見出し画像

ダークソウルと金枝 2

ダークソウルと金枝、第二回目です。
まだお読みでない方は、前回の記事から。

また、そもそもこの記事シリーズにくるのは初めてだ、という方はこちらから読み始めてください。

前回の記事では、”森の王”という風習とアエネーイスや他の神話との比較を行いました。
その結果、『金枝篇』という本が提示した大きな二つの問

  1. なぜ新たな”森の王”となるものは、前任の”森の王”を殺さねばならないのか?

  2. なぜ”森の王”の決闘に挑むには、”金枝”をとらねばならないのか?

というものを紹介し、さらに私から

  1. 『金枝篇』『ダークソウル』という作品は、一人の英雄あるいは神が、死して蘇る姿を描いた物語である。

  2. 両作品は、彼ら英雄や神のもつ外在の魂を扱った作品である。

という二つの仮説を立てました。
今回からのこの記事シリーズでは、そうした疑問や仮説に対し『金枝篇』の語る順に、ゲーム『ダークソウル』と比較しながら解説をしていきたいと思います。

魔法という力

まず第一の『金枝篇』の疑問を説明するにあたってこの”森の王”という存在が、死から蘇ることの出来る特別な存在だと信じられていた、という事を説明しなければなりません。

ある程度『ダークソウル』のようなファンタジーに慣れた方なら、このような説明は今更のものと感じるでしょう。しかし改めてこうした事を問い直してみることも、意外と興味深いですし、あえてそうした部分を掘り下げていくことで新しい発見を得られると思います。今は暇つぶしにとでも思って、読み進めていてください。

まず最初のステップとして『金枝篇』の著者フレイザーは、そもそもそうした不思議な力、呪術や魔術という考え方が何であったのか、ということを説明しています。

未だ科学やそうした論理的な実験、検証方法が確立されていない時代では、当然、人は自らに可能なこと、不可能なこと、という分別が出来ません。
もちろん目の前の重い石を持ち上げられるかというような、その場ですぐ実験可能なことはわかりますし、そうした意味での小さな論理的思考は有しています。しかし原因と結果がすぐには結びつかない場合はどうでしょう。
例えば、自分が天気をかえられるか、というような。

そうした目的に対し、まず考えられる手段は、頼み込むことです。
情に訴え、こちらの誠意を伝えれば、天気のほうも変わってくれるかもしれません。

そして次に考えられるような方法は、なんとなくそれと似たようなことをして、その現象を呼びよせてみることです。
雨にしたいなら水を撒いてみる。晴れになってほしいのなら、太陽のような熱い火を焚いてみる。自身がその対象にもっているイメージには大きく左右されますが、何か対象に性質であれ見た目であれ、似通ったものを用いることで、自然物にもこの”共感の作用”を伝えられないものでしょうか。

実のところこうした手段は、明らかな間違いです。
現代の感覚からいって、そんな方法で天気が変わる訳がないですし、変わったなどという話も聞きません。しかし先ほど言った通り、そうした科学的な検証法が確立されていない時代ではどうでしょうか。

何度かこうした行為を行っても、もちろん天気は変わらないはずです。
当然のように思えますが、しかしさらに何度も何度もこうした事を行った場合では、実際に天気が変わらないまでも数日後に望んだ天気になったとか、偶然にもその日の天気に変化が訪れた、という事もあるでしょう。
そうしたデータを記録して比較できるような手段がない、あるいは知らない場合では、このような偶然の結果ばかりが印象に残り、実際に天気を変えられた、変えたことがあるという迷信が出来上がります。

結果、雨乞いや太陽乞いというような天気を変える儀式は様々な場所で見られ、その土地の宗教行事と混ざった形で多く残っています。

これらの例では、地上で炎を燃やすことが、太陽の炎を再び燃え上がらせる、と考えられているらしい。…(中略)…ときとして陽光乞いは雨乞いの正反対の形式を取る。黒豚が雨のために生贄に捧げられたように、白か赤の豚が日の光のために生贄にされたことは、先に見た通りである。ニューカレドニアのある部族は、雨乞いでは骸骨を水に浸し、陽光乞いではこれを燃やす。

 J.G.フレイザー.『初版 金枝篇 上』.吉川信(訳).筑摩書房.2003 p.44,45
こうした文脈で考えると、篝火というものが陽光乞い、つまり太陽への儀式のようにも見える。
奥には、”火に焼かれる骸骨”を見つめる、霊体となったプレイヤー。手前には木の棒を手に憮然として佇む亡者の姿がある。

王と呼ばれる神々

そして、闇より生まれた幾匹かが
  火に惹かれ、王のソウルを見出した
最初の死者、ニト イザリスの魔女と、混沌の娘たち
       太陽の光の王グウィンと、彼の騎士たち

ダークソウル OPより

考察者ならもはや親の顔よりみただろう、『ダークソウル』のOPムービー。
この”始まりの火の神話”は我々考察者にとってバイブルのようなものではありますが、あえて寓意的な物語としてこれらをとらえ、解釈した考察もあってよいでしょう。

もちろん、これら神話の人物は架空のもので、あの物語が実は存在しなかったという風には言いません。ゲーム中に彼らが存在し、実際戦うことにもなるのですから。
しかしあえて大胆な解釈をしてみることで、どのようなものが見えてくるのか、それを考えてみることも考察の意義ではないでしょうか。

何度かOPを見て感じた印象では、彼ら三者は、まったく別の時代の神々のように感じました。
最初の死者ニトは非常に古い、おそらくは石器時代ほどの太古の存在。イザリスの魔女たちは、先史文明くらいにおけるシャーマン信仰の時代。そして太陽の光の王グウィンは、古代や中世初期ヨーロッパあたりの、北欧やケルト神話の神に似ているような気がするのです。

彼らのいるステージを見ても、深い自然洞窟に巨石から削り出された石棺がいくつも眠る巨人墓場、火炎のような複雑な装飾が施されたアンコールワットに似た廃都イザリス、そして高い尖塔がそびえフライング・バットレスに支えられたゴチック様式のアノールロンド。上記の時代区分ともまた少しずれますが、明らかに統一感を欠いていることがわかります。

そうした彼らが一堂に会し、古龍たちに戦争を挑んだという場面もありますが、それを直接的にではなく「竜に象徴される自然現象、自然法則へ、人間というものが様々な時代時代を経て、今のようにある程度対抗できるよう、文明文化を進歩させてきた神話だ」というように、もしこれが現実の神話だったなら、解釈されることもあるでしょう。

最初の死者、ニト

まず思い描いてみてほしいのは、最初の死者ニトの時代です。
一説にはゴリラに対する手話の実験で、彼らが曖昧ながらも死後の世界に対して特別なイメージを持っていることが示唆されています。彼らからさらに後、我々の祖先であったろう原始人類の時代から、素朴な死者に対する祈りはあったはずでしょう。そうした祖先崇拝はある種の信仰に昇華し、我々やこの自然世界を作ったのは、彼ら偉大な祖先たちだという神話が生まれます。

おそらくは、そうした死者のための塚や石碑にかかる影の様子から日付や暦が生まれ、彼らの偉業やそれらを称える祭祀の口伝のため、伝承、伝説が生まれたのではないでしょうか。

アイテム”死の瞳”を得て地下墓地の棺に入ることで、誓約を結べる”墓王の眷属”。
誓約と同時に”ニト”の武器と彼の業をもらえ、誓約を深めても”墓王の大剣舞”が得られるのみ。
偉大なる存在である”最初の死者ニト”との合一のみがこの制約の目的であり、それ以外の目的というものはないに等しい。
この”墓王の剣舞””墓王の大剣舞”のみが彼の残した奇跡で、その他のバリエーションは伝えられていない。しかしこれらの物語が、古い白教=この世界の信仰の起源だと、匂わせる証拠は少なくない。

イザリスの魔女と、混沌の娘たち

次には、イザリスの魔女と、混沌の娘たち。
先ほどの祖先崇拝がある程度まで行くと、そうした過去の偉大な存在と祈祷によって交信を取れる存在、シャーマンや巫女が生まれます。おそらくはそうした”祈りによって超自然の存在と交渉する”という事の発展として、上に書いた雨乞いなどの儀式が生まれたのでしょう。

日本の記録上最古の王とされる卑弥呼は、こうしたシャーマンのような存在だったと言われています。「魏志倭人伝」では彼女が鬼道なるものを使っていたとされ、王に即位して以来人前には出ず、弟が彼女を助けていたそうで
す。

イザリスの業として代表的な、呪術の説明。
命の業、つまり他の魔術と同じ、ソウルの業ということだろう。
しかし多くの場合は”火”を利用した、他の自然物の模倣の業という特徴も持つ。火を操る、火を体に宿し力を得る、金属のような体となる、命によって命を蝕む毒の霧など、多くのバリエーションがある事も特徴的。
イザリスに対する信仰というものは存在しないが、各々が火に対する独特の哲学を持ち、その実践により業を研くことを信念にしている。

太陽の光の王、グウィン

先ほどのシャーマン兼王のような存在の元にある程度コミュニティが発展すると、政治や戦の指揮者としての王が生まれ始めたことは、想像に難くありません。しかし彼らがまったく霊的な存在と切り離されたのかというとそうではなく、”祭司と王”との境というのは曖昧なままだったでしょう。

古代ケルトのそうした王の伝承を原型に持つとされるアーサー王物語では、王の不名誉な行いや、継承問題、彼に使える騎士たちの不和などが、かなり直接的にその国自体の繁栄と結びつけられて描かれます。中でも漁夫王ともよばれるペラム王のエピソードは典型的で、王が聖槍ロンギヌスにより負ってしまった傷が彼だけでなく国土をも荒廃させてしまいます。それにより聖杯による癒しがなければ、国が亡ぶのではと危ぶまれました。

火を継いだ大王グウィンの代理として、不死の勇者を迎える女王の幻影。
このように王やその親族、近しい者たちの威光によって国全体が恩恵を得られるという信仰が、そのまま彼女グィネヴィアの誓約の特徴。
大王グウィンの祭祀によって火の時代の秩序が保たれ、またその火が陰りつつあるために、主人公たちが不死となり、使命を負うというのがこのゲームのストーリーでもある。



こうして並べてみると、現在では単に国家元首と見なされるはずの王という存在が、かつては何か不思議な力と人間社会との仲介者だったのではないかという想像もできてくるでしょう。

もちろんダークソウルの神話と現実の神話、そして現実の歴史とは違います。ただし『ダークソウル』の世界観が、現実の神話、歴史にインスピレーションを受けたであろうことは十分に考えられます。

今回はそうした物語を逆順的に読み解いてみたわけですが、『金枝篇』でもこれとは別の道筋から、こうした事に仮説を立てています。

第一章、第二節「太古の人間と超自然なるもの」では、上に書いた「魔法という力」についての考察。
もともと王と呼ばれる存在が、祭司としての役割を負っていたという事実と、そのような祭司たちに信じられた超自然の力。そうした力がもともとは一般の人々にも、呪いによって操れると信じられた説明。そうした事例として、実在する雨乞い、陽光乞い、風を止ませる儀式についての紹介。

同章、第三節「人の姿を取った神々」では、そうした超自然の力が、ある特定の人間に宿る、という考え方。
まずは、一時的にそれらの力=神を憑依させるシャーマンたちや、そうした手段としての祈祷の事例。そしてそれらの力が永続的に憑依した人間、つまり現人神たちが王として崇められた事例を紹介します。
またこの節では、そうした王に自然現象を起こさせるための儀式として、時に王に罰を下してまでそれを叶えるよう要請する事例や、王が執り行う儀式のための祭具が、一種のレガリアとして王権と結び付けられる事例も挙げられています。

こうした『金枝篇』の本文を読めば、古来魔法の力が人々に信じられ、そうした力を振るうことの出来る特別な人間が王として崇められた、という仮説が理解できます。

森の王と薪の王

ではそうした王たちの称号として、なぜ”森の王”という呼称があるのでしょうか。
実のところ、先に説明した第三節「人の姿を取った神々」では、”火の王”や”雨の王”といった、自然現象の名で呼ばれる王たちも紹介されていました。しかし彼らは、その祭儀によって扱われる自然現象の名前がその呼称の由来になっていると考えられます。

したがって、”森の王”ならば森を、”薪の王”ならば薪あるいは焚火そのものを扱う存在となるはずでしょう。
しかし以前に紹介した”森の王”の称号をもともと持っていた存在は、ウィルビウスという神です。彼は太陽と同一視された存在で、このネミの聖所に絶えることのない灯、つまり火が焚かれていたことを考えると、先ほどの陽光乞いの例と照らしあわせ、その権能は主に太陽に象徴されたことが考えられるはずです。

また、もともと”太陽の光の王”と呼ばれていたグウィンが、”薪の王”グウィンという名でゲーム中登場することも同様に謎です。なぜそのまま”太陽の王”ではなく、”森の王”や”薪の王”なのでしょうか。

『金枝篇』第一章、第四節や第五節では、”森の王”という呼び名について樹木信仰の面から、世界各国やヨーロッパの主に農民の風習の事例、そして古代ヨーロッパの神話などの例とを比較して論述をすすめます。

これらを読めば、現実の世界において植物という存在がどれほど人間に身近で、また代表的な自然の象徴であったかがわかるでしょう。そしてこうした植物たちを祀るための儀式に、後に説明される”森の王”の風習につながる様々なモチーフが隠されていることもうかがえます。

しかしそれでは、”薪の王”と呼ばれるグウィンの事は説明できません。
「ダークソウルと金枝」と銘打ったこの記事の沽券にかかわりますので、今は道をそれて、その説明を行わせていただきます。

ソウルライクゲーという沼

ゲーム『ダークソウル』やそれに代表される、所謂ソウルライクと呼ばれるゲームジャンルについて、皆さまはどのようにお考えでしょう。
ゲームシリーズの名前をそのジャンルとして名づけることは、ローグやウィーザードリーあるいはメトロイドとキャッスルヴァニア、いわゆるメトロイドヴァニアなどで見られます。

未だ若いシリーズであり、その定義もはっきりしていないことで、このソウルライクという呼称に少し抵抗感がある方もおられるでしょう。しかしこの主人公があっさりやられてしまう難度で、死んだ箇所に残った経験値を取りに行くというようなループの中に、面白いゲーム性が潜んでいることには異論はないと思われます。

ソウルライクでは基本、その死んだ場所に落とすものは経験値、金銭に相当するもので、取り戻せずもう一度死んでしまうとそれらは失われます。そしてそれらを取り戻しに帰るたび、道中再び配置された敵からの経験値がまた得られ、実質的に自分の得ている経験値の総量は、いわゆる”血だまり”が失われない限り増えていきます。

難度の高い場所でこそ、その報酬も、それを失った場合のリスクも高くなっていく。ソウルライクゲームのコアな部分が、この死に戻りにあることは明らかです。

こうした死ぬことを前提とし、一見理不尽ともとれる大胆な難易度設計を行うことで、他のゲームではなかなか味わえない緊張感を味わえます。ステージに配された罠やショートカットの仕掛け、前記の”血だまり”システムは、そうしたゲームプレイに小気味よい変化を与えてくれます。

篝火の力

そうしたループの端と端。篝火にプレイヤーが触れると、ゲーム世界の様々な存在が再配置されます。敵キャラクター、一部の罠、破壊可能オブジェクト等。他にもHP、魔法等の使用回数、FP、そしてエスト瓶の回数も全快、ダークソウル2以降では自動で壊れていない武器、防具の耐久値も回復します。
その周囲には同じように”今”ゲームをしている他のプレイヤーの幻影がよく見えて、暖かな”人間性”を感じさせ、次の試練への英気を養うことが出来るでしょう。

先ほども述べた通り、この篝火への往復、冒険と帰還、死と蘇りの繰り返しこそがこのゲームの肝であり、そのゲームプレイの中心に常に”篝火”は存在しています。

しかし、そうしたゲームシステム上の便利な道具としてだけでなく、考察を深めていく過程では、もっとこのダークソウル世界にとって”篝火”が特別な存在であることにも気付くはずです。

例えば先ほどのOPでも、火というものが重要な存在であり、始まりの火に惹かれ王のソウルを見出したものが、この世界の神々でした。ロードランにおいてはプレイヤー自身もこの篝火にソウルを持ち寄ってレベルアップし、やがてそうした神々に匹敵する力を持つでしょう。
最終的にゲームを進めその”始まりの火の炉”にたどり着くと、”薪の王”と決闘し、火を継ぎます。そこでもまた、その中心には”篝火”という存在があるのです。

ここまで話せばわかると思いますが、この世界においては火こそが人々に恵みをもたらす自然の象徴であり、古代イタリアのネミでディアナやウィルビウスを崇めていた人々にとっての、樹木と同じ存在なのです。
彼らはその聖所を守ることによって安産、子宝、豊穣を願い、その聖なる木の枝を巡って命を奪い合い、”森の王”という存在を維持し続けました。

もちろん、ネミにおいて灯もまた聖なるものとされたように、火を祀るダークソウルの世界でも、その逆に樹木への信仰というものは存在します。

ダークソウル3の不死街、ロスリック騎士の一部の盾の意匠、DLCのミルウッド騎士団は明確な聖樹信仰です。一部のスケルトンには木の根が生えていたり、ロスリックの高壁やアリアンデル絵画世界には樹木と人間の融合したような存在が見られます。また始まりの火を作ろうとしたイザリスの魔女は木の根の化け物のようになりました。そして太陽の光の王グウィンの末子(本当にそうかわからないが)フィリアノールの紋章は瑞々しい若草であり、あの世界における生命性というものは、植物の形で表されるものも多いです。

おそらくはダークソウル世界において、受肉していない命、肉体と切り離された生命の象徴として、火や血液というものがあるのでしょう。エスト瓶や一部の奇跡のアイテムテキストに見られる、”温かみ”という形でそれらの恩恵をあずかり、失われれば死んでしまいます。

「血が出た!(迫真)」と表示されたブレブレのSS。
様々な要素を乗せようととにかくゴチャゴチャしているが、この”血が出た”ために生命が大きく失われるというシステムも、下記の二元論の例のひとつ。
また肉体をほとんど失ったはずの手前スケルトンの生命が、(おそらくは)奥の炎術師のもつランタンの火に宿っているという事にも注目したい。これらランタンとスケルトンは離れたまま見えない力でつながっており、聖職の武器でなければその作用は断てない。

一方で肉体そのものや身体に込められた力の象徴として、樹木があるように思えます。大地を貫き持ち上げている力強い木の根というモチーフは背景としてよく見られますし、木をそのまま使った武器として筋力系のクラブ類があります。そして緑花草、緑花の指輪はスタミナを回復させ、プレイヤーはそのリソースをもとに様々な行動が行えます。

グレートクラブを右手に、草紋の盾を持つ亡者の姿。
一見して弱弱しくも見えるが、胸に生えた木の根のような模様が、いまだこの肉体に力が宿っていることを表現している。ありのままを見せるこのような姿はダークソウル世界ではむしろ紳士的なものとされており、ダークソウル3においても、この無印では基本装備であった”恥部隠し”を愛用している灰も多い。

これら生命と肉体という二元論は、現実の思想にもしばしば存在し、またこうしたゲームの世界観の中では主流とも言える考え方です。
いわゆるHPやライフというものは、そのキャラクターの生命力だと考えられますが、それがら減ることによってキャラクターの肉体の力そのものも減ってしまうシステムは、敬遠されがちです。そうしたじわじわと生命力が減じていくという表現は、生々しさを表現したいホラーゲームでは上手く働きますが、他のジャンルのゲームにおいては煩わしさばかりが目立ちます。

むしろそうした生命の危機に瀕しては、肉体的な力が上がるようなシステムが好まれますし、ゲームのストーリーにおいても盛り上がる展開とされることが多いです。

おそらく、『ダークソウル』においてはそうした”二元論”を世界設定のレベルで採用し、こうしたシステムや背景の表現においても反映させているのではないでしょうか。そして、そうした”二元論”における生命と肉体、精神と物質の象徴である、火と樹木を統べる存在として、火を継いだ大王グウィンは”薪の王”と呼ばれたのでしょう。

そのような樹木や篝火の力を得た存在が、日の光を受け芽吹く植物の種子や、息をかけられ再び熾る残り火のように、蘇ることが出来ない道理はないのです。

鐘の音によって蘇る、”薪の王”ヨーム。
大樹とも形容させる力強いこの巨人の身体に、息を吹き返すとともに、熱い炎が燃え上がる様子が印象的。

                          2021/12/08

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?