ゴミ拾いで気づく心
子どもと時々ゴミを拾います。
けっこうゴミが落ちてるんですよね。いつもではないです。数ヶ月に一回とか、の時もあれば、月数回、の時もあります。
その行為は善きことだと思っています。でもこのことに執着してはいけないなと思っていたのですが、実はがっつり執着していたことを思い知らされたエピソードです。
例えば、そんなゴミ拾いなんて偽善ですよ、とか。やってもまた人はゴミを捨てるんだから、意味はないよね、とか。なんのパフォーマンス?とか?笑よくわかりませんが。
直接的にそんな風に言われたり、そういう目線を送られたりしたら、、つまりあからさまに批判されたら、、
それを言われて怒りの心が生じたら、それに気づけばいい、と思ってやっているつもりでした。準備できている、そんなふうにも思っていたかもしれません。
そう、つもりでしたね。
「この辺は変な車行き来しているから、気をつけないと危ないよ。」
と、言われた時
え?!車には十分に気をつけて行っていますよ、私!と怒りが出てきたのです。
(ちょっと、変な車、というのは、置いときます。)
これ、面白くないですか?
どこに執着してるんでしょうね。
やっぱり「この私」に執着しているのでした。
ゴミ拾いをしている私、ではなくて、
しっかり車や安全に気をつけてゴミ拾いしている私、に。
善きことですよね。
ゴミ拾いも、しっかり安全に気をつけることも。別に悪いことではないのです。でもその行為に執着している心、は、不善心?かも。
それをしているこの私、となった途端に怒りが生じるんですね。
いえ、たぶんずっと、この私なんです。普段は気づいていないんです。
いつも放逸がつきまとっている私。
でしょうね。その一端を垣間見ました。
だからこその、その都度のサティによる手放しが必要なんですね〜。
人に教えていただくのです。
放逸なこの私、を、ですね😂
門番、サティが必要です。
私の場合はきっと、五蘊の行を私と思いやすいのではと。
人によって、色受想行識のどれかを私と思いやすい執着しやすい癖のようなもの、傾向があるとお聞きしたことがあります。
ここにある、と言えるのは、私、ではなく、五蘊である。と仏教では言われます。
皆様はどうでしょうか?
身体、感受、感覚、思考、記憶、意志、行為、善悪、認識すること、知ること。どれを私だと思いやすい傾向があるでしょうか?少なからずどれもありそうですが、傾向はありそうですよね。
どれにひっつくことが多いですか?
反対にわりと手放せているものはあるでしょうか?
観察してみると面白いと思います。
人と関わることで、教わりますね。
貪瞋痴という煩悩が、教えてくれます。
煩悩は学べますね〜🙏
生きとし生けるものが幸せでありますように
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