお分かりとは思いますが、私の考えでは、このゲームの表題になった「ダークソウル」と呼ばれる”人間性”こそ、”薪の王グウィン”にとっての、”金枝”です。

彼の戦い方がダークレイスに似ていること。通常、”人間性”によって注ぎ火を行える特別な火が、グウィンの火継ぎによっておよそ千年燃え続けた理由。そして彼や他の王たちも、OPで”火に惹かれ、闇より這い出した幾匹か”と表現されること。

これらの論拠から、”人間性”自体をグウィンが多く持っていたことは、以前から指摘されている可能性でした。

しかし今回、こうしたゲームや映画などに多大なリスペクトを受ける『金枝篇』という書と比べてみても、こうした考察が得られることは、一つ意義のある事かと思います。

ただ、私の理解力の不足や単純な見落とし、解釈やその論拠の恣意性なども問題で、まだまだ仮説として粗削りですし、ツッコミどころもあるかとは思います。

ゲームシリーズとしては既に完結した『ダークソウル』ですが、まだまだゲーム中の様々な発見、また同フロムソフトウェアの他の作品からインスピレーヨンを得て、考察界ではさらに深く、面白い説が唱えられていくものと思います。

最後に改めてこの仮説をまとめますと、

  • 人間性と呼ばれる闇のソウルが、実はグウィンにとっての”金枝”だった

  • 彼にとって本質的な力であり、それで攻撃されることが実は弱点だった

  • そのためにグウィンは闇のソウルを操る術を見出した、小人を恐れた

  • 彼は小人たちに闇のソウルによって得られる力を、彼ら特有の性質のように指摘し、人間性と名付けた

  • 小人の子孫、人間たちはその力をいつしか恥じて忌避し、その術を自ら隠すようになった

という通りです。

不死人の宝であり、篝火の力を保存できる”エスト瓶”。追放者に贈られる人間性の呪いのような、”決別の黒水晶”。アノールロンドに秘された禁忌の武器、”邪教のクラブ”
これらは”薪の王”を承継する火継ぎの儀における剣璽、レガリアでもある。

『金枝篇』から得られた知見を私なりに生かし、”薪の王”として火を燃やし続けたグウィン自身の力と、なぜ小人の王たちがその力を封じ続けたのか、そしてその力が何故”人間性”と呼ばれたのかという説明になる仮説かと思います。

もちろんこの説には様々な論拠を継ぎはぎしたために、多くの想像や、もしかすると、どこか矛盾する箇所もあります。ただ私一人では、そのすべての箇所を発見することも難しいですし、考えられる反証も限界があります。

今のところは自分なりに考えうる部分は補強したつもりですが、皆様のご指摘もあれば、なおありがたいと思います。

2021/12/29


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