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慈悲喜捨を仏教辞典から学ぶ

(堅いタイトルですが内容も堅めです🤭🙇‍♀️)
慈悲喜捨、四無量心と言います。わたしの仏道修行は、ここだなあと思っています。仏道修行とか言うと真面目な雰囲気ですけど、タムレンレンです〜楽しみつつ学びます😊🙏

パユットー師の「仏法」に出会ってからも、慈悲喜捨の心の修行が、大切だなあと感じます。

今日は、パユットー師の仏教辞典《仏法篇》から引用させていただきました。英語の表現も学びつつ。。

四梵住

[161]四梵住(Brahmavihara4 : holy abidings; sublime states of mind)

 : 最勝のものを具える法。心に宿る最勝の法。清浄で最勝の行為の原理。心の原理として具え、行為を指揮すべき法で、これにより汚点のない生き方をして、一切の人・衆生に対して正しい実践ができる。

1. 慈(Metta:loving-kindness; friendliness; goodwill)
 :人に幸せになって欲しいという愛情。良かれと願うことで、すべての人・衆生に対して友情を広げ、役に立ちたいと考える心を持つこと。

2. 悲 (Karuna:compassion) 
: 同情して、苦をなくすよう助けてあげたいと考え、一切の衆生を苦と困難から解脱させたいと切望すること。

3. 喜(Mudita: sympathetic joy; altruistic joy)
:他の人が幸せに生きるのを見て、いつも心は清らかな喜びを感じ、幸せに生きる一切の衆生に対して常に明るく楽しい態度で、人が幸せに生きてさらに繁栄するときは共に喜ぶこと。

4. 捨 (Upekkha: equanimity; neutrality; poise) 
: 心を中立にし、慧をもって考察して法を維持する。すなわち秤にかけたように愛情にも憎しみにも傾かない、正確にきちんとした心を持ち、一切の衆生がなす業を考察して、善果を受けるべきか、悪果を受けるべきか、自らのなす理由に適切かどうか見て、判断を下して法に従い実践する用意をする。また、その人が自分の責任を取ればよく、責任を取るのが適切である、あるいは自分の責任に相応しい果を受けるべきであるから、(自分に)なすべきことがないときは、心をじっと静かにして見守ることを知る。
 梵住を維持する人は、慈悲心をもって一切の人・衆生を助け、捨心をもって法を維持しなければならない。従って一切の衆生を助ける悲心があっても法を失わない捨心を持たなくてはならない。
 この梵住は梵天にする、梵天と平等にしようとする常に心の中にある法、あるいは非常に徳のある人の持つ法である(abiding of the Great Ones)。
 また、この法は四無量心 (Appamaññā 4: unbounded states of mind; illimitables)とも呼ばれる。というのは、一切の人・衆生に広く量と範囲なく広げるからである。
 人の中にある梵住は、その人に摂事をもって他人を援助することを実践させる。また、梵住を正しく理解し実践するのに、四法について詳細に、特にその功罪を知らなくてはならない。

A. 用語の分析による意味

1. 慈=(気持ちがある)一切の人・衆生に対して利益と安楽を切望する、または友人に利益と安楽を望む気持ち。
2. 悲=他の人が苦しみを体験したとき、善人に対して心を痛める、あるいは他の人から苦しみをすべて取り除く、また苦しんでいる一切の人・衆生に対して心を広げて受け止める。
3. 喜= 善い果のあった人に喜ぶ。
4. 捨= 一切の衆生が苦しめ合わないようにと努めることなどは止めて、見守り中立を守る。

ここまでは、それぞれの意味合いを書いてますので、そうだな、そうだな、という感じです。

以前に慈悲喜捨について書いた記事はこちらです。その時の思いです。

https://note.com/shizensan/n/na563cd43eafb

次が面白いです。

相、味、現起、足処


B. 相 (Lakkhana =特徴)、味 (Rasa=働き、または作用)、現起 (Paccupatthana=現状)、足処(Padatthana =近因)

1. 慈(他人が通常の状況において)
相(特徴) = 一切の人・衆生を援助する状態である。
味(作用) = 人に利益がもたらされるように導く。
現起(現状) = 恨み、怨恨をなくす。
足処(近因) = 一切の人・衆生の心を豊かにする状態を見る。
2.悲(他人が苦しんでいる状況において)
相 = 一切の人・衆生に苦をなくす状態である。
味 = 一切の人・衆生が苦しむのをじっと見ていない、じっとしているのは耐えられない。
現起 = 苦しめ合わない(Avihimsā)
足処 = 頼るべきもののない状態、苦に支配される一切の人・衆生の困窮する状態を見る。
3.喜(他人が楽を成就したか、何か良い前進をした状況において)
相 = 共に喜ぶ。
味 = 嫉妬しない、嫉妬に敵対する。
現起 = 嫉妬心、喜ばない気持ち、あるいは他人の幸せが耐えられない気持ちを駆逐する。
足処 = 一切の人・衆生の成就を見る。
4. 捨(人がなした業に対して負う責任に従って法を維持する状況において)
相 = 一切の人・衆生に対する中立の態度。
味 = 一切の人・衆生に平等を見る。
現起 = 怒りと無念、それに同調して喜ぶことを抑える。
足処  = 一切の衆生はいかに好きなように、楽を得るか、苦を解脱するか、到達し得た成就を失うか、すべての人が自分の業の主である状態を見る。

相、味、現起、足処、
(特徴、作用、現状、近因)
初めて見ました。
わたしは今までは簡単な意味合いと、自分自身の感覚でしか知らなかったです。
経典をそこまで勉強しているわけではないですから、そうですよね。

慈、悲、喜、捨、を
通常の状況、苦しんでいる状況、楽を成就した状況、人がなした業に対して負う責任に従って法を維持する状況、と
このような説明の仕方、見方、も新鮮でした。
でもそうだな、となんとなく納得します。

成就と失敗


C.得(Sampatti:成就)と失(Vipatti:失敗)

1. 慈 :  得=心寂静、怒り、不満がない。
    失=愛情が生じる。
2. 悲 :  得=心寂静、害意が生じない。
    失=悲しみが生じる。
3. 喜 :  得=心寂静、嫉妬心が生じない。
    失=楽しくなる。
4. 捨 :  得=心寂静、喜びも悲しみもない。
    失=知らずにじっとしている(愚鈍、無視)。

ここは、成就と失敗。
普段の日常生活においては、わたしが失敗していることが、わかりやすく知らされてますね🤭😂
愛情は生じますし、悲しくなりますし、楽しくなりますし、愚鈍ですね。振り幅は少なくはなっていますが。。

成就は、心寂静。
たぶん執着していない状態、ですね。好き、も、嫌い、も、ない。中立。

近くの敵と遠くの敵(不善)


D. 敵、すなわちその法を破壊するライバルである不善

1. 慈 :  近くの敵=貪欲(Raga)
    遠くの敵=瞋恚(Byápada)、すなわち怒り、不満。
2. 悲 :  近くの敵=憂(Domanassa)、すなわち悲しみ、無念。
    遠くの敵=害心(Vihimsā)
3.喜 :  近くの敵=喜悦 (Somanassa)、例えば自分も利益を受けるだろうと喜ぶ。
    遠くの敵=不快(Arati)、すなわち喜ばない、嬉しくない、嫉妬する。
4. 捨 :  近くの敵=無捨(Aññānupekkha)、何も分からずじっとしている、愚鈍、無視。
    遠くの敵=貪欲と瞋恚(Patigha)

Dは、面白い🤭
近くの敵と遠くの敵って、どういうことだ😆

怒り、害心、嫉妬心、無知で愚鈍な心にその都度気づくようにしてみる。
欲や怒りがあまりない時はけっこう無知な感じに気づいたりしますけど、これがうっかりしてるとか愚鈍とかいう感じなのかもな〜。
けっこう、怠けたい欲求がある気がしますね!
面倒、とか、早く終わらせたい、とか?
怠けはたぶん無知なんですけど、怠けたいは欲求ぽいし、早く終わらせたいは嫌悪っぽいですもんね〜。
ここでも忍耐は欠かせないですね😊

基準の例

E. 多くの経典が引用する四梵住の意味をはっきり示す基準の例

1.子供がまだ小さい幼少期、
母親は:慈で愛して面倒を見る。
2. 子供が病で苦しんでいるとき、
母親は悲で心配し看護し、治療の方法を探す。
3. 子供が成長して立派に明るく美しい成人になると、
母親は:喜でわくわくと嬉しくなり、いつまでも子供が若々しく元気でいて欲しいと願う。
4. 子供が熱心に自分の仕事を責任をもってやっているとき、
母親は:捨で静かな中立の気持ちでじっと見守る。
志欲、すなわちなさんと欲する志欲(Kattukamyata-chanda:善く行いたい、あるいは一切の人・衆生に過患のない完全な善を行わせ、利益と楽を持たせ苦から解脱させたいという欲求)がこの四梵住の開始点で、蓋などの煩悩を抑えることが中間で、安止定(最も安定した清々しい寂静の心)が四梵住の終着点であることを知るべきである。
(第19巻増支部五集311-20頁;第45巻法集論74-6頁;第63巻清浄道論二134-98頁)
[☆]四力(Bala 4): [229] を参照のこと。
[] ブッダの説教方法(Buddhalila 4): [172] を参照のこと。
[☆]四修習(Bhavana 4) : [37] を参照のこと。
[☆]四修習(Bhavita 4) : [37] を参照のこと。

子供が熱心に自分の仕事を責任をもってやっているとき、母親は:捨で静かな中立の気持ちでじっと見守る。
志欲、すなわちなさんと欲する志欲
(Kattukamyata-chanda:善く行いたい、あるいは一切の人・衆生に過患のない完全な善を行わせ、利益と楽を持たせ苦から解脱させたいという欲求)がこの四梵住の開始点で、蓋などの煩悩を抑えることが中間で、安止定(最も安定した清々しい寂静の心)が四梵住の終着点であることを知るべきである。

この辺をもっと学びたいと思いました。

一つ一つの事柄に対して、
今ここの事柄に対して、慈悲喜捨の心で取り組んでみる。そして、チェックしてみる、でもいいかな〜。わたし流🤭😆
わたしの実践は、主に子どもに対してだったり人に対してだったりしますから、普通の時、苦しんでいる時、喜んでいる時、自分の行いに責任を持つ時、その都度その都度、その子どもや人に対する気持ちというか、今ここの自分の心の姿勢に気づいてみる、とか。
在家の修行者だからこそ、社会でこのように実践できる場があると思っています。
わたしは、実践、というのは、心の気づき(中のこと)とか、実際の慈しみや理性に基づく行為(外のこと)、と捉えています。
もちろん、不完全ですから、失敗は多々ありますが、そこからいつも何か学びたいと思っています。

補足(五蓋と安止定)

蓋などの煩悩、の蓋は、五蓋のことですね。

[225] 五蓋(Nivarana 5 : hindrances):心を覆って美徳に前進させないもの。心を覆って善を成就させない法。心を随煩悩で汚し、慧の力を弱めるもの。
1. 貪欲(Kamacchanda:sensual desire) :貪欲への満足。五種欲の欲求。
2. 瞋恚(Byápada:illwill) :悪意。怒り、恨み。
3. こん沈睡眠 (Thina-middha: sloth and torpor): 沈鬱と眠気。
4. 掉挙悪作(Uddhacca-kukkucca: distraction and remorse; flurry and worry;
restlessness and anxiety):浮つき、いらいら、憂鬱、心配。
5. 疑蓋(Vicikicchá:doubt; uncertainty):疑い。
(第19巻増支部五集85-7頁;第47巻分別論114頁)
[☆] 五法(Pañcadhamma): [239] を参照のこと。
[☆] 五戒(Pañcasila) : [238]を参照のこと。
[☆] 五捨断(Pahana 5): [224] 五滅尽を参照のこと。
[☆]五種禅(Pañcakajhána) : [7] 二禅定を参照のこと。

安止定は、最も安定した清々しい寂静の心とありますね。仏教辞典には二定と三定のところにありました。

[45] 二定(Samadhi 2 : concentration) : 心を等持(統一集中)すること、心が一つの所縁を捉えて寂静であること。
1. 近行定(Upacara-samadhi : access concentration):定に近接、専一に近い定。
2. 安止定(Appana-samadhi: attainment concentraion) :専一な定、完全な定、禅定にある定。
(第62巻清浄道論-173頁;第63巻清浄道論二287頁)

[46] 三定(その1)(Samadhi 31 : concentration):心を等持すること、心が一つの所縁を捉えて寂静であること。
1. 刹那定(Khanika-samadhi: momentary concentration): 一時的な定
2. 近行定(Upacara-samadhi : access concentration) :専一に近い定。
3. 安止定(Appana-samadhi : attainment concentration) :専一な定。
(法集論アッタカター 207;第62巻清浄道論-287頁)

もうお腹いっぱいですね😂🙏
今日はこの辺で。
英語の表現はまた改めてにしようかなと思います。

慈悲喜捨の修習は、まずは自分への慈心から始めます。
誰もが、自分への愛着がありますから、そこを土台にして広げていくと教わりました。
私は幸せでありますように
私の親しい生命が幸せでありますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
私の嫌いな生命が幸せでありますように
私を嫌っている生命が幸せでありますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものが幸せでありますように

私の幸せを願うことは、エゴではない、と長老方は仰ってくださいます。
人を押しのけて、人を不幸にしてまでも自分が幸せになろうとすることは、エゴです。とお聞かせいただいております。
わたしも、ひとも、だれでも、が幸せになりたい存在だと思います。
自他の区別なく、敵味方という見方でなく、中立な心を、慈悲喜捨の心を育てていけたらと思います。

いつでも慈悲慈悲、慈しみ〜と、言っているのは、わたしにはそれが足りないと思っているからですね。気づき気づき言うのも、気づきが間に合わないことが多いからですね、それでも、できるだけ、いつの時点でも気づいたり、慈しみを思い出せたりして、その都度学んでいくだけなんだろうなと思いますし、そうしていきたいと今は思っています😊🙏

これからは、毎日更新、とはいきませんが、できるだけ自分の学びを皆さまと共有できたらな〜って思いつつ、ちょこちょこ書いていこうと思っています。

お気軽にコメントも頂けますと喜びます😊🙏

生きとし生けるものが幸せでありますように

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