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他の生命との正しい関係を築く 慈経より

慈経という経典があります。
私は仏教経典の中でも、この慈経という経典が一番好きです。
私のnoteを見ていただくとわかると思いますし、記事を読んでいただいている方は既にご存知だとは思いますが、慈しみ、慈悲、慈悲喜捨、慈経、とにかく慈しみが好きなんです🤣

私は昔から、他の生命(主には人)との関係性に、問題が度々起こることを目撃してきたんです。それはきっと皆様もそうかもしれないですね。
それはまさに私の問題ではあったのですが、なぜこのように他の生命との関係性に問題が起こるのか、起こってしまうのか、よくわからなかったんです。その時は問題を起こそうと思ってないからです。でも起きちゃう。
今でも全てが理解できているわけではありませんし、人間関係がすべてうまくいくなんてことはありえないということは頭では理解しています。
それは相手があることですからね。相手の管轄は、私にはどうしようもないのです。
いつでも私はどうするか、どうあるか、だなあと思います。

今日はそうそう、慈経ってそういえば、お釈迦様がどのようなシチュエーションで説いた説法だったっけ?とふと思って、見返してみたのです。
私は自分の興味のあることしか覚えられず、そして覚えてもすぐに忘れますから、いつも何度も何度も振り返ります。
仏教の経典は、仏説と言われているものはほとんどが、対機説法と言われたりする、その場やそのシチュエーション、その人、人々に合った、その場その場に合ったと言いますか、その人がわかるようにお釈迦様が仰った?その方(方々)にぴったりに説いたお話が多いようなのです。

慈経は↑こちらに載っていますのでご覧いただけたらと思います。

お釈迦様が慈経を説いたシチュエーション

Mettasutta 慈経を読む

生命との正しい関係を築く方法

これから、Mettasuttaṃ慈経の本文を読んでいきましょう。
Mettasuttaṃ は、ヒマラヤの麓にある森で、樹神のいたずらに悩まされていた出家比丘たちに対して説かれたといわれています。樹神というのは木の精霊のようなものですが、彼らもまた生命です。完全に戒律を守って、真剣に修行に励んでいた出家に対して敬意を抱いた神々は、樹(天宮)から降りたのです。しかし、修行者たちは、森の中で安居に入ってしまいました。そうすると、三カ月ほど家に戻れなくなることを心配した精霊たちは、出家者を脅して修行のじゃまをしはじめました。比丘たちが、じゃまが多くて修行が進まないことをお釈迦様に報告したところ、他の生命との正しい関係を築く方法として、釈尊が『慈経』を説かれたのだと注釈書に書かれています。

 この経典は悪霊祓いに使う呪文ではなく、生命との正しい関係を築く方法が説かれる超越した智慧を開発するための経典なのです。また、この経典で説明する慈しみの実践は、仏教徒たちが日常実践する慈悲の瞑想よりも、さらに高いレベルを期待しているのです。慈悲を一つの瞑想として選んで、心を超越した状態に育て上げるための教えです。日常、慈悲の瞑想を行なっているすべての仏教徒の基本文献です。経典は憶えやすい詩(偈)の形で説かれています。では、一行目から読んでみましょう。
初期仏教経典解説シリーズⅣ 慈経/宝経/吉祥経

慈経は、他の生命との正しい関係を築く方法として、釈尊が『慈経』を説かれたのだと注釈書に書かれています。

これを読み返して、ああ〜そういえばこんな感じだったな〜なんて思い出しました。
この慈経については、以前書いた記事もあるので、興味のある方は是非読んでみてくださいね。

この記事を書いたときにはまだ、パーリ語も上下点とか〜こんなんとかーこんなんとか、記号の付け方もわからなかったので、なんともな感じですけど、その時の私なりに書いてます。

さて、このシチュエーション。面白くないですか?え?こんなシチュエーションなの?みたいな🤭

他の生命とどうすれば正しい関係性を築けるのか、慈経に書かれてあると言うことです。

そうですね〜、他の生命に対する慈しみの心を育てなさい。母が子どもを慈しむように、どんな生命にもそのような気持ちで接することですと。
いうことですね。

まあ、、普通はなかなかできないですよね。。
だから精進ですし忍耐です。
バッサリ😂
生命はわがままにできています。
嫌なものは嫌なんですね😂
生きるとは本来そういうことなんでしょうね。。

わがままはどこからがわがままなんだろう

基本、生命は、人間は、自己中なんです。たぶんそうでない人はいないのです。

お釈迦様は、比丘たちに「生命すべての問題であるわがまま(自我)を制御すること」をまず教えるのです。ここでは、「自我をなくせ」ということではなく、自我や主観をむき出しにすることを戒めています。
瞑想実践に成功した人は「自我とは錯覚である」と発見しますが、修行中も自我をむき出しにしてはならないのです。
初期仏教経典解説シリーズⅣ 慈経/宝経/吉祥経

自分のわがままな心を表出しないで済むかどうか。この辺かな〜。
表出するかしないかだけで、みんな基本わがままなんだと思うんです。

でも、人間関係や社会的にわがまま、というと、是が非でも自分の意見を押し通したり、人の迷惑をかえりみずに好き放題にやったり。自分さえよければいいという考えだったり?
その指標となるところは、それが迷惑行為であるかどうか、かなあと思うんです。人を困らせたり、人に何かを強要したり、人を害する、行為ですね。

それがなければ、ただ好きなことをすることは、世間的には、社会的には、わがままとは言えないかなあって。
自由に自分の意見をこのように書くことも📝
もちろんこれを読んで不快な思いをする人が1人もいないというわけにはいかないと思いますが、あからさまな暴言や人を馬鹿にしたり傷つけるような言葉を使っていなければ、私はこう思う。ということは、世間的にはわがままな行為ではないと思います。
ここは言論の自由でしょうか。

でも、仏道修行であるならば、まさに、自我や主観をむき出しにすることは、戒めるべきなのでしょうと思います。
先程も少し触れましたが、どなたかがこの文章を読むことによる影響を私自身は全て把握できませんし、少なからずこれを読んで傷つく人が1人もいないということは、ないと思うからです。

ではなぜ書くのか。。
誰かの役に立つこともあるかもしれないと思うからでしょうね。
実際、いろんな人が書いている言葉や文章は、「他からの声」です。
ここがなるべく善であり、法へと導くものであるならいいなと、思っちゃいますね😊

仏道修行って大変だと思われちゃう気もしますけど、私からしたら、世間で生きること、の方がめっちゃ面倒なことをして大変な思いをして生きていると思っちゃいます。

自分が嫌い?

この慈経の解説書のQ&Aにこう書かれてありました。一言一句正確な言葉ではありませんが、このようなやりとりでした。

質問
瞑想の時に「嫌いな生命」のところに自分を入れてもいいですか?(慈悲の瞑想の時、嫌いな生命も幸せでありますようにという文言があります)

答え
入れないでください。これ、たいへんな大きな問題になります。精神的な病気ということになるし、そういう発想自体、インチキ、詐欺なのです。---
たとえば、「私は不幸になりますように」と念じられますか。念じられないでしょう。自分のことが好きということは、もう決まっているのです。
すごく大きな問題になりますから、気をつけてください。

こんなやり取りでした。

ここは自分に正直に。
皆んな、幸せになりたくて生きてます。
不幸になりたくて生きてる人はいないのです。

そんなことはない、私は自分や人が嫌いで、自分なんていなくなればいいと思っている。
という人もいるかもしれませんね。
そういう方は、なぜ自分や人を嫌いになったのでしょうか?なぜ自分を厭うようになったのでしょうか?
本当は幸せになりたかったのに、なれない自分、なれなかった自分がそこにいる(た)と、思っている(思い込んでいる)からではないでしょうか。

本当は幸せになりたいということでしょうと思います。
そう思わなければ不幸になったって、不満はないはずです。

自分が幸せになりたいというなら、人もそうなのだということですね。

ここは私とあなたは同じだとも言えるところだと思います。

人間は慈しみを実践することができます。
するかしないか、選択できます。
絶対、した方がいいです。私はそう思います。
でも慈しみでさえ人に強要することは人権侵害かな。慈しみは強要するものではないですね。
これ、やっちゃってたかもしれないな〜
反省します🙏😊

私が実践するかしないかですね😊🙏

仏教もお勧めはできますが、強要はできませんね🙏😊

生きとし生けるものが幸せでありますように

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