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子どもとの心の距離

5歳の男の子の子育てを担当しております💁‍♀️
一応、母親という役割を担っています。
嘘じゃありません。一時のママ、、違った!一児のママです。もう40代も後半なので、二児のママになる予定はほぼありません。
ちなみにママではなくて、お母さんと呼ばれています。
3児のパパさん風🙇‍♀️

一人っ子の子育てって、過剰に関わったりしやすかったり、するなあって感じます。

そこで、子どもとの心の距離。
考えてみました。

私は仏教好きで毎日仏教を学んでいます。
仏教では、執着を手放す。
ということについて、よくご法話にあったりします。
英語ですと(最近英語を学び始めました)、Let go of attachment
愛着を手放す、のような表現ですね。Google翻訳です笑
誰か知っていたら教えてくださいませ🙇‍♀️🙏

執着を手放すって、どういうことでしょう。
まずは、執着ってどういうことかというと、囚われる、とか。そのことやそのものに、ひっついている感覚ですね。

仏教用語ですと、取、とか取著、と言われたりするものだと思います。

[214] 四取(Upādanā 4: attachment; clinging; assuming) :取著すること。煩悩の力で取著する。渇愛により執着して、自我に結びつける。

1. 欲取(Kamupadana : clinging to sensuality):欲に、すなわち欲しい、満足したい色、声、香、味、触に取著すること。

2. 見取(Difthupadana:clinging to views):様々な見、または原理、すなわち意見、教義に取著すること。

3. 戒禁取(Silabbatupādana:clinging to mere rulers and rituals) :戒や儀法に取著すること。すなわち様々な戒と儀法、行為の原理、実践項目、伝統、規律、方法、慣習、教義、儀式だけで清浄になり解脱できるとする。ただ受け継いできた、またはのめりこんで人の後について実践してきただけで、または原因結果の関係の原理を知り理解することなく、ただ霊験あらたかなもの、神通力のあるものと思ってそのようになるとする。

4. 我語取(Attavadupadana:clinging to the ego-belief):自我論に取著すること。すなわち内部に見出される、生じては滅する性質の自我が圧迫されて破壊されるという事実を見ない、あるいは自我が様々なことを命令する所有者、主人であるとみなす想をなして、自我のすべては、ことごとくが関係する因縁に従って集合したものにすぎない、という一切の現象の実相を見ない。
ポー・オー・パユットー 仏教辞典《仏法篇》

この自我に結びつける。
なんかこの辺なんですね。
子どもと親の心の距離って近いなとか感じるんです。

子どもへの執着心みたいなものって、皆様ご自身で感じたりしますでしょうか?
私は毎日のようによく感じますね。

子どもを育てている親が子どもに執着することは、たぶん世間的には普通のことだと思います。

子どもって可愛いですもんね🤭

でもだんだんと成長するに従って、可愛いだけではなくなっていきますけど、、
改めまして、

赤ちゃんの時。まさにお腹にいるときなんかは、母と子は一体のような感じがありますよね。生まれると、別の生命、に分けられた、という感じもありますね〜。
お腹の中にいる時から、本当は別の生命ではあるのですが、、
身体の距離が近いと心の距離も近い感覚が私はあるんですね。感覚です。

さて、その赤ちゃんが、だんだんと成長するに従って、身体がだんだんと離れていきますね。
最初は抱っこされていることが多かった子が、ハイハイできるようになり、よちよち歩けるようになり、しっかり歩けるようになり、走れるようになり。

心はどうでしょうか。

身体が離れていくに従って、心もたぶんですけど、だんだんと離れることが多くなっていくのでしょうと思います。
それは、心配する、ということが必要なくなっていくことでもあるんだと思います。

赤ちゃんの時には、能力や分別がありませんから、親が全てを心配してあげないといけないんですね。食事から排泄から何から何まで心配してあげないと、最初はほぼ何もできない状態で生まれてきていますから、放っておくと死んじゃうんです。生きていけないんですね。

そうしている時に、心は子どもにひっついている感じがあるのかな〜。
私の子。
という感覚。かもしれません。

私は私の心に気づかぬままに、子どもに執着しているんだと思います。

それが特に気づかされるとき、は、他の子と接する時の心と、比べたとき、でしょうか。
私の子、には期待している心や思い通りにしたい心を発見することがよくあるのですが、他の子にはそのような期待している心などはあまりないのです。

そこで気づかされるんですね。

ああ、やっぱり私は私のことが一番スキなんだなって😂私の子だから執着するんですね。

もしかしたら、この子どもへの執着心は、子どもにとってはあまりよくないことなのかもしれないなと思うのです。
でも、それでもどうしようもないことでもあります。
私自身が私自身に執着している限りは多かれ少なかれ執着はある。
と、そう思うからです。

そこで、仏教では、
「仏の子」とか、「仏様から預かった子」
なんて言葉をよく聞ことがあるんです。
これとってもいいなあ〜って、思うんです。

私の子、ではなくて、仏の子、とするんですね。一応。

そうすると、心の距離がちょうど良くなると言いますか?
私はです😊🙏

ひっつく感じが解ける感覚。したりします。
もちろん、日常生活を送っていると、そんな風にできないことも多いのですが、どこかにその「仏様から預かった子」という意識を置いておくのと置いておかないのとでは、違うかな〜って思います。

許せないことが許せたり、します😂

思い通りにしたい思いが弱まったりします。

過度な期待を子どもにすることが減ったりします。

これは自分自身の心を扱う時も、同じだなあと感じています。

自分も人も、そのように心を丁寧にと言いますか?優しくと言いますか?
やはり慈しむ心でしょうかね〜
そのような心で接することは大切だと感じますね。
そうすると慈しみの心って、やっぱり仏様のような心だなあ、って思います。
私としては、真似事ですが、それでもいいとしています。

でも、noteでよく見かける方々は、皆様、本当に子どもを慈しむ心を持っていらっしゃる方が多いんじゃないかなあと感じています。
生命が幸せに生きることを肯定していく気持ちや応援していく気持ちを感じるからかなあと思います。

私は仏様の力をお借りして、
私の子、ではなくて
仏の子、の子育てをさせていただけたらなと思うのです。

心がひっついている感じではなくて、少し距離のあるところから温かく見守る感覚。
これって大事ですよね。
もちろん、身体ははぐはぐしつつ、自分の愛欲も満たしながらかもしれませんが、ほどほどに適度に心の距離を保ってみることも大事かなと思って書いてみた所です。
執着を手放す練習、これって仏道だと思うんですけど、これに子育てってけっこうもってこいな修行だなあなんて勝手に思ったりしています🙏

親御さん方皆様が安穏で幸せでありますように
すべての子どもたちが安穏で幸せでありますように

生きとし生けるものが幸せでありますように

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