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善悪を学ぶ

今日は、善悪について学んでみます。
けっこうね、難しいところです😆

今日はここから、引用させていただきました😊🙏
https://sukhi-hotu.blogspot.com/2018/10/zenaku1.html

「善悪」とは? ①‐1
まず善悪の勉強から始める

私たちは善と悪について新たに理解すべきです。みながよく言っている「世界は悪(善)で満ちている」などのセットフレーズに乗るのではなく、実際に「善とは何か、悪とは何か」をちゃんと理性で理解したほうがよいのです。

仏教では、善には二種類あり、悪には二種類あります。それぞれどのような意味なのかを学んでみましょう。

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この図はわかりやすいです😳
これをイメージして、学んでみたいと思います。

・Puñña(プンニャ)



Puñña は普通の日本語にすれば、「功徳」や「善い行ない」です。

寄付をする、ボランティア活動をする、困っている人々を助ける、道徳を守る、海岸や街をキレイにする、海外ボランティアで植林や井戸掘りに従事するなどの行為です。

自分と家族が生きるために行なう活動と違って、他の生命の幸福のために行なう行為です。

その結果、自分のこころが清らかになって、自我を張る気持ちが弱くなり、優しい人間になるのです。功徳を積む人は、喜びと充実感を感じます。

功徳行為は三種類あります。身体で行なう身行為、言葉を使って行なう口行為と、清らかな思考の意行為です。

意行為とは何でしょうか? 

自我を控えて、慈しみの気持ちを育てるようなことを勉強したり、考えたり、観察したりすることが意行為です。

さらに、自分の身体で慈善行為をするときも、それについて考えなくてはいけないでしょう? それも意行為です。

さて、プンニャは、功徳。これついこの間、知りました〜😆🙏日々勉強です。
功徳を今まで意識して生きてきたことがあまりなかったんですね。

仏教では、行いは、身口意の三種類に分けています。
世間的に行いといえば、口や身体で行ったことを指しますね。ですから、善悪も、口と身体で行ったことを見がちですが、仏教では意で行う行為が1番重要とされます。意と言うのは、意志(意思)のことですが、殺人も殺意があったかなかったかで重さが変わるように、善悪も本当のところは、意が重要なんですけど、なんせ見えないものですから、人はどうしても口と身体の行為に注目しがちになってしまうのですね。

なぜこのようなことを言うのかというと、自分で善行意をしたと思っていても、そうでないことがあったり、悪行為をしてしまったと思っても、そうでもなかったりする、というようなことはあるんです。ですから、戒律を守る、ということも、
守っている=善行意をしている
という簡単なことではないということを、言いたかったんですね〜。はい😂🙇‍♀️🙏

仏教徒であっても、不善(akusala)だと思わずにやっていることがいっぱいあります。

たとえば仏教徒だから、五戒は守っているつもりです。形式的に戒律項目を守ってはいますが、判断を間違えたり、こころの成長を妨げたりすることをいろいろやっているのです。

それでそのような人にたいして、躾けの言葉をかけると、その人は「私は五戒に反することはやっていません」と弁解するのです。

五戒を形式的に守ることは、puñña という功徳行為になります。しかし、五戒を善―kusala として守らないと、智慧が現れません。

プンニャ(功徳)とクサラ(善)の違い。ここ大切ですね。
自分では善行意を行なっていると思っていても、功徳にはなっているが善にはなっていない、ということがあるんですね。
善を行うのはけっこう難しいことなんですね。

・Kusala(クサラ)


Kusala はなかなか訳しにくい言葉です。
私は「善」「道」「上手」「巧み」という言葉を考えました
が、英語だと「ability」という言葉も使えます。あとは「expedience」「prudence」「efficiency」などがあり、どれも「善」という意味です。能力があること(ability)も善なのです。
仏教の定義は精密ですから、よく理解してください。

Kusala とは、生き方全体を理性に基づいて管理することです。感情に負けないことです。正しい判断をして生きることです。
功徳行為の場合は具体的なリストを作れますが、クサラの場合は生き方そのものが善い生き方になるように巧みに理性を使わなくてはいけないので、具体的なリストは作れません。

たとえば、自分がご飯を食べることは功徳行為ではありません。

しかし、ご飯を食べるときも、すべての生命に慈しみを抱いて、ご飯が出来上がるまで関わった他の生命に対して感謝の気持ちを抱いて、身体に必要な量を計って、味に執着しないで、貪らないで食べることが、クサラになります。

人が行なうどんな行為も、クサラに変えることができるのです。

そして、クサラは善、と言いたいところでしたが、道、上手、巧み、という言葉をスマナサーラ長老は加えてくださっています。いやあ、感動🥺🙏
これ、2018年のパティパダ(日本テーラワーダ仏教協会発行)に載っていたみたいだから、読んでると思うのですが、忘れてますね😆日々勉強です🙏(2回目)
この、善、という言葉だけではないことで、意味を理解する幅が広がると言いますか、善という言葉のイメージだけで理解すると、本当の理解ができない気がするんですね。仏教ではこういうことは多い気がします。パーリ語から和訳するときの、言葉の壁があるんですね〜。

「人が行なうどんな行為も、クサラに変えることができるのです。」

これですね😊🙏私たちがしなければならないことは、何か特別なことではないということだと思います。
善行意を行う、のではなく、行いを善にすること、なんですね😳ここけっこう目から鱗でした。

今行っていることを善としていく。

今、自分が行っている行為を、クサラで行うように訓練していくことなんだと、改めて教えられました🥺🙏感動〜😂🙏(2回目)感謝😊🙏

これ、難しいんですけど、、
例えば、人と接する時にはいつも笑顔を心がけること、慈悲を心がけること。
これは、ただの挨拶、という行為が、笑顔で慈悲を持って行えばクサラになるということなんですね!たぶん🤭うんうん。たぶん😂
そして、ただの挨拶、が、パーパ(悪)や、プンニャ(不善)にもなるんだ!と気づかされました。
今頃...🤣でもやっぱり気づかずに、いや気づいていても、善となっていないことは多々ありますね。
ですから、やはり意思や思考を善にすることなんですね。慈しみの思考は善ですから、いつでも慈悲の思考や言葉を携帯していることは、大切なことだと気づかされます。

仏教では、意志が業であると言われます。善を行うことでそれが業となります。悪を行うこともそれが業となります。どちらの果報を受けたいかは、考えなくてもわかりそうですね。

わかっていても不善や悪を行なってしまうのは、やはり本当には理解していないから、なんでしょうと思うわけです。

・Pāpa(パーパ)


Pāpa は、puñña(プンニャ)の反対で、「悪」や「罪」という意味です。

悪行為も身口意の三種類があります。 

与えられていないものを取ったり、詐欺行為をしたり、人を騙したり、嘘をついたりすることです。
世間で犯罪と言われるすべての行為は、パーパなのです。

悪行為を行なう人は、必ず不幸になります。この世で法律により裁かれます。死後、悪趣に赴くはめになります。これは「悪人」と言われる人の生き方です。

悪行為を行う人は、その結果不幸になります。これは、因果法則を説く仏教が、自信を持って言っていることです。善因善果、悪因悪果。
私たちには智慧と慈悲が足りません。悲しいかな、縁があれば悪行為を行ってしまう存在なんですね。ですから、悪行為をしないように、善行意を行うように、智慧と慈悲を育てるように訓練するんですね。

五戒というものがあります。
殺さない、盗まない、淫らな行為をしない(不倫しない)、嘘をつかない、お酒や麻薬を飲まない・しない。
先ほども言ったように、戒律を守っているつもりでも善行為となっていない場合もありますが、この五つの戒律を守ってみようと努力をすることは、善行為だと思うのです。難しいのですが、この、戒律を守る、ということにどのような意味があるのかを、理解していくことが大切と思いますね。

戒律を守ることは、自分自身の命を守ることですし、周囲の生命の命も守ることにもなっています。
そうですよね、殺さないんですからね😊🙏
ここで一つ気づかされることは、私たちは、自分で生きているのではなく、周囲の人々の、道徳を守る心によって生かされているのだということです。
慈悲の思考で生きると、自然と戒律も守っている気がします。自他の生命を害さない心です。
貝多羅葉さんの記事です。ここにそのようなことが書いてありました。

やはりメッターがあれば、戒律を守っていることになるのですね😊🙏

・Akusala(アクサラ)


Akusala は、kusala(クサラ)の反対で、「不善」「不道」「下手」という意味です。いわゆる「能力がない」ことです。能力がないことは仏教では不善なのです。

何をやっても間違いが多い、努力に適った結果を得ることができない、ものごとを正しく理解する能力がないなどの性格です。

生きるための正しいガイドラインを持っていないことです。

「悪」の場合は特定の罪に当たる行為になりますが、「不善」の場合は、生き方が全体的にうまく進まない、という意味になります。

生きていて、圧倒的にこの部分が多い気もします。悪、まではいかないまでも、善ではない🤭😂
「生きるための正しいガイドラインを持っていない。」
ですから、仏教は、生きることがクサラとなるためのガイドラインなんだなあ〜って思うんです😊🙏

仏教の「悪」の定義

「悪」の定義は何でしょうか?
それは、「自分と他の生命にたいして迷惑な行為をすること」です。

ここで理解してほしいのは、仏教では対象は「自分」と「他の生命」だということです。自分に迷惑な行為をすることも、悪であり罪なのです。

皆さんは他の生命をいじめることは罪だと知っているでしょう。自分で自分をいじめたり害を与えたりすることも罪なのです。

このように、仏教の悪の定義とは自分と他の生命に迷惑をかけることです。仏教心理学から、この定義を設定しているのです。

すべての生命は、自分のことしか知りません。自分のためになるならば、どんな行為も正しいと思っています。自分の命を守るためなら、他の命を奪ってもよいと思っているのです。自分という殻の中での判断です。

そこで、「自分と他の生命の迷惑になる一切の行為は悪である」と理解して、迷惑をかけないように生活してみると、自分という殻が破れて、人間的に成長するのです。

世間の悪の定義は、変化しますね。それは世間では悪の反対は善ではなく正義で、正義がいつも変化するからなんだと思います。正義は時代や国や宗教や文化などによって変わるんでしょうね。そしてその正義に反することが悪とされることが多いと思います。

仏教の悪の定義は

「自分と他の生命にたいして迷惑な行為をすること」だそうです。

ほかの言葉で言うと、自分や他の生命に苦しみや害を与えること。でしょうか。
他の生命はなんとなくわかるような気がしますが、自分はどうでしょうか?
24時間いつも一緒なのが自分ですね、自分に迷惑な行為をすることの方が多い気もしますね〜。
日常的にけっこう自分をいじめていることが多いのではないかと思うのです。

自分の思いを無視したり、自分のことを責めたり、自分の体を酷使したり、労わらなかったり、私たちはそういったことを自覚なく行ってはいないでしょうか。

心って、本当に扱いにくいものです。
自分自身のことだと言っても、心を正確に客観的に把握すること、観察することは容易ではないと、感じます。

興味のある方は、引用させていただいたHPをぜひ読まれてみて頂けたらと思います。
私はとても学びになりました😊🙏

私の日常生活がクサラとなるように精進します🙏🙇‍♀️

生きとし生けるものが幸せでありますように

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