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気づきを絶やさず、とらわれず、穏やかに生きる 1

心というものは、もともと揺れ動かず、穏やかなものです。ちょうど一枚の葉が静止しているかのようにー
風が吹くと、葉は揺れ動きます。心が揺れ動くのも、心が感覚や感情にとらわれ、そのあとを追いかけるからです。
あとを追いかけなければ、揺れ動くことはないのです。

(アチャン・チャー法話集 第一巻 戒律 より)

ダンマとともに歩む

ほとんどの方は、まだ実践の本質を知りません。歩く瞑想や坐る瞑想をしたり、法話を聴いたりすることが、実践だと思っています。これは事実ですが、こうしたことは表面的なものにすぎません。

 真に実践すべきなのは、「心が感覚対象に触れたとき」です。そこが実践の場なのです。
私たちは嫌いなものにたいしては怒り、好きなものにたいしては喜びます。そのときが実践すべきときなのです。では、どのように実践するのでしょうか?

 もし死ぬまで喜びや楽しみを追い求めてあちこち走りまわったり、苦しみを避けるためにいつでも逃げまわったりしているなら、ダンマは理解できないでしょう。そこで、苦しみや楽しみが生じたとき、それにとらわれずにダンマを使って離れることができるでしょうか?
ここが実践のポイントなのです。

 人はたいてい自分にとっていやなことは受け入れません。たとえば誰かに批判されるとすぐに「うるさい、なんで私を責めるんだ!」と反応するでしょう。これは心を閉ざした状態です。まさに、ここが実践の場なのです。

 誰かに批判されたときには、相手が話していることが事実かどうか、耳をかたむけるべきです。心を開き、相手が話していることを考察してみるのです。もしかすると何か大切なことを話しているかもしれませんし、自分には批判される理由があるのかもしれません。相手が正しい場合もあるのです。でも私たちはそのように考えず、すぐに腹を立ててしまうのです。

 誰かに欠点を指摘されたときには、感謝し、努力してその欠点を直し、自己を成長させることが大切です。このように実践する人は、理性のある人です。

 混乱があるところに、やすらぎが生じます。いわゆる混乱を観察し、理解したとき、そこにやすらぎが現れるのです。

 批判を受け入れられない人もいます。それは傲慢だからです。受け入れるどころか、態度を変えて論争するのです。これは大人が子どもに接するとき、とくによく見られることです。
子どもでも理性的な話をすることがあります。でも母親は子どもの話に耳をかたむけようとしません。

 あるいは、あなたが師匠だとしましょう。弟子があなたの知らない話をするかもしれません。でもあなたは師匠ですから、弟子の話に耳をかたむけようとしないのです。これは善い思考(正思惟)ではありません。

 ブッダの在世中、サーリプッタという名の抜群に智慧の優れた弟子がいました。ある日、ブッダが法を説いているとき、サーリプッタ長老のほうを向いてこのように聞きました。
「サーリプッタよ、あなたはいまの話を信じますか?」
「いいえ、まだ信じません」とサーリプッタ長老が答えると、ブッダはその姿勢をはその姿勢を褒めました。
「サーリプッタよ、とてもすばらしい。あなたには智慧があります。智慧ある者は、人の話を簡単に信じません。心を開いて話を聴き、信じるか否かの前に、それが事実かどうかをみずから確かめます」

 ここで、ブッダは他の指導者のために模範を示されています。サーリプッタ長老はただ自分の気持ちを正直に話しただけですが、それこそが事実であり、大切なことなのです。

 人のなかには、師の教えを信じないことは師の権威を疑うことだと考えて、師にたいして「信じません」と言うのを恐れる人がいます。そのような人は、ただ「はい、はい」と師の言うことをするだけです。

 でも、サーリプッタ長老がブッダに「まだ信じません」と言ったとき、ブッダは怒ることなく、そのように言うのを恐れる必要はないとおっしゃいました。

 自分が信じられないことにたいして「信じられません」と言うことは、間違っていません。
それで、サーリプッタ長老が「まだ信じません」と言ったとき、ブッダは「サーリプッタに
は智慧がある。信じる前に自分でよく確かめる」と褒めたのです。

 このブッダの姿勢は、指導する立場にある人にとって、よい模範になります。ときには幼い子どもからも学べることがあるものです。ですから、むやみに自分の権威や地位にしがみつかないことが大切なのです。

(アチャン・チャー法話集 第一巻 戒律 より)


幼い子どもから学ぶことがあります😂🙏
いえ、毎日のように教えられております。

それは、子どもを通して観る私の姿です。

母親という立場で
高慢で
偉そうに
子どもにいつも教えてやろうという姿勢

毎日のようにそのような姿を見ますね🤭

子どもを思い通りに動かしたい
思い通りに育てたい

そのような思いからやってきていますね。
そこに気づくことは大事と思います。

気づくことができれば、そのように行動するかしないかは、選択することができるからです。
気づかなければ、気づかないまま、そのように子どもを思い通りに動かそうとするでしょうと思います。そして実際にそのようにしている私の姿も観察しますしね。

もちろん、悪い動機からもありますけど、善い動機からも、あるとは思っています。

道徳のような善い悪いは、これは善い、これは悪いと教えることは間違いではないとは思います。

でも、実際には、子ども自身が自分でそれが善いことか悪いことかをしっかり理解できるようになることが大切と思います。

慈しみと理性を持って、子どもと共に学ぶことができれば、幸せなことと思いますね😊

そして、そのような姿の私を嫌悪したくなっちゃうんですけど、そこは慈しみで受け入れていきます。子どもを大切にしたいという気持ちもあるわけですから、ね。
ここが重要なんですけど、ここで自分を嫌悪して責めたところで、何もいいことがないんです。これは如理作意ではないでしょうかね〜。
やはり、役に立つことは慈しみと理性だなあと思います。

それは私でも私のものでもない

長老方の言葉に助けられるのです。
忍耐堪忍、そして精進です😊🙏🙇‍♀️

アチャン・チャー長老も大好き🤭なので、時々書いていこうと思います。

生きとし生けるものが幸せでありますように

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