見出し画像

ダークソウルと金枝 1

さて、ダークソウルと金枝と題しまして、これからゲーム『ダークソウル』について、フレイザーの『金枝篇』を参考に、考察を進めていこうと思います。

当記事は、「ダークソウルと金枝 1」となっておりますが、この前回となる「ダークソウルと金枝 ―序―」という記事がございますので、未読の方はそちらからお読み下さい。

続、『金枝篇』第一章、第一節について

前回、この『金枝篇』第一章、第一節では”森の王”と「アエネーイス」の対比をしている、という事を話しました。実際それらについてはまったく具体的な話をしていなかったので、正直読んでいる方の多くはちんぷんかんぷんだったでしょう。
今回では改めて、この第一章、第一節に書いてある”森の王”の風習と「アエネーイス」の当該する場面の内容について詳しく語っていくことにします。

この聖なる木立にはある種の木が生えており、その木の周りでは、昼日中、そしておそらくは夜中まで、奇妙な姿がうろついているのが目にされたことだろう。この男は抜き身の剣を手にし、いつ何時敵に襲われるかもしれないといった様子で、用心深くあたりを見回していた。彼は祭司であり殺人者であった。そして彼が探している男は、遅かれ早かれ彼を殺し、彼の代わりに祭司職に就くことだろう。

 J.G.フレイザー.『初版 金枝篇 上』.吉川信(訳).筑摩書房.2003 p.20

この”森の王”という風習、あるいはその祭司職は、実際に古代ローマにおいて実在したもののようです。

補足するのなら、上記のような恐ろしい決闘に挑むことが出来るのは、”逃亡奴隷”だけだったということ。さらにそうした挑戦者は、この聖なる木立のさらに特別な木の枝を、折り取る必要がありました。
その木というのが、引用にある”ある種の木”なのかはわかりません。とにかくその第一の試練が果たされて初めて、彼らはこの”森の王”の決闘へと挑むことが出来たのです。

以上がその”森の王”というものの概要ですが、『金枝篇』にはさらにその風習を彩る伝説の数々を解説していきます。

そもそも”森の王”という名は、女神ディアナの擁する下位の神ウィルビウスの称号であったそうです。さらにたどるなら、そのウィルビウスという神は、ギリシャの英雄ヒッポリュトスの生まれ変わりとされています。

自らの馬に蹴られて死んだヒッポリュトスは、女神アルテミス(このギリシャの女神はローマ神話におけるディアナと同一視される)の願いによって名医アスクレピオスに助けられました。しかし、死すべき運命の人間が冥界から蘇ったことに怒ったゼウスはアスクレピオスを雷霆で打ち殺し、女神は蘇ったヒッポリュトスの名を変えて、自らの聖なる森でかくまったという事です。

さらに追加させていただくと、ディアナはそのネミにおいて安産や子宝の利益で信仰を受け、彼女の元には絶えることのない灯がともされていたのではないか、とも書かれています。

決闘によって継がれる”王”の称号、蘇り、絶えることのない灯。
すでに『ダークソウル』をプレイしたことのある人ならば、なにかしら感じることもあるかもしれません。しかし今はあえてそれらを後回しにし、今度は先の”森の王”と対比される、「アエネーイス」の”金枝”の場面を説明していきましょう。

先回に引用したように、著者フレイザーは、特にこの「アエネーイス」の”金枝”というものと、逃亡奴隷が”森の王”に挑む前、禁じられた木から折り取った、”運命の枝”とを同一視していることに注目してください。

アエネアスの黄泉下り

コンピュータウィルスの名称としても有名な”トロイの木馬”。
もちろんこのトロイア戦争のエピソードは有名ですし、その他トロイアに攻め入ったギリシャの英雄、アキレウス、オデュッセウス等の名は、聞いたことのある方も多いでしょう。しかしこのトロイア戦争の名をとられたトロイア側の英雄の知名度は一段落ちますし、生き延びたトロイア王家の末裔、この”アエネアスの物語”も、日本ではあまり有名ではないのかもしれません。

しかし、この”アエネアスの物語”つまり「アエネーイス」という叙事詩はヨーロッパでは非常に有名な古典中の古典です。おそらく『金枝篇』の読者に対しては、当然知っているものと考えて、あえてその内容に深くは触れていないのでしょう。

しかしこの物語との対比によって、この節に見えてくるものは大きく変わります。そうした違いによって、その後のこの本の理解もかなり変わってくるでしょう。
私は一度普通に読んで、後知恵での言い分にはなりますが、初めて読む場合にもこれは当てはまるものと思います。

さて、改めてこの「アエネーイス」の『金枝篇』の中に少なく触れられているエピソードとは、かのトロイアから落ち延びた興国の英雄アエネアスが、母神ウェヌスのお告げによりイタリア半島のクマエまでたどり着いたところでの場面です。
すでに過酷な旅の途中父アンキセスを失ったアエネアスは、クマエの巫女に助言を請い、冥界へと旅をすることになりました。

この冥界への旅というモチーフは多くの神話に見られ、非常に普遍的なものでもありますが、同時に厳格な掟によって縛られた、英雄への試練でもあります。

ゲーム「SEKIRO」の回生と、「ダークソウル」の蘇りの場面。
こうした蘇りは英雄の特別な力でもあり、フロムソフトウェアの作品ではこの桜色のエフェクトで表現される。

オルペウス

先立たれた妻に会おうと冥界に降りたオルペウスは、見事な竪琴の音で冥界の番犬ケルベロスも、冥王ハデスをも懐柔させてしまいます。
しかし彼が妻の手をとり現世へ帰ろうとすると、ハデスから忠告を受けました。「現世へと変えるまで、道中決して振り向いてはいけない」と。彼は妻を案じるあまりにその掟を忘れ、そのことにより妻エウリュディケは、冥界の奥へ連れ戻されてしまいました。

ペルセポネ

冥界の王ハデスに見初められ、冥界へと連れ去られてしまったペルセポネ。母であるデメテルは彼女のために地上をさまよい、ついには娘が戻ってこない間、自らの神としての働きを止め、地上に植物が芽吹かないようにしてしまいます。
困った神々はハデスを説得し、彼もペルセポネを地上へ戻すことに同意しました。しかしすでに、彼女は冥界の食べ物を食べてしまった後でした。その食した冥界の柘榴の粒の分だけ、ペルセポネは冥界にて暮らさなければならりません。今でも一年のうちその期間だけ、母神デメテルは仕事を止めてしまいます。そうして地上には植物の芽吹かない期間、つまり冬が訪れるという神話です。

イザナギ、イザナミ

日本神話の国生みの神、イザナギとイザナミですが、その後火の神カグツチを産んだために、イザナミは体を焼かれ死んでしまいます。
妻を連れ戻そうと黄泉平坂へ向かったイザナギでしたが、妻イザナミはすでに冥界の食べ物を食べた後。なんとか冥界の神を説得しようと試みるイザナミでしたが、その説得のあいだ思わず妻の言いつけを忘れ、イザナギは「決して見ないで」と言われた彼女の姿を覗いてしまいました。
一転、怒れる妻は夫を襲い、夫は逃げる逃走劇へ。結果、黄泉への道は固く閉ざされ、この諍いによって人の世には生き死にが生まれました。

このように、生と死、現世と冥界というものは、神々さえも破れない厳格な掟によって定められています。その掟を守れるかという事は、神や英雄に課された一種の試練でもあるのです。
では、このアエネアスの黄泉への旅とは、どのようなものなのでしょう。

じつのところ、上記の神話のような、特筆すべき試練は特にありません。
英雄アエネアスはまず冥界に赴く際に、先の巫女に忠告を受け、ペルセポネに贈る珍しい光り輝く枝、つまり”金枝”というものを探します。そしてその”金枝”を携えたアエネアスは、冥界の渡し守カロンにその”金枝”をみせ冥界へと渡り、途中ペルセポネの屋敷の扉にその枝を差し入れると、とくに差しさわりなく冥界の旅を送りました。

ひとつ誤解してほしくないのは、この冥界の旅がこの”金枝”以外の項目では、他の神話と比類する面白いモチーフがないというだけで、実際にはこの冥界への旅は非常にきれいに描かれた場面です。後世の詩人ダンテも、このウェルギリウスの叙事詩の場面をオマージュし、彼に自身が導かれるという構成で、「神曲」の地獄巡りの場面を書いています。

魔界へと赴くダンテとバージル(ラテン語名ウェルギリウス)。
神曲をモチーフとするこの「デビルメイクライ」シリーズでは、兄バージルの痕跡や謎を追って、割合に軽いノリで主人公ダンテが魔界へと挑むというパターンが多くみられる。
また、他ゲーからのSSでもこうして載せておくと、”記事を書いている感”が演出できる。

ただ神話的、寓意的な物語があるかというと、少なくとも私には見受けられませんでした。途中、クマエの巫女による冥界の様々な恐ろしい危険のレクチャーをうけつ、旅の途中死に別れた様々な人物と、涙を催す邂逅をはたしながら、出来事としては起伏なく淡々と進んでいくことが印象的でした。

”金枝”と”運命の枝”

 先回に引用した箇所を、もう一度引用します。

伝説の主張するところによれば、この運命の枝は、アエネアスが黄泉の国への危険な旅に似りだす前に、巫女の命により折り取った、黄金の枝であった。

 J.G.フレイザー.『初版 金枝篇 上』.吉川信(訳).筑摩書房.2003 p.22

この伝説というものの出典は、とくに本にも記載されていません。
しかし著者の主張によるとこの両者は同一のもので、上に説明した”森の王”の風習と、「アエネーイス」の場面には、共通のものが存在しているという事になります。

どうでしょう。皆様には何か思いつく共通点があるでしょうか?

指摘されている事実として、まず枝を折り取るという事は共通しています。
”森の王”では木立の特別な木の枝を折り、「アエネーイス」では巫女に指定されたとある深い谷に降りて、光り輝く枝を探します。そして前者が決闘へ、後者が冥界へという、ある種危険な状況へ挑むためだというのも共通した部分です。

しかしここ以降では、”森の王”の生き残ったほうが再び”森の王”としてそのディアナの聖域にとどまり、「アエネーイス」では無事に冥界から帰り、また次の旅へ、という事ですから、両者は完全に違う運命をたどることになりそうです。

という事は、この二つの物語の共通は

  • 枝を折る、ということ。

  • そののちに、危険な試練に挑む、ということ。

この二つということになります。

実のところ、『金枝篇』第一章、第一節の終わりも、同様の二つの問によってしめられています。

答えなければならない問いは二つある。第一に、なぜ祭司は前任者を殺さねばならないのか? そして第二に、なぜ殺す前に、「黄金の枝」を折り取らねばならないのか? 本書は以下、これらの問に答える試みとなる。

J.G.フレイザー.『初版 金枝篇 上』.吉川信(訳).筑摩書房.2003 p.25

”金枝”という問い

今回の記事。さてここまで約四千文字を費やして、ようやく本書の同じような問いにまでたどり着きました。前回の文字数も含めると、倍以上にも膨らんでしまいます。

対して、この記事の種本となっている「初版 金枝篇 上」においては、口絵や目次等もふくめ二十五ページほど。このままのペースでいけば、この記事シリーズはいくらたっても終わりませんし、本からの引用も引用では済まない量になってしまいそうです。

しかし、こうして「アエネーイス」や他の神話を並べ『金枝篇』と”同じような問い”を導き出したのは、この”同じような”部分に微妙な差異があり、それが(少なくとも私にとっては)重要な違いに思えるからなのです。

先ほど私が導いた問いと、『金枝篇』において提示された問い。
それぞれ対応したものと並べると

  • (”森の王”、「アエネーイス」の両者において)枝をおる、ということ。

  • なぜ殺す前に、「黄金の枝」を折り取らねばならないのか?

  • そののちに、危険な試練に挑む、ということ。

  • なぜ祭司は前任者を殺さねばならないのか?

となります。

ここでまず注目してほしいのは、後者の問。
ここに言う”危険な試練”の一方は、”森の王”の決闘の事を言っていますから、この”何故祭司は前任者を~”と、完全に同じことを指しています。しかし同時に、もう一方ではこの”危険な試練”とは、”英雄アエネアスが冥界へ旅へ行ったこと”も指しています。
つまり……

  • 祭司が前任者を殺す(殺して成り代わる)こと

  • 英雄が冥界へ行って戻ってくること

この二つは、先に著者が暗示したイメージの中では、同様のものという事になります。はたして、どういうことなのでしょう。

さて、疑問を一旦置いてさらに話を進めると、先に記したように、実のところ英雄アエネアスにとっては、冥界の旅もとくに危険ではありませんでした。淡々と巫女の言うことに従って、淡々と旅を終えています。そしてその鍵となるものは、上記の二つの問いの前者、”金枝”つまり”黄金の枝を折り取ること”です。

話をまとめると、”森の王の決闘”とは”英雄が冥界に旅をする”ようなもので、しかもその安全は”黄金の枝を折り取ったこと”によって、保障されています。
ふたたび何を言っているのかわからない文章になってしまってすみません。しかし、この不可思議な要素を組み合わせ整合性をとっていくことこそ、考察の醍醐味です。もう少し我慢してお付き合いください。

なぜ英雄アエネアスは、安全に冥界を旅できたのでしょうか。
それは単に掟を破らない行儀のいい英雄であったことも確かですが、一番の要因は、やはり”金枝”というものを用意してペルセポネに贈ったことです。

冥界の女王ペルセポネ。
記事の上のほうでは、やはり冥界の掟に逆らえなかった神として例に挙げていますが、この時はすでにハデスの奥方として貫禄ある姿を見せています(姿を見せたとは言っていない)。

ただ間違えてはいけないのは、この時の彼女もまた冥界の掟には縛られている身であり、冥王やその妃とて、容易に掟を破ることは出来ないということです。つまり”金枝”という贈り物は、決して冥界における裏道的な賄賂ではなく、正当なる通行手段なのです。
この場合、温情や贔屓でアエネアスを通しているわけではないので、他の冥界の神話のように、それ以上の余計な誘惑や試練は課されないわけです。

では、誰かが冥界を通過するにあたって、その正当な対価となるものとは何でしょう? 答えは簡単です。その人間、あるいは神自身の、魂です。

英雄アエネアスが、アエネアス自身の魂を差し出し、その後生きて帰る。
確かにおかしいように感じますし、実際のところ叙事詩「アエネーイス」においては、あくまで”金枝”とはアエネアス自身の魂に相当するだけの何か、なのでしょう。

しかし、”森の王”という風習においては、どうでしょう。

新たに”森の王”となる者は、前任の”森の王”を殺し、成り代わります。
おそらく新たな”森の王”と前任の”森の王”とは、同じような存在として扱われたでしょうし、元逃亡奴隷であった彼は、以降の名も”森の王”としか呼ばれなかったはずです。

もしもある聖なる木の枝が彼の魂だとされていた場合、その枝を折り取って自らのものにし、彼の祭司の職を継ぎ、彼の名で呼ばれる存在は、はたして今何者なのでしょう。

今はまだ、こうした疑問に答えを出す必要はありません。
私のこの仮説の導き方について、疑問を持ったり、それを否定する立場で意見をくださることも歓迎いたします。あるいはそもそも『金枝篇』自体へ、私が何か誤解しているような部分もあるかもしれません。

しかしそうしたこの記事を破綻させうるような指摘がない限り、多少は手直しをしながら次の記事を書いていくつもりもです。

またそうした以降の記事に向けて、私はここに二つの仮説を立てます。
第一に、『金枝篇』『ダークソウル』という作品は、一人の英雄あるいは神が、死して蘇る姿を描いた物語である。そして第二に、上記の両作品は、彼ら英雄や神のもつ外在の魂を扱った作品である。
本記事シリーズは以降、これらの仮説に蓋然性を与える試みとなる。

21世紀頃に描かれたと思われる、由来不明のpng画像。
”金枝”とされる何かと、様々な事物との相関が描かれている。

参考文献。
ウェルギリウス著、『アエネーイス』杉本正俊(訳)新評論、2013

                                                                                             2021/12/04

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?