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ダークソウルと金枝 7

古い時代、私たちの祖先にとって、いまだ魔法や科学という違いはありませんでした。

そこには連想と発見と、認識と空想と、そして自分の行為とその結果だけがすべてでした。しかしそうした行いを経験として蓄積することで、多くの事が分かたれていき、少しずつ事実と迷信とがはっきりと分かるようになってきたのです。

そうした中で信じられた呪術や魔法の力というものは、一つの帰結としてより強い力を持ったものがいると信じられ、神や王たちが生まれました。

次にはそのような王たちの力をできる限り維持しようという考えが生まれ、様々な掟やタブー、しきたりが設けられ、次第に王たちを縛るようになっていったのです。

一方そうした掟が守られない、あるいは守っているはずなのに、王たちの力が行使されていない。自分たちの思うように、自然の力が操ることが出来ない。という矛盾は、当然起こってくるでしょう。

自らのなかに、本気でそのような掟をまもる信仰を持てていなかった。あるいは、そうした不信心者を自分たちの中に蔓延らせていた。という罪悪感や不信感はなかなか拭えません。

やがてそうした罪悪を自らの中から追い払う儀式や、誰かに代えさせて追放する儀式がうまれ。そうした追放の儀式と、王の力を維持するための儀式。両者の儀式はその行動の似通った部分から、やがて混同され、同一化していきます。

こうして逃亡奴隷による”森の王”の決闘の儀式や、追放された不死による、”薪の王”の火継ぎの儀式は生まれたのでした。

しかし、このような儀式が生まれた背景がある程度説明できたとは言え、未だ疑問は残ります。果たして”森の王”に挑む逃亡奴隷が折り取った枝、アエネアスの折り取った”金枝”とはどのような意味があったのでしょう。

『金枝篇』第四章「金枝」は、そのような疑問に考察を加える章です

「天と地の間」とは

神の力を信じられた偉大な王たちが玉座に縛られ、太陽にさえ照らされてはいけないという奇妙な掟があったことは、以前の記事で話しました。多くの力あるものは、その力をどこかへ逃さないよう、あるいは他の力に汚染されぬよう、そのように扱われていたのです。

この四章、一節「天と地の間」という節は、そうした聖なる存在を天と地の間にとどめ置かれなければならないというタブーの例をあげ、比較しています。

とはいえ、この節に書かれるほとんどは、年頃の女性の話ばかりです。
このような状況に置いておけるというのも、一定期間玉座に縛り付けられその後生贄にされる王か、あるいは初潮のはじまりから花嫁になるまでの一時期だけの女性に、そもそも限られるのでしょう。

現代でこうした人を性によって縛る価値観は歓迎されるものではないですが、またそうした風習があったという事実は、忘れられるべきではないのかもしれません。

『ダークソウル』の世界にも、そのような例はみられ、これらはよくあるファンタジーのモチーフのように配されています。

つねに机か椅子の上にしかいない、画家の少女。教会のエレベータでいける塔に閉じ込められた、太陽の末子(かどうか不明の)フィリアノール。絵画世界の基礎の見えぬ、高い塔にいる半竜プリシラ。聖王ロスリックの寝台は、高い城の上の一室の、さらに高い台の上に据えられ、天蓋によって上も遮られています。

ロスリックの寝台。
らせん状にツタの装飾の施された柱が天蓋を支え、その上には巨大な王冠がつけられている。
この特異な寝台が彼のために据えられた玉座であり、その上から一歩たりとも動いてはいけないというタブーがあったように思われる。

こうした塔の上に閉じ込められた女性というのはよくあるモチーフで、ディズニー映画にもなった「塔の上のラプンツェル」がその典型的な例です。魔女によって閉じ込められているという設定ではありますが、その魔女の魔力が彼女の髪に依存していることは見て取れるでしょう。

こうした特別な力を持った人間と唯一接することが出来るのがその世話をする老婆、というのもこのモチーフにつきもので、ロスリックの乳母だったエンマは独特の存在感を持って3の世界にいます。また、初代『ダークソウル』で二つ目の鐘の近くにいる火防女、”混沌の娘”と会話するためには、”老魔女の指輪”が必要となります。

太陽の力と樹木の力

北欧神話の光の神、バルドルの話は神話好きには有名でしょう。

ある日、自らの死の夢を見たバルドルは、母フリッグに相談します。子を思う母女神は、世界中のあらゆるものにバルドルを傷つけぬよう誓いを立てさせますが、幼いヤドリギだけはものを言えず、誓いを立てさせることは出来ませんでした。

しかし、このことによってバルドルは一種の不死のように、何物にも傷つけられぬ存在となりました。神々はそんな彼を面白がって手近なのもを投げつけて遊び、いつしか何かを投げつけることが彼を称える挨拶のようになっていったそうです。

しかし盲目のヘズという神だけは、どこへ何を投げていいのか分からず、その遊びに加わることが出来ませんでした。あるときそこに目を付けた悪戯好きの神ロキが、彼にヤドリギを握らせあっちへ投げてみろと教えます。

本来は何物にも傷つけられないはずのバルドルでしたが、誓いを立てていないヤドリギだけは彼を貫き殺してしまいました。母フリッグは嘆き、この世のすべてのものが涙を流すのなら彼を生き返すよう冥界の神”ヘル”へ約束を取り付けますが、またもロキが邪魔をして生き返ることはありませんでした。

最後には彼の遺体は船に乗せた薪とともに火をつけられ、海へと流され葬られたのでした。

この奇妙な神話もまた、なにかの祭りの由来を説明するためのものではないかとは、『金枝篇』をここまで読み進めた方は思うでしょう。その通り、フレイザーはこの神話に符合するヨーロッパの祭りを集め、比較します。

こうしたバルドルの葬儀に関連すると思われる火祭りでは多く車輪が焼かれ、その聖なる火は木の摩擦によって熾されます。さらには車輪を回転させ、その軸との摩擦によって聖火を熾すという、奇妙な風習さえ述べられています。

こうした祭りが太陽を崇めるためのものだというのは明白で、太陽の力が最も強くなる=日中と夜の割合が最も日中に偏る夏至、あるいはその力がいや増し始める=日中の長さが夜の長さを越える復活祭の頃に、行われていることを指摘しています。

また様々な証拠からこうした祭りでは人間や、先の記事で植物霊の代表とされた動物たちが焼かれただろうことも推察し、そうした生贄が行われていた=その植物の力が太陽のために捧げられた事も示します。少しおどろおどろしい話の気がしますが、今更です。こうした火の生贄の例として、ウィッカーマンの名は聞いたことがあるでしょう。

不死街の屋根や焚火に飾られる、車輪と生贄。
このマップではその他にも、樹木に対し火を捧げているような、様々な様相の祭りの姿がみられる。

先の聖火が木々の摩擦によって生み出される、だから植物には火の力が元から宿っている。そして、そうした火や光を燃え上がらせる力は乾いた薪が最適であるという連想によっても、そうした連想は強化されたでしょう。したがって、太陽に捧げるものは植物の力を持つものが最適であり、太陽の力と植物の力を結び付ける信仰は、広くみられただろうと『金枝篇』は語ります。

さらに言うのなら、こうした力のひときわ強い樹木として、ヨーロッパではオーク(楢の木)が特に信仰されたとしています。この辺りは文化的なものなので、そうだという事しか言えないのですが、西洋ファンタジーや神話に詳しければいくつか思い当たるでしょう。

以下にオークの神話に詳しく『ダークソウル』や『金枝篇』とは関係ないであろう。つまり第三者からの知識として、信頼のおける「家具蔵 KAGURA」さんのリンクを張らせていただきます。勝手にすみません。

こうした言い伝えの数々を聞けば、オークというものが、いかに特別な木とされていたことがわかると思います。

しかしこのような風習の例を並べてみて、先の神話のヤドリギというものがどうかかわるのか、気になってくるでしょう。

オークの信仰を特に行っていた例として、ケルト民族の祭司ドルイドの事は有名です。彼らが特にこのオークの枝に生えたヤドリギのことを、霊験あらたかな薬草としていたことも、聞き及んでいるかもしれません。

この枝に生えた、ヤドリギというもの。つまりオークの木がその天にも頂かず、地にもつけず、自らの枝葉のうちにひっそりと抱いていたものが、彼にとっても神聖なものであることは、昔の人の想像としてさほどおかしくはないでしょう。

ヤドリギは落葉樹であるオーク(落葉樹じゃないオークもあるらしいですが)の葉の枯れる冬にもその生命を瑞々しく保ちます。このような神秘の植物が、夏冬に死んで蘇るオークの木の不死の生命そのものだろうという考えが起こったことをフレイザーは語ります。また太陽の力が特に強まる夏至の夜に採れたヤドリギが聖「ヨハネの油」として重宝されたであろうこと、大プリニウスの「博物誌」にドルイドたちが黄金の鎌でこぞってこれを採ったことを記した例を挙げます。

こうしたヤドリギ信仰は、古代や中世、現代にかけて、根強くあったという事です。

3と初代の、ゴミクズ
おそらく元は、樹木の枝に生えた火防女の魂のようなものだったと思われる。
「何を考えてこんなものを」とは言われるが、これが木の枝に生えた霊的な力の象徴、ダークソウル世界における、ヤドリギのような存在だったからではないだろうか。

「外在の魂」について

しかし気になることは、かの霊験あらたかな薬草であるヤドリギが、なぜバルドルを殺したのかということです。まさか光の神であるバルドルが、薬によって退散させられる、病原か何かと思われていたのでしょうか。

まず考えてみるべきなのは、ヤドリギがバルドルにとって、何だったのかという事です。

バルドルは光の神とは言われますが、古代の北欧でLEDのようなものはないでしょう。しかも篝火や灯りの神とは言われないのですから、通常、太陽の光の神と考えられたことでしょう。

先の神話の後では、なんやかんやあってフィンブルの冬の後、ラグナロクで燃え去った世界に、彼は復活するとされています。太陽への火祭りのように篝火で燃やされ崇められた事も考えると、極夜のある北欧で、太陽のような神話を持った神とみなされたことは単なる空想ではないはずです。

つまり太陽の力を持つバルドルにとって、ヤドリギが彼の力の源となる生命。彼の魂という連想が出来るわけです。

この彼の魂が、木に生えたヤドリギのように離れた場所にあるという状況は『ダークソウル』世界においても少し思い当たることがあるのではないでしょうか。吹き溜まりの天使は本体を攻撃してもまた蘇りますが、そのエリアのどこかにいる巡礼の蛹を倒せば天使も死にます。またロスリック城の竜狩りの鎧は倒すと、周囲の巡礼の蝶たちも落ちていきます。

吹き溜まりの天使と、巡礼の蛹。
天使のほうをいくら攻撃しても、この相手は倒せない。しかし蛹を見つけ出しこれを倒せば、攻撃を当てずとも倒すことが出来る。天使の生命は、この蛹に依存している。

おそらく魂を外に預け、それが失われない限り肉体に死は訪れない、という戦略でしょう。このように注意深く魂の在処を隠しておけば、誰かに襲われても安全です。その隠した魂の場所さえ見つからなければ、命を失う心配はないわけです。

つまりこの場合、ヤドリギにバルドルの魂があるために彼は他のものでは傷つかず、逆にヤドリギを奪われ投げつけられることによって死んでしまうのです。

このような、おとぎ話の怪物のような話。ハリー・ポッターの「ヴォルデモート」、パイレーツオブカリビアンの「デイヴィ・ジョーンズ」ような例ですが、これらもまた風習として実在する考え方でもあるそうです。

多くはトーテムという言葉でくくられますが、このように自らや一族の守り神とされる動物の中には、その人々自身の魂と見なされている場合もあり、以前紹介した亀と男の話もその例でしょう。そのような場合には単に生まれながらにそうした動物たちと魂の繋がりがある場合だけでなく、成人の儀式によってその魂を動物たちに移し替える手段がある事も語られています。

成人するにあたって一族の少年たちが集められ、眠るか何かの儀式でトランス状態となり、一時死んだものとされます。その間に祭司たちが彼らの魂の一部を、彼ら一族の守り神とされる動物へ移し替える儀式を行います。こうして蘇った新成人らは、一時本当に魂がなくなってしまったかのように何もかもを忘れ、言葉も物を食べるときの作法も一から教えなおされるそうです。

大狼シフ。
狼はヨーロッパではポピュラーなトーテムであり、このシフも狼の騎士アルトリウスと何らかの魂の繋がりを持っている。このシフのソウルから、二種のアルトリウスの大剣、アルトリウスの大盾が鍛えられる。

こうして、そのようなトーテムが彼らの守り神とされるとき、当然そのような動物は極めて神聖なものとされますが、一方ではこれを狩ってはいけない、触れてはいけないというようなタブーともされていくでしょう。

またこのような力を持つものが、物語の不死身の悪役にされる場合が多いように、これら風習は彼らにとっては重大な秘密であり、他者にとっては風変わりで理解されにくいしきたりです。

そうした場合には、この遠ざけられたトーテムが彼らにとって恐れられる物のように、理解されることもあったでしょう。しかも実際には魂が共有されているという事はありませんから、当然彼らの知らないところでこの動物を傷つけても無意味な訳です。これらトーテムを彼らに突き付けて、これに触れさせたり傷つけようとすると、彼らは自らが死んでしまうと恐ろしがるわけですから、さらにその誤解は深まります。

だからこの外在の魂というものは、本来のその魂の持ち主にとって、触れたら危険な”死”そのものと解されるようになるわけです。

輝く、原始結晶。
書庫のほうで待ってさえいれば、少なくともこん棒では倒せなかった。
哀れ、シース。

実は最終回でタイトルの意味が回収される系の本

以上にて、この『金枝篇』の内容の大まかな解説は終わりです。
しかしこの第四章、第五節「結び」については、もう少し語っておきましょう。この節は後の「補遺」をのぞけば最後の箇所であり、この書の結論を述べている部分ですが、あまりにもあっさり語りすぎていて、この本全体の読後感を少々味気ないものにもしている感じがあります。

この節は上記のバルドルとヤドリギの疑問に答えるという文脈から続いており、一見してこの本の「結び」というより「外在の魂の禁忌性」について語っている節です。

まず、外に預けておいた魂の入れ物=卵を投げつけられ殺される魔術師の話「不死のコシュカイ」の例を挙げ、先に語られていたヤドリギがバルドルの魂であろう、という説を押します。そのほかにも、まさにオークの木を守り神とする”ヘイの一族”の言い伝えも引用し、ヤドリギの枝がそのヘイ家の人間の魂とされただろうとの話も並べます。

この通り、外在の魂がその魂を持つ人の”死”だとされる例から、話題は次第にこの”ヤドリギの枝”へと移っていきます。そして緑に萌える、生命力をもつ植物が、光り輝くとか黄金のというように形容された例を取り上げ、常緑植物であるヤドリギが、黄金の枝とも呼ばれ得ることを導きます。

 その枝からはひときわ異彩を放つ黄金の輝きがきらめいていた。それはちょうど凍てつく冬至の頃、森の中で宿り木が新しい緑葉を出し、仮の親木の丸々とした幹にサフラン色の形成物を纏わりつかせている、そんな有様だった。
 ほの暗い常盤樫の木の中に、黄金の葉の茂るひともとの枝があった。そしてその金属の葉は、そよ風に乾いた音を響かせていた。

ウェルギリウス,「アエネーイス」杉本正俊 (訳),新評論,2013,p.164
黒い森の庭に咲く、光り輝く花と亡者と殴り込みにくる木人。
かつてこの地に栄えた文明、その一人の姫がおこなった、木の枝を使う姿を変てみせる悪戯が、他に類を見ない光を操る魔術の一体系を作り出した。

以上はまさに、「アエネーイス」の英雄アエネアスが”黄金の枝”を手に入れる場面の描写ですが、この”金枝”が黄金に光り輝く枝とも、瑞々しい緑の萌えるヤドリギにも、例えられていることがわかります。この枝を生やした聖樹が、常盤樫(フォルム・オーク)だということも注目に値します。

オークという木が楢なのか樫なのかという問題はあるでしょうが、ここではご勘弁ください。オークという語が訳されたときに混同されたのか、そもそも木の分類が曖昧だったのか、とにかく楢や樫を総じてオークと呼ぶことがあるようです。

フレイザーはこの叙事詩の箇所から、実のところ作者のウェルギリウス自身が、”金枝”というモチーフをオークや太陽の魂とされるヤドリギからとったのではないかと推察します。そして太陽そのものであり、”森の王”ともよばれた古代ネミの神ウィルビウスもまた、このヤドリギを魂とする神の一人ではないのか。だからそうした神を殺す儀式に際して、彼の”死”そのものとされる枝を折り取って、挑む必要があったのではないかと論じたのです。

  1. 過去の人々は、神の力を維持するため、彼の体を傷つけ魂を取り出す必要があると考えた

  2. そうした儀式に及ぶにあたって、また不死であるはずの神の体を傷つけるるためにも、彼の力の一部を手に入れる必要があった

  3. その力の一部とは、その神や太陽、植物の魂とされた”金枝”つまり”ヤドリギ”の事であった

というのが、この本の最終的な結論となります。
もちろん、そればかりではないのですが、そのあたりの様々な部分は実際に読んでみなければ、わかりません。

しかし、このような最後のまとめ的結論は、『金枝篇』本編にははっきりとは書かれていません。また私たちは『金枝篇』という本に興味をもち、購入の前ある程度調べた時点で、この「”金枝”=”ヤドリギ”=”森の王の儀式の枝”」という最大のネタバレを、なぜか当然のようにされています。

今回、このような記事を書いたのも、一部にはこの理不尽さを訴えたい旨もありますが、この本をある程度理解する上で、この結論から入る事もまた必要な手順かとも思います。せめて今回、この解説からでも『金枝篇』へ興味を持っていただいて、一人でも多く手に取ってもらえると嬉しいです。

そして次回から、本格的にダークソウルの世界について考察をはじめ、語っていきたいと思います。このシリーズの初めに提示した、二つの仮説。

  • 第一に、『金枝篇』『ダークソウル』という作品は、一人の英雄あるいは神が、死して蘇る姿を描いた物語である。

  • そして第二に、上記の両作品は、彼ら英雄や神のもつ外在の魂を扱った作品である。

この上についてはある程度、語れたでしょう。
”森の王”というウィルビウスの魂を継ぐ風習との類似性から、始まりの火を継ぐ”薪の王”というものが火を継いだグウィンのその魂を継ぐ存在だとわかったはずです。

しかし、このダークソウルにおける「外在の魂」について、一つ疑問は残ります。”薪の王”が”森の王”と同じような存在ならば、彼にもまた外在の魂、”金枝”となるものがあるはずです。

いったい、この『ダークソウル』における”金枝”とは……次回から、いよいよそのテーマを考察します。

2021/12/25


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