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ダークソウルと金枝 ー結びー

多くの文化、宗教で、やはり神というものは、その積み重ねにより特別視されてきました。

人間というのは彼らに選ばれた存在で、魂や精神を吹き込まれたために動物とも違い、分別を持ち、その神の教えに従い、悪魔たちとは袂を分かつ身である。という具合です。

しかしさらに過去にさかのぼって考えると、この魂(ソウル)というものと、精神(スピリット)もあまり区別はありません。さらには動物(アニマル=動くもの、命を持つもの)という言葉も原形はアニマという語で、悪魔(デーモン)という語と同じく、霊魂を意味するものでした。

おそらく、さらにさかのぼって語源をたどれば、神(ゴッド、デウス)という語も、この霊や魂という語と同じものを指して使われていたのではないかと思います。

この霊魂、霊性という力が、一元的に世界を形作っているという世界観。この時点でなんとなくわかると思いますが、この世界観こそが『ダークソウル』や『金枝篇』に描かれた世界観であり、おそらくは近年のフロムソフトウェアの作品群に通じる、根底にある哲学だと思います。

元々はそれぞれの言語の、霊魂や見えない力を表すこの語は、それぞれの文化における、単に神として崇められていたはずのものです。しかしどのような文化、文明もそうであるように、何か外敵や災厄、他の文化との折衝によって、言葉は分化していきます。

精神が自らに宿った内的な意識だけを指すように、その見えない力がどこに宿るか。神と悪魔が正邪によって分かたれたように、その力が自らにとって禍福となるかどうか。様々な状況や文脈によって、語の様態が別れたり、他の言語と混ざって、それぞれの語が違う意味でとられるようになりました。

そうした言語の複雑化によって、その文化や宗教もさらに奥深く、また哲学や科学も相応に発達したはずです。

以前の記事に、ニト、イザリス、グウィンが、それぞれ別の時代の神のように見えると話しました。しかし、この神話解釈によって考えれば、闇のソウルを見出した誰も知らぬ小人は、何を暗示したものなのでしょう。


最初の死者ニトは、彼のような死者たちの墓を崇めた、素朴な祖先崇拝。


イザリスの魔女と混沌の娘たちは、彼女たちのような巫女を崇めるシャーマニズムの信仰。


そして太陽の光の神グウィンは、中世封建制にイメージされる、彼のような偉大な王への信仰。

もちろんそれぞれの時代に対し、単一の信仰の形態があるわけではないですし、この通りに宗教というものが”進歩”していく訳でもありません。

しかしこうした信仰の形態があるという事が認められ、相対化して分析されていく。まさに『金枝篇』のような本が書かれるほどに文化が複雑化し、文明同士の繋がりが発達していくと、当然さきほどのように、今まで信じられた神という存在も、もとは誰しもが持っている素朴な力への信仰だったと気づく時が来ます。

この自らの中の、霊性の再発見。個人”精神”の発見というものは、革命的です。

いままで王侯貴族や司祭たち、貴い生まれのものたちが行っていた、詩や文学等の創作。そのようなことを行って土地や家業に縛られず、自らの職業を変えていくという選択。そして、そのように身を立てた人物が、身分にかかわらず結婚相手を選べるというような自由恋愛。

当然それまでの文化、文明では強く抑圧されてきたはずの、そうした”人間的”な活動の数々は、我々に多くの可能性を見せます。

しかし同時に、それまでそうしたことを禁じてきた権威。王や祭司たち、彼ら聖職者たちが、自分たちから、そのようなものを奪ってきたという不満。彼らが詐欺、欺瞞を用いて、いままで自分たちを欺いていたのではないか、という不信感が生まれます。

そして、そうした個人意識に目覚めれば、当然自らの隣人たちも、同じものを持っていることに気づくはずです。

彼らと手を取って並び、協調するか。それとも彼らから奪い、追い落とすか。これらは現代における社会的行動の原則であり、私たちの心をいつの間にか蝕んでいる病理です。

これらの挑戦に上手く立ち回り成功すれば、現代のSNSのスターのように、一個人でありながら神のように崇められ。またその行いに失敗し、人の世の闇に堕してしまうと、悪魔か獣のように嫌悪され、嘲笑われてしまいます。

北の王国ボーレタリアの王オーラントは、ソウルの業に触れ、古の獣を呼び起こしました。太陽の光の王グウィンは、始まりの火に惹かれ、王のソウルを見出しました。そして学舎ビルゲンワースに志したローレンスは、血の医療に人の進化を夢見ますが、そこには同時に恐ろしい獣への道も口を開けています。

まさにこうした”魂”や”人間性”の発見。内なる霊性、神秘への目覚め。
それまで”神”中心であった世界から、文化の複雑化や科学の発達によって、”人”中心の世界へと移り変わっていく過渡期。

後にこの期を経て、哲学者ニーチェが「神は死んだ」と喝破したような時代の変化。

このとあるフロムソフトウェアの一作品に、”啓蒙”と呼び表された時代について、いつかまた考察をしてみたいと思います。


(未定)

2021/12/29


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