尊敬する祖母の人生

 二十歳を過ぎた頃から、たまに会う孫に「まだ結婚しないのか、まだ東京で働くのか」と、何度も何度も聞いた。心配してくれていると分かってはいても、10代で結婚した従姉妹たちと比べられているようで返答に困った。  
 
 最寄り駅から車で30分もかかる農村地帯に生まれ育った祖母は、とても働き者で芯の強い女性だった。朝はお日様と共に起床し、炊事しながら洗濯機をまわす。二層式の洗濯機のすすぎが終わるまでに、孫を起こし、食事をさせ学校や仕事に送り出す。いつの間にか脱水の終わった洗濯物は、神業のような手際で干してしまう。洗い物をすませて、畑仕事に向かい、午後は内職もこなす。そして食卓に出すものは、ほとんどが自家製なのだから、働き者という言葉では片づけられない人だった。  

 入院した祖母を見舞った際、いつものように「そろそろ、いい人はいないのか」と聞かれ、相手がいないわけではない、とあいまいに返答した。交際していた人と結婚するかどうか迷っていた時期だったからだ。それが伝わったのだろうか。付き添いの家族が席をはずし二人きりになると、祖母から発せられたのは意外な言葉だった。

「いまは、すきな仕事やれて、どこさでも行ける。だから、すきなように生きていいんだ。仕事がんばれ」

 いつも元気に家事をこなし、畑で黙々と野菜を育て、孫や玄孫に囲まれ笑っていた。そんな祖母からの、自分だけに向けられたあの言葉から「祖母の人生」を考えた。
 大正に生まれ、大家族の長として七五年を生き抜いた。学校で勉強するよりも、家の仕事や畑仕事を手伝っていた。若いうちに結婚して、家事と畑仕事、子育ての日々……。そして、青春時代には戦争があった。米や野菜だけでなく、味噌や漬物など、食卓に出すもののほとんどを自分で作るのは、そうしなければ食べられなかったからだと話していた。生きることに必死だったことは想像がつく。「いまは」が、「今の時代は」ということなら、たしかに祖母の時代には、好きな仕事を選んで好きなところに行くことは出来なかっただろう。あの言葉は、東京で好きな仕事をする自分への、最初で最後のエールだった。  

 私が祖母の立場だったなら、物のない時代を生き抜くことすら不可能だった。祖母も、私のように都会で働くことなんか出来ないと思っていたのではないだろうか。だからこそ「好きなように」と背中を押してくれたのだ、と都合のいい解釈をして生きることにした。   
 天国にいても心配をかけているだろうことには、ほんのすこし申し訳なく思うけれど、好きなように生きているから安心して欲しいと伝えたい。

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