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竜国館の跡地を訪ねた

 「竜国館」という名前を初めて聞いたのは、私の母が末期がんで緩和ケア病棟に入っていたときだった。

 母は三度目の再発で大学病院に入院し、抗がん剤治療を受けていたが、主治医から治療の打ち切りを告げられ、緩和ケア病棟のある病院に転院した。死ぬまで抗がん剤を投与し続けたいと願っていた母は、渋々転院したので、亡くなるまでの七週間、緩和ケア病棟の病室は険悪なムードに包まれた。

 母は一人娘である私が大学病院の申し出に同意したことを、怒っていた。

 コロナ禍が始まった時期で、面会は私と当時高校生だった私の娘にしか許されなかったことも、険悪ムードに輪をかけた。

 「私が死ぬのを見ているだけなら、もう面会に来なくていい」

 そう言って、私と娘を泣かせた。

 母は、緩和ケア病棟で医療用麻薬のモルヒネを投与され始めたことにも怒っていた。三度目の再発で腸閉塞になり、緊急入院したときから、母には実はモルヒネとは違う名前の医療用麻薬を投与されていたが、抗がん剤治療と並行していたせいか、あるいは痛みがうまくコントロールされていたからか、それについてはあまり気に留めていなかったようだ。けれど、緩和ケア病棟では抗がん剤治療をしない上に、モルヒネが自分に投与されていると聞き、母は反発した。

 その理由を聞いた私に母は答えた。

 「モルヒネを打たれていたら、竜国館のおばあさんみたいに頭がおかしくなってしまうから」
 
 リュウコクカン? 初めて聞く単語に、私が「リュウコクカンって?」と聞くと、母は「志津には分からない」と冷たい目をした。
 
 「リュウコクカンって何? 旅館? お化け屋敷?」としつこく聞いた結果、「八幡の竜国館のおばあさんが昔、モルヒネ中毒になって気が狂って怖かった」ということだけ教えてくれた。しかし、それを知っても、私は医師に「モルヒネの投与をやめてください」と頼みに行きはしなかった。
 
 「それって戦後に流行ったヒロポン中毒とかと一緒でしょう。今のモルヒネは医療用麻薬だから昔とは違うんだよ」

 偉そうに諭す私に、母は「志津はどうせママの味方じゃないから」と言って口を閉ざした。

 母が亡くなったあと、私は母よりも七つ年上の伯母に、竜国館とは何だったのか聞いた。竜国館は母が子どものころに住んでいた福岡県八幡市(現・北九州市)の家のとなりにあった映画館だったと伯母は答えた。

 「映画館になる前は、桟敷があって下足番がいて、地方回りの歌舞伎とか新劇とか、レビュー、民謡……何でも上演する芝居小屋だったよ」

 竜国館と細い小道をはさんでとなりにあった母の家では、祖母が洋裁店を営んでいた。祖母の名前「千枝」と祖父「秋太郎」から取った「千秋洋裁店」という名前だった。

 伯母は続けた。

 「竜国館はね、隠れ家みたいな、暗い秘密基地みたいな場所で、私もいつも遊んでいたよ。竜国館のおばあさんは四国の担ぎ売りから九州に流れて、興行界に幅をきかすまでになった人なんだけど、モルヒネ中毒だったの」

 でも、母がその洋裁店兼自宅に住んでいたのは三歳までだったという。一九四四(昭和十九)年、たび重なる空襲を受けて、八幡市は町中の火災類焼の危険を減らすため、「密集地立ち退き取り壊し令」なるものを出した。千秋洋裁店も対象になったので、祖母たち一家は祖母の実家のある大分市に疎開したのだ。

 「そのころはマコ(母のこと)はまだ三歳だったから、竜国館のことなんて、ほとんど記憶にないはずだけどねえ。なんで覚えていたんだろうね。おばあさんは竜国館の二階の奥座敷で寝たきりだったから、会ったこともないはずだし……。竜国館のおばあさんがモルヒネ中毒で気が狂って怖かったなんて記憶が、なんでマコにあったんだろうねえ」

 伯母はそう繰り返した。

 なぜ、竜国館のおばあさんの記憶が母にあったのか、その理由は私の従姉に聞いてわかった。

 祖母と祖父は疎開先の大分から戦後、長男が暮らす東京に移り住んだ。そこで一緒に暮らしていた従姉は小さいとき、祖母から「リューゴクッカンの奥さん」の話を何度も聞いたという。

 「おばあちゃんは『リューゴクッカンの奥さんとは仲良しで、いい人だったのに、モルヒネ中毒になってね……』っていつも気の毒がっていたよ。昔は疲労回復のためにモルヒネを使う人は多かったんだってね」

 母もきっと、そんなふうに祖母から話を聞いたのだろう。伯母によると、祖母が言う「リューゴクッカンの奥さん」とは、おばあさんの娘のことで、祖母と同じぐらいの年だったので祖母と仲良しだったのだという。どうやらモルヒネ中毒はおばあさんだけでなく、その娘にも及び、その人も戦後早くに亡くなったらしい。しかしながら、祖母の思い出話が強烈すぎたからか、私の母の中では「モルヒネ中毒で気が狂った竜国館のおばあさん」のイメージができあがり、それが私にもうつってしまったのだろう。

 伯母は六歳のとき、一度だけ、竜国館の二階の奥座敷で寝ているおばあさんを見たことがあるそうだ。「絶対立ち入り禁止」といわれたその部屋をのぞくと、おばあさんはぶ厚い絹の布団に寝ていた。
 
 「どんよりとした目玉でにらまれて、怖くてすぐ逃げ出したよ……」

 伯母は戦争中に離れて以来、一度も八幡を訪れたことはなかった。竜国館の話を私から聞いた伯母は、今の北九州市の地図を開いたという。地図を見て、戦後、門司、小倉、戸畑、八幡、若松の五市が合併したことや再開発により、当時の住所「八幡市東通町二丁目」がすっかり消えていることを知った。

 当時は路面電車が小倉、八幡、戸畑、そしてまた小倉とつながっていて、竜国館と千秋洋裁店はその電車通りに面していたそうだ。竜国館と千秋洋裁店の間の路地を裏にまわると、広い川(板櫃川)が流れていて、その土手に十五、六軒のトタン屋根が集まった「安物売り市場」が並び、何でも買えたという。川の向こう側には八幡製鉄所の職員住宅があり、さらに小高い山に目を向けると、幹部職員のしゃれた邸宅が見え隠れしていたという。

 北九州空襲の夜、小学五年生だった伯母は、ふりそそぐ火花と煙、鉄くずの中をくぐり抜け、母をおんぶした祖母と、母の子守係の十六歳のヒサちゃんと四人で、川の向こう側にある高見神社へ逃げた。

 「今でも忘れないよ。坂と石段を命からがら登って、木の香も新しい回廊の中にもぐりこんで、一夜を明かしたの」と伯母は話した。
 
 今は地図から消え去ったその住所を私は訪ねてみたくなった。それは昨秋、NHKの番組「ブラタモリ」を見たからでもあった。タモリが北九州市を訪れ、一九六三(昭和三八)年に五つの都市が合併して北九州市が生まれたときの様子をたどっていた。一九一一(明治四四)年に開通したこの路面電車の電車道に沿って工場がつくられたので、路面電車の存在が北九州市の誕生に大きく関わったという話だった。路面電車の話を聞いているうちに、私は電車通りに面して並んで建っていた竜国館と千秋洋裁店のあった場所に行ってみたくなったのである。
 
 八十九歳の母の従兄・武三さんが北九州市に住んでいたので、手紙を書いてみることにした。武三さんは今も木材加工業の仕事を息子と二人で続けている。私が小さいころに東京の私の家に遊びに来たことがあるそうだが、私は覚えていない。そのとき以来、会ったこともなかった。四年前、私は母の訃報を知らせたのを機に、年賀状を送るようになっていただけだった。

 それなのに、武三さんは私にわざわざ電話をくれて、言った。

 「竜国館も千秋洋裁店も、今はもうのうなっとるけど、私は場所がわかるけえ、いつでも来てええよ。うちにも泊まれるけえ」
 
 武三さんは奥さんが亡くなり、今は娘と息子の三人暮らしだ。お言葉に甘えて、私は大学生の娘と一緒に北九州へ出かけていった。

 竜国館と千秋洋裁店のあった場所は、今は北九州市八幡東区祝町という住所になっていた。武三さん一家もかつては電車通り沿いに住み、伯母ともよく遊んでいたが、伯母や母たちより一足早く空襲の前に疎開し、戦後、またこの地に戻ってきたという。再開発で、今はそこから少し離れた場所に住んでいるが、私と娘を竜国館と千秋洋裁店のあった場所に連れていってくれた。

 竜国館の跡地は、草がぼうぼうと生えた空き地だった。空き地になる前はガソリンスタンドがあったという。となりの千秋洋裁店は駐車場になっていた。路面電車が走っていた電車道は、片側三車線もある広い道路に変わっていた。

 竜国館と千秋洋裁店の間にあった狭い路地が残っていた。昔は裏の川べりまで道が続いていたそうだが、途中で切れている。私はその小道に立った。

 武三さんが裏の川を指さした。

 「階段が残っとるよ」

 川で遊んでいた子どもたちが向こう岸に上がるときに使った階段だそうだ。
 
 日が傾き、風が吹いてきた。この狭い路地を、祖母や伯母や武三さんや、竜国館のおばあさんが行ったり来たりしている姿が浮かんだ。三味線や唱の音が、とぎれとぎれに聞こえてくる気がする。黄昏れどき、電燈で照らされた竜国館は、どんなに明るくきらめいていただろう。子どもたちは、華やかな舞台の色どりや、はためくのぼり旗やお客さんのざわめきに、わくわくしたことだろう。
 
 北九州に発つ前、私は門司にある映画・芸能資料館「松永文庫」に竜国館について問い合わせていた。担当の方が親切に送ってくださった資料にはこう書かれていた。
 
 「一九三九(昭和一四)年から一九四一(同一六)年ごろにかけて戦時景気にわいた工業都市・八幡は人口が増加。このころ、最大の娯楽機関であった映画館はどの館も盛況。龍國館(定員四八〇名)は戦前の八幡市東通町二丁目で、東宝・大都併映の再映館として営業。一九四五(同二〇)年一月に市内映画館が九館に減り、同年二月、龍國館を含む四館が戦時企業整備により休館。さらに八月の八幡大空襲により営業中の五館が休館中の四館と共に焼失した」
 
 伯母によると、竜国館はもとは芝居小屋だったが、改装して椅子席にし、映画を上演するようになったそうなので、これは改装後についての資料だろう。いずれにしても、竜国館はたくさんの人を楽しませたのに違いない。

 武三さんは、母をおんぶした祖母と伯母が空襲を逃れて一夜を過ごした高見神社にも連れていってくれた。私と娘は拝殿で手を合わせ、八十年前の空襲の夜のお礼を言った。

 帰京して、竜国館と千秋洋裁店の跡地の写真を伯母に送った。伯母は九十一歳になり、耳が片方聞こえず、股関節も痛めて家にこもり切りで、母の葬式後は電話で話すだけで会っていない。

 伯母は手紙をくれた。

 「でこぼこの電車みちは広い舗装道路になって、道に沿ってゴチャゴチャ並んでいた私たちのお店や建物はすっかりなくなって、草ぼうぼうの空地になっていますね。でも、川辺までは届いていないけど、あの小道もあって、私の目には、竜国館の安物のスレート塀の先にある土手の草むらに、市場で買ったお団子の串がまだころがっているみたいな気がしました」

 伯母は私と娘が武三さん一家と知り合い、お世話になったことを喜んだ。

 「武三さんのお家にお世話になったのね。私の小さいころの雰囲気がそのまま続いている家に、あなたたちが迎えられて、本当にうれしい。よかった、よかった」
 
 肝心の母は、私が竜国館と千秋洋裁店の跡地を訪ねたことを、どう思っただろうか。自分がその場にいないとヘソを曲げる人だったので、よく思っていないかもしれない。でも、祖母が洋裁店を営んでいた時代は、祖母にとって人生で一番輝いていたはずだから、祖母は喜んでくれたと思うし、母は祖母が大好きだったから、祖母孝行をした私を褒めているのではないだろうか。そして、母は自分にモルヒネが投与されたことも、「もう気にしてないよ」と今は言っているかもしれない。もう怒っていないことを願っている。
 
 後日談だが、伯母と武三さんは先日、数十年ぶりに再会した。互いにもう会えることはないだろうと思っていたが、私と会ったことに刺激された武三さんが伯母に会うため上京したのだ。

 九十一歳の伯母と八十九歳のかつての弟分は、八十年前、一銭玉を路面電車の線路に置いて、電車にひかせてぺっしゃんこにして遊んだり、子どもたちだけで無賃乗車して、となり町にある竜国館の姉妹館まで映画を見に行ったりした話を山のようにしてくれた。それはほとんどが今の時代では御法度のような話ばかりだったが、二人は昨日のことのように大笑いして、いぶし銀のような笑顔を見せた。

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