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ダークソウルと金枝 6

前回までで、生贄やそれを模した祭祀の概要をあらかた示せたかと思います。

一応おさらいしておくと

  • 老いてしまう王の魂を保存する手段として、王殺しが行われた

  • 若い体に魂を移し替える儀式だったが、その生贄という部分が後に残った

  • そうした生贄を模した祭りは様々に変化し、神話にモチーフを残している

  • 今に残る祭りには、その生贄に象徴される存在を悼む悲劇性、彼を殺すことに対する理由付けとしての罪悪、その生贄にされたものの肉体に帰せられる様々な呪的効用、等が特徴として見られる

というような感じです。

聖なる獣たち

前回では王の生贄を模した儀式として、農民たちの豊作を祈ったであろう祭りと、それに関連する神話を見てきました。

しかし現代にイメージされる”生贄”とは、神や王を殺すことではなく、主に彼らに対し動物たちを捧げることです。しかも『金枝篇』に書かれる生贄とは、元は王の魂を入れ替える儀式ですから、単に農村で豚や羊を殺しても、さして意味はなさそうです。どういうことでしょうか。

『金枝篇』において、こうした神のために殺される動物とは、神と同一視される動物だとされます。神によって種が芽吹き、神によってその作物が成長すると考える人々にとって、もちろん生贄にされる動物とはその神の力を回復させうる存在で、そのような力をもつものは、すなわち神に他ならないからです(循環論法)。

このような穀物の神、穀物の霊とされる動物の例は豚、イノシシ、馬、狼、山羊、猫、鶏等々。比較的人間に身近な動物なら、たいていこうした例に当てはまります。

日本で分かりやすいものとしては、神馬、神鶏そして稲荷がこうした穀物の神、神の化身とされた動物の例でしょう。馬、鶏はこの本にも挙げられ、自身もこうした作物によって育ち、その尾やたてがみは実った作物を連想させます。狐は上での狼と同じようなもので、田畑によく侵入する生き物であり、その尾は実った穀物の穂のようです。

狼や狐はそうした農家にとっては天敵のようにも思えますが、やはりそれだけ身近でもあるのです。ライトノベル「狼と香辛料」の”賢狼ホロ”のイメージは、こうした『金枝篇』からとられたとは、有名かと思います。

また神道では血や殺生は穢れとされ、食肉の文化もないことから、これら生き物を殺す儀式はあまり無いですが、神馬や神鶏はよく神社に奉納され、それが難しい今日でも絵馬としてその形は残りました。稲荷様は狛犬のように神社にその像が置かれ、畑からとった大豆由来のお揚げが好物とされます。

こうした動物が実際に神として崇められた例として、この記事でもおなじみのデメテルとプロセルピナの祭り、テスモポリア祭を挙げています。その祭りでは”デメテルとプロセルピナの深い裂け目”と呼ばれる洞窟に、練った小麦、松そして豚を投げ込んだことが書かれており、また彼女の伝説の異説として彼女が冥界の神に連れ去られる際、あやまってエウブレウスと呼ばれる豚飼いの豚たちも冥界に落ちたという話を乗せ、この祭りでは豚をプロセルピナ自身と同一視してそれに倣う儀式だとしています。

また彼女の母デメテルが冥界に連れ去られた娘を探し馬となって探し回ったという神話に対し、黒いデメテルと呼ばれる人身馬頭の像があったことを挙げ、こうした神と聖獣がイメージとしても融合されていたことを語っています。

獣頭人身の、牛頭のデーモンと犬のデーモンの手下。
グウィンを追った黒騎士たちが、こうしたデーモンを狩っていたことは、武器のテキストに書かれている。しかしこのデーモンたちもまた、鉈や斧などの、薪を伐りだす武器を持っている。

しかし、こうした神自身とされる動物が必ずしも神聖なものとばかりされていたかというと、そうではないようです。事実、この記事シリーズの最初期に紹介したウィルビウスの例においても、彼の前世であるヒッポリュトスは、彼自身の戦車を牽いていた馬に蹴られて死んでしまいました。

後のウィルビウスを信仰したネミにおいて、馬がその聖なる森では禁忌とされたことは説明しましたが、この箇所にはその馬がこの森で生贄にもされただろうとしています。何故聖なる動物を殺すのか、という疑問は昔の人々にも当然抱かれ、そうした矛盾の解消としてこのような動物は後世には悪魔のように忌避された場合があることも語っています。

『ダークソウル』において聖獣と言えばウーラシールの聖獣が浮かびますが、このキメラのような動物のパーツ、獅子、山羊、鳥というモチーフと同じ図像が不死教区の聖堂に見られ、それらは穀物の意匠とともに描かれています。

謎の生き物、霊廟の聖獣。
霊廟にいるからにはそこに眠る何者かの力を象徴する存在のはずだが、その由来は不明。
獅子、鷹のような翼、刺す虫のモチーフから、このDLCの物語において重要なグウィンの四騎士のようにも思えるが、それにしては山羊の要素が不明。狼も無い。上に挙げた不死教教会のレリーフとも、また少し違うモチーフが組み合わされており、この後に会話するエリンギと並び、屈指の謎要素。

神喰らいという儀式

こうした穀物の霊性=動物と表され、そしてその動物が神自身とされる場合には、人間は神自身を食べていると言えるわけですが、そうしたことは古代の感覚ではむしろいいことだと捉えられていたようです。

現代の感覚では、そうしたことは一見タブーのようにも思えます。しかし神との合一、神の力を得るという事は古代から続く信仰の一つの形であり、現代においてもそのものを目指す宗教もありますし、その事を注意深く秘して行う信仰の形も存在します。

ダークソウルとは違うが、同社のSEKIROより、”吽護の飴”と”神食み”。
御霊をその身に降ろし様々な効果を得るとされる飴類と、神を食べHPや状態異常を回復する”神食み”は、そうした八百万の神が信じられる和風の世界観ならではのアイテム。特にこのゲームにおいて重要な体幹というステータスを強化する”剛幹の飴”、通称パイン飴は、それを信じる者たちにこのゲーム発売当初から愛用され、私もラスボス戦ではそれを噛み締めながら戦った。

やはり日本人になじみ深い例として、”お米には七人の神が宿る”とはよく言われる例で、正月では神のように飾る鏡餅を分けて食べることも普通に行われる行事です。現代では”神様”というものが、それぞれ名付けられ擬人化された状態で紹介されるので違和感をおぼえるかもしれませんが、日本語の”神”=霊的エネルギーあるいは、あらゆる力そのものだと考えると納得できるでしょう。

科学的にそれが分けられ名付けられていない時代には、ご飯のカロリーも魔法か何かの不思議な力も、区別されずそれが神だと言われたのです。日本の食前の挨拶、”いただきます”という言葉は、今ではそれを用意した人、作った料理人に対して言うものと意識しているかもしれませんが、もとはそうした素朴な神、食べ物そのものにいう言葉だったと言われています。

『ダークソウル』においてこの場合をお話しすると少し暗い話になるのですが、”人食いの聖者エルドリッチ”の例がその代表的なものでしょう。

しかしここで注意しなければならないのが、この『ダークソウル』の世界は、”不死の神々と定命の人間”という構図ではなく、”滅びの運命を持つ神と死ねぬ不死人”という構図をもった世界だという事です。

本来ならば人が神の一部を食べ、その永遠の生命や、神が司る輪廻転生の魂に人があやかることが現実の信仰です。しかしこのダークソウルの世界では、神の力やその祭儀によって人として死ねることが信仰の目指すところであり、エルドリッチのような”薪の王”=ロードランの神々となる存在に人が食べてもらう、その力へ融合する事で、不死人となった自らの往生を願います。

最初の死者ニトにあやかる信仰。薪の王グウィンの祭祀を継ぎ、不死人を人へと戻す。神の枷とされる頸椎を積み、神の理に戻る。騎士として王にその血を捧げ、聖王ロスリックに火を継いでもらう。これら『ダークソウル』世界の信仰の多くは、おそらく人としてその生を終えることが目的です。

現実とはおそらく逆だという考えで、考察したほうがいい例もあるでしょう。

ロスリック城の、自らの首を捧げる騎士。
見た通り、この像は噴水を飾る意匠だが、そもそもこの城と大書庫をつなぐ橋の真ん中に、水が湧くはずもない。またこうしたものは通常、水瓶を持つ女性や獅子、日本では龍など、自然神の化身から生命=水が湧き出るイメージを模したものが多いが、ダークソウルの世界ではまるで違う。

殺害の聖性

しかし動物を生贄にする=その魂を神に帰すという信仰は、つまりその動物の殺害の正当化でもあります。

もちろん、自然界において他者が他者を殺す、他者が他者を喰らうという事は、中立と見なされるべきです。しかしこの『金枝篇』が書かれてから百年以上、人間といわゆる自然界とのパワーバランスは大きく変化してきました。

この『金枝篇』第三章、第十二節「神聖な動物を殺すこと」には、狩猟民族、牧畜民族にも、先の農民の祭りのような、祭儀や信仰があったことを記している節です。そうした民族の信仰の形や、伝わっている伝承、また最近では「ゴールデンカムイ」などで聞いたことがあるでしょう、アイヌの祭り”イオマンテ”の記述などとくに興味深いものも多いです。

自然と密接にかかわってきた人々の信仰に触れること、またそうした信仰にルーツをもつ他の文化圏の価値観を考えるにあたって、こうした自然との接し方が大きく変化した過渡期に書かれたであろうこの書を読むことは、面白い読書体験となるでしょう。

『ダークソウル』に関して比較できる部分は……それなりにありますが、”森の王”や”薪の王”の説明とは道を逸れますので、ここでは飛ばします。

罪悪の領分

こうした生贄の儀式に当たって、しばしばその犠牲者に、なにがしかの罪が着せられることは触れてきたでしょう。

農民の祭祀において、植物の王とされる存在、死神と呼ばれる存在が、裁判にかけられ処刑される祭りの例。また王の代替として、囚人が選ばれる場合がある事も話しました。

これにはおそらく、以前穢れを祓う例としてあげた、生まれ変わりの儀式が関係しているのかもしれません。もしも以前の王を殺し、新しい後継にその魂を継げば、前後では同じ存在とみなされますが、同時に生まれ変わった存在とも見なされるはずです。つまり前任者の負っていた穢れや罪悪は、その生まれ変わりによってチャラになるという事です。

まず金枝篇では、害悪を転移できる例を説明し、その後そうした例と照らし合わせ、実際に害悪を追放する祭儀を紹介していきます。何かを放つ、何かを捨てるなど、こうした罪を移し替える媒体として、しばしば硬貨や金銭が使われるのも特徴です。

いわゆる、”痛い痛い飛んでけ”のおまじないは典型的なものですし、泉にコインを投げる風習、持病を抱える部位を触ってそれを癒やしてくれるというお地蔵様は多くの地域にみられると思います。不幸を他者に移す=自分は幸福になるという考えで、いまでは幸運のまじないのように解釈されていたりもするでしょう。

『ダークソウル』では主に発見力を上げる硬貨、呪いを解く解呪石、免罪や解呪、法の再起を願う、解呪の碑やベルカの像がこの例に相当すると思われます。また人間性を媒介として2,3での呪いステータスに相当する亡者化を解く篝火の作用や、初代での呪い状態を解く小ロンドの癒やし手イングヴァードもこれらと思われます。

ベルカの女神像と同一の効果を持つ、解呪の碑。
この禍々しい姿を見れば、この碑に多くの罪悪が移されてきたことは、明白であろう。同時に携行アイテムである解呪石が、どのようなメカニズムで呪いを癒やしたのかもなんとなく理解できる。
八角形の台座と両脇の柱、梁。この碑の元の姿を想像すると、釣瓶を掛けた井戸のようにも、また鐘を釣った台座のようにも思える。

しかし、そうした細々とした儀式がやがてそれら害悪を予防するため、定期的に行われるようになり、王の生贄の儀式と習合したのではないかと、フレイザーは考えていたようです。多くの罪のための供儀が催され、先に言ったように、神自身として贄にされる存在にも罪悪が背負わされました。

こうした罪、罪悪の追放の祭りの特徴として『金枝篇』に上げられていることは

  1. 人々の負った罪悪の一掃を目的としている

  2. 通常、年に一度のいずれかの季節の変わり目。北極帯、温帯では冬の終わり、熱帯では雨期の始まりか終わりが多い

  3. こうした公的な罪悪の一掃の儀式の始まりか最中では、ある種の放埓三昧、無礼講のような期間が設けられている

  4. このような災厄を負う対象に、聖なる人間もしくはスケープゴートのような動物を雇う

ということです。

1については見てわかる通りです。その年一度の祭儀においてその罪悪が一掃できなければ、そもそも祭りとしての意味がないのですから、当たり前でしょう。

2については単にそういう傾向がある、ということですが、その例として温帯気候の日本では、お正月や旧正月に厄払いのお祭りが行われます。気候的にはまだまだ冬の祭りかに思えますが、新年を迎えることを”迎春”といいますし、暦の上ではまさに”冬の終わり”なのです。

3に関して、日本は割と抑制的です。しかしお祭りがそうした性質を持つことはイメージできるでしょうし、罪悪がその祭りでチャラになるという考えの元では、人々が開放的になることも当たり前と言えるでしょう。

4について、誰かを雇うか動物を買う、というのは日本ではあまり例は見当たりません。しかしヨーロッパや中東で、金銭で買った動物を開放して徳を得る、という風習は少し調べてもらえればわかるでしょう。またシンイーター(罪喰い)という、金銭によって厄を引き受けてもらう職業が、実際にあったという話を聞いたことがあるかもしれません。神から追われたはずのミミックが、アノールロンド城内で、コイン系のアイテムを持っていることも面白い符合です。

『金枝篇』では、さらにこうした特徴として、このような追放する対象を、しばしば植物で打って清めることを挙げています。植物で打つ、植物を武器とするというのはダークソウルでは触媒以外では珍しいですが、エレーミアス絵画世界では、伝説の追放者とされる”黄の王ジェレマイア”が、イバラムチで叩いてきます。

こうした追放を行う儀式を考えるうえで、今一度初代『ダークソウル』の白教の使命を追ってみようと思います。これら白教の使命が「高貴なうまれに出てしまった不死を、ていよく追放する意味もある」というようなことが、ディレクターの宮崎さんによって言われていたことは、考察界では有名でしょう。

会話の流れから、レア一行もみな不死だということ、ペトルスの言葉では”注ぎ火”を探すことが目的だと明かされます。しかし”注ぎ火の秘儀”を得られる地下墓地での共闘や会話などのやり取りはなく、”犬のデーモン”を倒し祭祀場に現れた後、次に彼女たちに合うのは巨人墓場の穴底です。

亡者となったニコ、ヴィンスを倒しレアを救うと聞けますが、パッチに騙されてあの穴の底に落ちたそうです。その場にペトルスがいたかは分からず、ペトルスからもパッチに騙されたなどの話も聞けません。

しかし抱かれ騎士ロートレクとの会話を進め、その仲間と思われた場合には、ペトルスはレア一行が穴に落ち、ニコとヴィンスがすでに正気でないことを詳細に語ります。そして彼女が無防備であることをほのめかし、主人公にその運命を握らせようとするのです。

・・・ああ、貴方ですか ロートレク殿のお仲間なのでしょう?
でしたら話は早い。お嬢様は、地下墓地の奥 巨人の棺を滑り降りた先にある、穴倉の底にいます
お供の2人も今や人でなく お1人で泣いていらっしゃるでしょう
貴方ならば、簡単に自由にできますよ 血筋ばかりの小娘に、何ができるはずもありませんからねえ・・・ クックックックッ・・・

「DARK SOULS TRILOGY -Archive of the Fire-」,株式会社KADOKAWA,2018.p202

おそらくパッチに騙されたことも知り、彼女が穴底にいることも把握しているペトルスですが、自ら手を下そうとはしません。主人公がレアを救出したあとではやむなく殺害するようですが、その場に人間性などは残されたままです。

NPCの背景があまり描かれない『ダークソウル』シリーズでも、屈指の謎&後味のわるいイベントのひとつです。

しかしこのイベントが白教からの不死の追放と、彼女に着せた罪悪の一掃と考えるとどうでしょう。良い生まれでありながら不死となった聖女レアの追放が裏のテーマであることは頷けると思いますが、それだけではペトルスのこの奇妙な態度は納得いきません。彼は同じ不死でありながら、明らかにレアの命を狙い、しかし自らはその手を汚そうとはしません。

この奇妙な状況は、聖女レアが白教の害悪を負わされていたと考えると納得できます。先に人間性がこうした害悪の転移の媒介になることを示しましたが、そのように彼女に害悪と人間性が移されていたとしたら、このNPCの屈指の人間性の多さも頷けるでしょう。

人の世界で不死人となれば、彼女たちのように追放の憂き目にあいます。
白教の中にもしも害悪を転移する儀式があるなら、レアのような追放者を聖女と呼び、ていよく不死の呪いを移したいソルロンドの貴族は多くいたことでしょう。

多くの人間性が捧げられた火防女、混沌の娘の魂。
ダークソウルの世界で人間性が捧げられる火防女は、このようなおぞましさや汚らわしさが強調される。一方でロートレクやカーク、ダークレイス等は、このような人間性を多く求める。人間性というシステムには、まだ多くの考察が必要とも思われる。

こうしたNPCのイベントでは、後半や最後の場面でNPCの装備が変わったり追加されたりして、その心境の変化を示すことがありますが、このペトルスの装備は一貫して白教の騎士のままです。ナイトシールド、モーニングスター、ソルロンドのタリスマン。

それら装備を捨てたり、ロードランで生き方を変える手段はあったはずですが、あくまで彼はレアに移った害悪を誰かに移すか、巨人墓場に眠らせることを目的としています。実のところこの不死の送られる流刑の地で、白教の信仰も、ソルロンドの騎士としての矜持も、彼は何一つ捨ててはいなかったのでないでしょうか。

罪の神ベルカの教戒師、カリムのオズワルド。
「我らの仲間だろう?」というのは、週末によくこうした格好で街へ繰り出していることか、あの時誓っていた白教の誓約の事をいっているのか。
彼が気のいい男だとは思いたいがもし後者だとすると、このセリフは白教の掟に、ベルカのような罪を扱うものが存在することを示しているようにもとれる。3の時代には、ソルロンドのロイド信仰は傍系だと、カリムの派のものが指摘しているアイテムテキストもあるが……

続きはこちら。

2021/12/25追記

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