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いま、思うこと

感情は大切だが、感情に流されてはいけない。

すごい時間を生きていると思う。平和な世界しか知らず、平和について真剣に考えたことがなかった。平和という言葉もどこか他人事だった。ずっと続くものと思っていたから、与えられた平和な世界に感謝の気持ちを持つことすらなかった。

わけの分からないウィルスから始まり、教科書の中でしか知らなかった出来事が身近で起き、平和な時間は終わった。

心臓がずんとなった。

少なくとも、しばらくは平常心でいられなかった。でも、これは私の心の問題。誰かにぶつけていいものではない。感情の波が去り、現状を受け入れる心の準備が整うのを待つしかない。

そんな時、意識してすることがある。注意深く、つぶさに人々の言動を観察する。どんな言葉を発するのか、どんな行動をとるのか。ヴェールで隠されている本性を見ることができる、またとない機会だ。


この短期間で二度も、集団ヒステリーのような状態を目の当たりにしている。誰もが簡単に発信できるようになった弊害だろう。心が未熟な人たちほど、ネットという環境に依存してしまう。受け止めてくれると勘違いしてしまう。荒々しい感情のまま吐き出さずにいられない。

激しく感情を揺さぶられることがあると、yahooニュースのコメント欄には、エクスクラメーションマーク(!)だらけの感情むき出しのコメントが多数あらわれる。平時でも一定数いるが、その数が増すように感じる。

コメントする人というのは、どういう人たちなのだろうかと常々考えている。私はコメントをしようと思ったことなどないし、周りにもコメントを書き込む人など皆無だ。何がそこまで彼らを掻き立てるのだろうか? 彼らを知りたくて、コメントから背景を読み取る努力をする。

冷静に分析し、誰かのためになることを願い、平常心でコメントをする人。彼らのコメントは大変参考になる。彼らのコメントには、知らないことがふんだんに盛り込まれており、気づかされることが多い。

一方、エクスクラメーションマーク(!)だらけや、句読点なしのコメントは大概が感情むき出しで、見ず知らずの人間の心に土足で踏み入り、かまわず自分の感情をぶつけてくる。手当たり次第に人の心を破壊する。読み手の心情は考えず、自分の感情を発散することしか考えていない自分本位な人。彼らのコメントは心をざわつかせる。

だから、私は最初にざっと眺める。そして、文体が整っている人のコメントしか目を通さない。

だが、最近新たなタイプが目につくようになった。変換ミスが多すぎるきちんとした文章。冷静を装いつつも、心は混乱しているのだろうか。読み返さないのか、読み返しても気づけないのか。あまりにもコメントを書くことが当たり前になり、確認すら面倒なのか。ただ単に、慣れていないだけなのか。

分からない。

感情的なテレビを見ることをやめ、ニュースはネットで読むようになったが、コメントには未熟な感情が溢れている。こことも距離をとらないといけないようだ。なんとも疲れる世の中になってしまった。

だからといって、コメントに反対しているわけではない。ためになるコメントも多い。削除される基準を私は知らないが、私ならエクスクラメーションマーク(!)だらけの文章と、句読点なしの呪詛のようなコメントを内容問わず、即削除する。

これだけで、多くの人の心を守ることができる。


他国で現在進行形で起きている出来事に対し、浮足立ち、前のめりになっている姿に非常に危機感を抱いている。

静観することが出来ない人の多さに驚いた。感情をコントロールすることなく、感情のままに生きてきた人たちなのだろう。心に耐性がない。ある意味幸せな人生を送ってきている人たちだが、危機が迫ったとき、彼らは彼らの自由奔放な感情に押しつぶされる。


「国破れて山河在り」の言葉が、ずっと頭の中をぐるぐる回っている。いつ日本に銃口が向けられるか分からない。どうして日本は安泰だと信じていられるのだろうか。どうして日本にくれば安全だと思えるのだろうか。

彼らの言うことは決まって少子化だ。だから、受け入れなければいけないと言う。そして、日本人のやりたがらない仕事に従事させろ。過疎地に住まわせろと。失礼な話だ。

賛成している人たちは税金10倍となったら、どれだけの人が賛成し続けるのだろうか。自分の懐が痛むわけではないから、安易にかわいそうという感情だけでものごとを判断してしまう。

今の人口が多すぎるとは思わないのだろうか。人口が多すぎるから、騒音などの問題が絶えない。狭小住宅なるものが出来てしまう。幼稚な人間を量産しているため、社会が成熟しない。少数精鋭という考えにはならないのだろうか。

私は、少子化が問題だとは考えていない。大きく構造を転換するチャンスだと思っている。いつまで万引きGメンなんだ。設備投資をせず、ずっと人力に頼った経営を続けるのだろうか。そして、知恵もお金も出さずにリストラを繰り返すのか。人の幸せを考えない企業に未来はない。


今、私たちは大地の動きに翻弄されている。いつ・どこに大地震がくるか分からない。覚悟を決めないといけない。よそ様に付き合っているときではない。

日本人の気質なのか、戦後教育の賜物なのか、日本人はとかく自己を犠牲にしたがる。自己犠牲は美しいと考える。弱い人ほど自分を大きく見せようと、大盤振る舞いをする。だが、まず自分を幸せにすることを第一に考えてほしい。日本が栄えることを考えてほしい。日本という国土なくして、日本人は存在できない。あまりに日本という国を粗末に扱っていないだろうか。


外ばかり見ず、足元を固めることが大切だ。

どこで地震にあうか分からないが、それでも備蓄をすることしかできない。紙類は回復が遅いので、多いに越したことはない。特にキッチンペーパーは回復しない。トイレットペーパーはかさばるので、入荷する数が限られる。

断水し、備蓄の簡易トイレがなくなったら、レジ袋にキッチンペーパーを入れ、簡易トイレの代わりにしようと考えている。以前は新聞があったが、だいぶ前にやめて処分してしまった。レジ袋にしても、新しいものをゴミとして使わなければいけない。本当の再利用がなくなり、見せかけばかりの矛盾した世界。

先日の停電から、予行演習を兼ねて非常時用の懐中電灯を時々使っている。懐中電灯の明かりに頼った食事も楽しいものだ。スマホの充電とラジオと懐中電灯の機能がついているが、新しいものは同時に使えないことを知った。だから、古いタイプの手回し懐中電灯も引っ張り出し、仲良く2台、いつでも使える場所に待機している。

停電がなければ、非常用袋に入ったままで使うことはなかった。使う日が訪れないことを願っているが、せめて楽しみながら備えよう。


感情に流されては、本質を見失う。私は、そのことが一番怖い。だから、常に冷静であろうと努め、自分の目で出来得る限り確かめる。

ネットに繋がっていなかったり、情報を収集できない人を情報弱者と捉えがちだが、根拠の確かでない、溢れかえる情報に右往左往している人達も同様に情報弱者だと思う。

真実を見抜く心の目を鍛えなければいけない。

誰かに助けてもらうではなく、自分は自分で救うしかない。

感情と理性のバランスが大切だ。

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