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ほどよい母親ってどんなおかん?

この羊さんたち、お久しぶりです。ん?ラマかな🦙?

私も5年くらい前から母親という役割を担うことになりまして。子育てをさせていただく中で、悩むことや困ることって、様々にあるんですよね。
まあでも私は心がおばちゃんなので、悩み倒すことはあまりなくなってきました。適当さが半端ないのです。

でも、その都度その都度。子どもの発達に合わせて?子どもが成長していく中で、母親としてどのように接すればいいのか、どのように対応していけばいいのかなあと考えることは、あります。真面目でしょ。普通かな。

ほどよい母親(good enough mother)とは、適度の心身の世話によって、快適な環境と、対象としての恒常性を与える母親およびその機能を指す。これは普通の良い母親のことであり、ほどよい母親になれない例として、強迫的に自己に没頭して幼児に関心を向けられない母親、また幼児に過度に没頭しすぎて同一化し、そのあと急に撤退する母親などが挙げられる。絶対依存の段階で母親が乳児の欲求を満たすことで、乳児は万能感をもつ。そこから母親が幼児へ少しずつ不適応を重ねていくことは、幼児に環境を提示することとなり、そうして幼児は万能感を脱却し、現実を認識できるようになっていく。明らかに完璧とはいえないお母さんの子が、まずまず正常に育っていくことができるのは、そこには十分な「ほどほどによい子育て」があるからである。
ドナルド・ウィニコット ウィキペディアより 

ドナルド・ウィニコットさんは、イギリスの小児科医、精神科医、精神分析家、らしいです。精神的に障害を持った子供やその母親を診る中で得た経験を元に、その後非常に大きな影響を与えた概念のいくつかを考え出してきたらしいです。その一つが、これ。

ほどよい母親
good enough mother

ほどよい母親ってなんだ?!と思って、取り上げてみました。
著書を読んだわけではないですから、詳細はわかりかねます。すみません。
あくまでも、このほどよい母親って?というところだけで書いています。
仏教では、中道を説きますが、これに通じるものがありそうだな、となんとなく思ったりしてですね。

「ほどよい母親になれない例として、強迫的に自己に没頭して幼児に関心を向けられない母親、また幼児に過度に没頭しすぎて同一化し、そのあと急に撤退する母親などが挙げられる。」

ここなんでしょうね。両極端な感じしますね。子どもに無関心又は過干渉的な感じでしょうか。過干渉の後の急激な突き放しみたいな?

「絶対依存の段階で母親が乳児の欲求を満たすことで、乳児は万能感をもつ。そこから母親が幼児へ少しずつ不適応を重ねていくことは、幼児に環境を提示することとなり、そうして幼児は万能感を脱却し、現実を認識できるようになっていく。」

母親が幼児へ少しずつ不適応を重ねていくこと

が、万能感を脱却し、現実を認識できるようになっていく。とあります。

乳児の時はわりと欲求に答えますもんね。答えるものだと思っている母親が多いと思います。
でも幼児になるに従って、言葉もわかってくるし、理由も理解してくるので、本当に少しずつ少しずつ、欲求にすべて確実には答えなくてもよくなると言いますか。答えない方がいいこともあると感じますしね。

極端にしちゃうとなんらかの不具合が出てくるんでしょうと思います。不具合?子どもにとって良くない、子どもの精神状況によくない影響を与えてしまうってことかな。

「明らかに完璧とはいえないお母さんの子が、まずまず正常に育っていくことができるのは、そこには十分な「ほどほどによい子育て」があるからである。」

でもほどほど、とか適度、臨機応変、とかが一番難しいっちゃ難しいのかなあ。たぶんそれは、お互いに変化しているからかなあと思うんです。1回目は通じても2回目は通じないって、けっこうありますしね🤭

なんでも決めつけてしまえば、楽なんですよね。
こういう時はこうしとけばいいだろうと。
そういうものも確かにあることはあるんでしょうが。。
だけど、人は、心はそうはいかないんでしょうね心コロコロ。
その時のお互いの心の状況、環境、色々ありますもんね。

明らかに完璧とはいえないお母さん

いや、そうですよね💦
だからここは安心できます。

不完全な母親でいい

てか完璧になろうとしなくていいのだと思います。
でも振り返ってみると、その時その時には完璧を目指している気もしますよね。子どもにとって一番いい対応とか、接し方とか、探してますもん。
両極端にならず、心はある程度右往左往しつつも、そのような自分と子どもを温かく見守ることができれば、OKかな。
喧嘩しても怒っても、すぐ仲直りができたり、次のことができたりすれば問題ないとかですね。
自分を過度に責めすぎず、自分勝手になり過ぎず。

日常的な虐待や暴力は別問題ですけどね。

私が子どもの時、私の母親を見ていて、母も母で悩みや苦しみがあって、私のことに関心を向けられない時がある、と。そう思っていました。こんなにはっきりとした言葉や思考ではないですけどね。
子どもは子どもなりに体感していくんでしょうと思います。これも子どもによって、様々に違うんでしょうとは思いますが。

極端にならずに、ほどほどに、自分と子どもの様子を見守りながら、手を出したり引っ込めたりしながら、お互いに加減を知っていく、親子のそれぞれの成長はそういうものかもしれないなあと、そんなことを思いました。

適度にですね、ほどほどがいいですね、何事も😊🙏


中道って、仏教ではよく言われるんです。これは、正しい道と言われます。真ん中の道、とかも言われますけど、中間とか、間を取る、というようなことではないと思うんです。
正しい、これが難しい表現なのです。
正の反対は、邪、と言われます。正しくない、という意味ですね。
下記、参考になりそうなところ拾ってみました。

[15] ニ辺 (Antā 2 : the two extremes):正しい道、すなわち中道(Majhimā paṭipadā)から外れた、最も偏向した実践、あるいは生き方。

1. 欲楽実践 (Kāmasukhallikānuyoga : the extreme of sensual indulgence; extreme
hedonism) :欲楽に溺れること。

2. 苦行実践 (Attakilamathānuyoga : the extereme of self-mortification; extreme
asceticism) : 自分自身を苦しめること。

(第3巻律蔵三18頁;第16巻下相応部大篇339-40頁)
ポー・オー・パユットー 仏教辞典[仏法篇]
[293]八支道 (Aṭṭhaṅgika-magga : the Noble Eightfold Path) 
---------省略
この道の八支は、四聖諦の四項目で、中道 (Majjhimā patipadā)と称せられる。
「中央の道」という意味である。解脱して自由になり、苦を脱して問題をなくし、
最後に欲楽耽著(Kāmasukhallikānuyoga)と自己苦悩(Attakilamathānuyoga)の二つに執着しない目的に導く、程よい実践項目であるからである。
[15] 二辺、[204] 四聖諦を参照のこと。
ポー・オー・パユットー 仏教辞典[仏法篇]

ほどよい母親、のところにも極端な例が二つありましたが、ここも極端な例かな〜

「最後に欲楽耽著(Kāmasukhallikānuyoga)と自己苦悩(Attakilamathānuyoga)の二つに執着しない目的に導く、程よい実践項目であるからである。」

ここは、たぶんですけど、執着してしまいがち、どちらかに寄りがちなところかなあ?と思ったりしますね。

最後は五七五七五で。

ほどほどに子どもと向き合うおかんです
今この時を大切に

不完全どこをとっても不完全
笑って誤魔化すおかんです


生きとし生けるものが幸せでありますように

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