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ダークソウルと金枝 5

こうして続けてきた「ダークソウルと金枝」、ようやく内容的には折り返し地点だと思います。

いいかげん長いな、とは思われるかもしれませんが、これからは駆け足気味で行くつもりですし、分量としてはこの倍はかからないと思います。わかりませんが。

前回はこちら。

さて前回までで、おおよそこの『金枝篇』のテーマの一つ、”森の王”という風習に対し、ある程度その理由は察しがついてきたのではないでしょうか。

  • 古代には、人にも自然の力を操れると信じられた。

  • そうした自然的力を操れる=その力の化身とされた王たちが生まれた。

  • そうした王に、現代では加害行為と思われるような儀式やしきたりでその力を維持、行使させようとした

  • 王の力の維持には、身体から魂が出ないことが重要とされていたが、ときに魂の不在という状態も眠りや仮死状態ととらえられた

これらの事によって、王という存在や、その取扱いが示されました。

しかしこれらの事を、感情的な問題を無視してでも逆説的に利用するならば、”森の王”の決闘という祭儀が、より強い王の体に、その魂の力を入れ替えるために行われたのではと気づくでしょう。

「神殺し」という事

ぶっちゃけて言えばこうした可能性について、『ダークソウル』をそれなりにプレイしていた方なら、この記事を読み始める前に気づいていたでしょう。そうでなくても、一通りゲームをプレイして他の方々が考察した記事を読めば、同じようなことが書いてある事と思います。

ですから、この記事において今まで話してきたことは、『金枝篇』に書かれている内容と『ダークソウル』の内容がいかに似ているかという、追認の作業だったともいえるかもしれません。

そしてこれから解説していく『金枝篇』第三章「神殺し」という章は、読んで字のごとく、そうした神とされた王について、彼を殺すことがどういうことかと探究する章です。

第一節、聖なる王を殺すこと。二節、樹木霊を殺すこと。三節、死神を追放すること。第四節から九節、アドニス、アッティス、オシリス、ディオニュソス、デメテルとプロセルピナ、リテュルセス。十節、動物としての穀物霊。十一節、神を食すること。十三節、害悪の転移。十四節、害悪の追放。十五節、スケープゴートたち。十六節、メキシコの神殺し。

この『金枝篇』のおおよそ半分を占める長い章には、人類がどのようにこの罪深い神殺しの儀式を行い、理由付け、伝説に残し、そうした行いの中から、何を得て、その儀式の中に何を託そうとしたのかが語られます。ついでに、メキシコの神殺しについても。

さて、こうして各節の題を並べて見つめその話の筋をたどっても、いろいろと遠回りをしているように感じるかもしれません。

しかしこの章に書かれた、あらゆること。
神であるとされるはずのものが、また害悪かのように人々の罪を背負わされたこと。神が主に、その民族の畑や牧畜などの恵みの象徴、その根源として崇められ、時としてその作物そのものとされ聖なる動物の名で呼ばれたこと。そうした作物や家畜が、贄とされ、人々に食されるということ。そして、そうした儀式や神話を生み出した人間の心の作用が、古代のヨーロッパや、遠く離れ文化的に分断されていた南北アメリカ大陸にさえ見られたこと等。

『ダークソウル』の話とは道を離れますが、こうした著者フレイザーの見出そうとした普遍的な人間と神話の関係性について、この本を通して感じてみるのも趣深いと思います。

第三章「神殺し」一節から三節

この一節から三節までが、この章における”序”のようなものと考えてください。この節にこの章に語られる風習の概要がまとめられ、そうした例が神話の神にも当てはまるかを確認し、さらに後の章でそれぞれの事を詳らかに検証していく流れです。

まず「聖なる王を殺すこと」とはつまり、どういうことなのかを一節に書いてありますが、その概要は上に述べた通りです。

神懸かりであり、同時に人間でもある王という存在が、もし老いて肉体が弱くなっていけば、その力も同様に老いていくかもしれません。そうした肉体の死に神の力が影響を受けないように、王を殺してその魂をより肉体の強い若い王に移し替えます。王の器とは、化身となった者の身体そのものでもあるのです。

はじまりの神話を模し、四人の王のソウルを器に捧げなければ、この扉は開かない。
単に”太陽の光の王グウィン”の後継となることではない。偉大な王たちの魂を受け、”始まりの火の化身”となることが、この火継ぎの儀式の目的。

しかしこうした儀式のうちに、結局は王の死という現象が起こってしまっているのでは、と疑問にも思うでしょう。そう言った疑問に簡単に答える例として、北欧神話の生死感を思い浮かべてもらえるとよいと思います。

北欧神話において、血気盛んな戦士のまま戦場で散れば、たとえ負け戦でも栄誉ある戦士としてヴァルハラへと向かいます。しかし、彼が戦場から生き存えて病死や老死をしてしまうと、凍てつくヘルヘイムへと送られます。何故正しく生きた人間も、死に方によってヘル(地獄)へ送られるのかと思うでしょうが、ヴァルハラにてオーディンが求めているのは、猛々しい戦士の魂であって老いた魂や病人のそれではないからです。

若くして力あるまま死ねば、魂はその性質を宿したままになるという信仰。
そして王の儀式においては、そうした若いままの魂を、継承するための手段も用意されているのです。

この年老いた、あるいは老いる兆候を見せた王を殺さねばならない、というしきたりは後世には穏やかになっていったそうですが、一方でその意味合いは少し誤解され、生贄を行うというセンセーショナルな事ばかりが模倣されたのではないでしょうか。

祭りや何か災害によって、この神の力が望まれる場合には、一時的な王をたてこうした儀式が行われました。しばしばそうした疑似的な王、モック・キングには囚人や奴隷が選ばれ、その在位の短い間、彼に王の衣装を着せ実際の王の食事や生活、権限を与え、なんと王の妻との生活さえ許されたと言います。

太陽の光の皇女の寝所にまで入り、その聖なる盃(意味深)に触れる不死の勇者。
幻の姿だとは言え、このような場に本来神々であれ、入ることは叶わなかったはずである。「後に火の神フランの妻となった」とされるグウィネヴィアだが、そのような神がいるのなら、火継ぎの儀式とは何なのか。謎は多い。

またそうした王の力、一族の祭祀をおこなう力は、その人物の最初の子に継がれるとも考えられ、フェニキア人が嵐と慈悲の神バアル、ロシアの一部においてスラブ神話の雷神ペルンに、最初の子を捧げた話などは興味深い例でしょう。

二節では、そうした王を殺す儀式を模擬的に行う、農民の祭りの事が書かれます。以前にも書いたように、植物は自然の象徴、そして多くの場合人々の生きる糧です。そうした植物を育てるための雨乞いや陽光乞いが、主な宗教儀式の役割だとも書きました。場合によっては王に畑にまいた種を発芽させる役割も帰せられますが、多くの場合、女性が撒くことでそうした力は得られるとも考えられていたそうです。

アノールロンドの壁に見られる、彫刻の例。
下から、果実などを乗せたバスケット、何かを煮炊きする窯、鍋を煮込む老婆(?)女性の図。全体を縁取っているのは、穀物の茎や穂の意匠。
ダークソウル世界に比較的珍しいと思われる、明らかな農耕を崇める意匠だが、このアノールロンドでは様々な箇所にこの図は配されている。なお、3では消える。

こうした祭りでは樹皮や植物の葉で飾り立てた人か人形を用意し、村内で模擬的な裁判を行ってこれに死刑を言い渡す、というものが一般的な型のようです。その後棒で彼の帽子を落としたり、人形の首を落としたりして、それを池や川などに投げ天の恵みを乞うたりもするそうです。

第三節では、先の農民の祭りにもにた、「謝肉祭」を殺す儀式や「死神を追放する」儀式なるものを書きます。”謝肉祭”という祭りでなく、「謝肉祭」と名付けられた藁人形が、死刑宣告を受けバラバラにされてしまう祭りです。また「死神」と名付けられた人形も、思い思いに追い立てられバラバラにされる例がいくつかとりあげられ、そうしてバラされた「死神」の破片には何かしら豊穣の力が信じられていたそうです。

ここから考えられるように、王を殺し新しい王がそれを受け継ぐ儀式は、にはその生贄の部分のみが、神的力の回復の儀式のように考えられ、多くの形の模倣を生み出したようです。

神話の樹木霊たち

アドニス、アッティス、オシリス、デュオニュソス、デメテルとプロセルピナ、リテュルセス。これらは古代においての、そうした祭祀を探る恰好の神話です。

没薬の木から生まれたアドニスは、美の女神アプロディテに愛されたが、イノシシによって殺されてしまいます。その死を悼むため、彼のために女性たちが泣き、彼の像を水に投げ込む祭りがあるそうです。

アッティスは女神キュベレに愛された英雄で、その概要はアドニスに似ています。彼の死には二通りの言い伝えがあり、アドニスのようにイノシシに殺されたとするものと、松の木の下で四肢を切られ血を流し死んだとされるものです。彼の祭祀には四日がもうけられ、一日目にはキュベレの神殿に松の木を運ぶ、二日目にはラッパを吹く、三日目には祭司が血を採りこれを捧げる、四日目には彼の復活を祝ったそうです。

オシリスは有名なエジプト神話の神ですが、不思議な死の逸話を持ちます。彼の体は棺に入れられ川に流されたり、木の柱になったり、バラバラにされて撒かれたりしました。

デュオニソスも不思議な死の話、そして様々な復活の逸話を持つ神です。彼は葡萄の冠をつけた姿が有名で、豊穣と酒の神バッコスとも同一視されます。

デメテルとプロセルピナ、先に冥界の女王ペルセポネとして紹介した、女神とその母です。『金枝篇』でも「アエネーイス」でも”プロセルピナ”表記なのに、なぜ自分はペルセポネと書いていたのか……

先述した通り、彼女がハデスに見初められ冥界の妃となったことで、冬が生まれたとされています。彼女とその母はどちらも豊穣の化身として祀られ、彼女たちに捧げられた「テスモポリアの祭り」について聞いたことのある人もいるかもしれません。しかしその記述は後の章で言及され、ここでは彼女たち母娘が植物神、穀物霊とされたことが書かれ、ヨーロッパの収穫祭でしばしばその畑の最初の刈り束か、最後の刈り束が「乙女」「婆さん」あるいは「ババ」と呼ばれていた例が連ねられています。

このリテュエルセスという神は、この名でググって情報の裏を取ろうにも、この『金枝篇』の概要が出てきてしまうほど日本ではマイナーです。彼は自らの畑に来たものをもてなし、畑の麦刈り競争へ誘うのですが、その競争に負けた場合(あるいは勝っても)鞭うつか、鎌で首を切るかして、川へ投げ捨てていたそうです。最後には英雄ヘラクレスに、同じ目に合わされます。

これら神の話は、植物から生まれた、あるいはそのものとされる神のために、先のヨーロッパの農民の祭りのような儀式が行われた、とする事例です。

水に投げ込まれる、アドニス。自らの血を受けた神樹、松として崇められるアッティス。樹木と一体化し、バラバラにされ撒かれるオシリス。簡単に検索すれば、血なまぐさい祭事や伝説に事欠かないディオニュソスには、ブドウ酒と血の関係がほのめかされています。そして神話、風習で豊穣そのものと例えられる、デメテルとぺる……プロセルピナ。

最後のリテュエルセスは、まさにこうした収穫祭の例そのものでしょう。彼は旅人をもてなしますが、それは先に説明した生贄のため一時的に王をたてることに似ています。その後畑での収穫競争を行いますが、これはデメテルとペルセルピナの祭りの、”最初の刈り束”か”最後の刈り束”が彼女たちを指すような語で呼ばれたことに対応しているものと思います。この特別な刈り束や、この”刈り束を刈った者”が、特別な存在と見なされることは、この後々の章で語られます。そしてその特別な存在の首を刈り、川に投げ込むことで、おそらくは雨乞いをも行ったとみられます。

このリテュエルセス自身もまた、ヘラクレスによってこの旅人たちと同じ目に遭ったというのも寓意的だと思います。彼自身もまた、”森の王”や”薪の王”たちのようにその名を継いでこのようにされたのか、あるいは英雄ヘラクレスによって、こうした人身御供を終わらされた、という事なのかもしれません。

こうした英雄によって人身御供の伝統を終わらせられるというのも一つの神話の類型で、日本のヤマタノオロチの神話もそうでしょう。

高天原を追われたスサノオノミコトは、ある川に箸が流れてくるのを見つけます。その川をさらに上って村を訪ねると、そこには娘を囲み夫婦が泣いているのを見かけます。尋ねるとそのその夫婦には娘が八人おりましたが、ヤマタノオロチへの生贄に既に姉の七人を捧げてしまったということでした。スサノオノミコトは一計を案じ、ヤマタノオロチを酔わせて殺し、その尾から天叢雲剣を得たのでした。

これによってその村での人身御供の儀式は終わりを迎えたわけですが、川に娘を捧げるこの生贄は、元は水神であったミズチへのもので、ヤマタノオロチは水害の比喩だともされています。天叢雲剣を得たことは、大和朝廷がそうした水害や雨の恵みの祭儀を、穏やかな形で定式化したという意味なのかもしれません。

世界の終りのようにも表現される、火継ぎの終わり。
しかしこれはあくまで火の時代の終わりであって、この世界のなにもかもの終わりではないはず。
火継ぎの儀式は栄光ある英雄や王たちの姿を描いてきたが、その裏にはっきりとした影、数多くの悲劇を生んできたことも、また特徴的。

祭祀という神話の原型

さてこのような例を見ると、牧歌的な農民の祭りの中に、神話と共通する多くの点を見ることができます。

  • 収穫の競争や何かの徴しによって、誰か特別な存在を選ぶ。

  • そうした存在に罪を着せたり、何らかの理由によって処刑する。

  • その殺された者の肉体には、雨を呼び寄せたり、豊穣をもたらす作用があるとされる。

しかし、フレイザーの考えでは、こうした作物や雨への生贄は、おそらくはかつて季節の巡りに合わせ年に一回ほど、実際に人間を贄にして行われていただろうという事です。今では信じられないような話ですが、こうした時代時代の価値観、倫理観というものも、過去にそれらが存在したか、比べられるような文化が見られたから、今それを感じることが出来るわけです。

もしもこうした様々な神話や、そこからインスピレーションを受けた物語を見聞きしていなければ、いまのこの解説もただナンセンスなものとしか受け取れないはずです。あるいはただ、無為に繰り返される生と死という時代の中に、人々が何かを獲得したという確証も得られず、その積み重ねもなく、それと気づかないまま苦しみ続けるしかないのかもしれません。

無印『ダークソウル』の世界はこうした人身御供の時代が、まさに繰り返されようとしている時代の話ですから、こうした儀礼化した祭りの痕跡は見られません。不死人がそうした植物の恵みや人の繁栄の行為に、あずかることの出来ない存在なので見られないのか、もしかすると、このロードラン以外の人の世では行われているのかもしれませんが。

3の不死街には、おそらくそうした祭りと思われるNPCの行動、マップのデザインが見られます。しかし、この世界における祭祀はやはりというべきか、火を中心としたものが多く、樹木はその添え物、雨をもたらすようなものは見られません。

大篝火が焚かれ、生贄と車輪を空へ掲げる不死街の風景。
こうした過剰ともいえる太陽信仰の痕跡が見られる一方、雨乞いや、雷光を模した意匠さえ
なぜか見られないダークソウルの世界。樹木信仰や農耕のモチーフはみられるものの、それを生やすための雨乞い、水、転じて涙のモチーフは、なぜか注意深く隠されている。

逆に初代やその古い時代を描いたDLCではそれなりに見られた水の描写ですが、このダークソウル3では”生贄の道”、”イルシール”、”燻りの湖”くらいでしょうか。時代を下るにつれ火が陰るというより、水が枯渇していることのほうが印象的です。DLC”輪の都”の最後の場面では、すべてのものが砂漠に失せ、輪の都、アノールロンド、ロスリックの瓦礫だけがその寂しげな姿を見せていました。

あらゆるものを渇望し、すべてを火に投げたこの世界の神は、その玉座に果たして何を見ていたのでしょう。


またしてもそれっぽい文章でしめてみましたが、これでようやく「初版 金枝篇(上)」の解説が終わりました。まだまだ語り足りないものはありますが、これから後半戦です。

初版 金枝篇(下)には語りたいことも多いのですが……
記事としてまとめるには、そうとう端折らないといけないようです。

2021/12/17

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