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-18℃の精子

私の精子は、冷凍庫に保存されているらしかった。
電話越しに告げられる届かない気色の悪さに、僕自身を呪った。特に悪気はないらしい。
趣味、だそうだ。
食や風景を写真に収めることと同義だという。
僕という人間は昔から人を覚えることが苦手だったし、かと言って、誰かの記憶に残るような人間でもなかった。
そこに保存されている僕という人間像は時の流れとともに薄れ消えていくのではないか、忘れ去られるただの記念なのか。
右から左へと流れる電話の声をよそに、そんな不安を考えていた。
時々、悪夢を見る。
朽ち果てた暗いリビングになにをするわけでもなく突っ立っている。冷蔵庫の唸る声に初めてその存在に気付いた。
元が何色だったかなんて、とうに忘れ去られた冷凍庫の取っ手に手をかけると蓄積した埃の柔らかさが指先に伝わる。
手前に引くと思いのほか軽く、スムーズに開く。
冷たい空気に素足が包まれる。
そこにはいつも、黒く乾燥した赤子が、カビを生やしたように霜を降って眠っている。
呼吸はしていないが、-18℃の中で眠る赤子は泣いているように見えた。
サイレンにも似た泣き声が頭の中で響く。
夢特有のいつもの直感で眼前で眠る胎児が私だと分かる。
慈悲というよりは哀れみに近い感情を抱いた。
脱衣所の鏡の前に立つと、猫背の僕が映る。
僕のような形の、おそらく潰してしまえば命と断ち切れるであろう箇所にそっと、手をかけた。死を覚悟しても身体は少しだけ暖かいらしい。
ふっと一息。不安を押し殺し力いっぱいに両の指に力を込めると親指が頚部にくい込み掠れた声が漏れる。溶けるように、ブルーベリー色に変色する皮膚。あぁ、楽しいことを考えよう。
ブルーベリーは一人じゃ寂しいから、片想いのイチゴも連れてきてあげよう。
食い込む爪から私の中の潔癖が溢れ出し、セシウムの紫炎のように燃えている。
散り散りに霞む視界。頭に霧がかかる。
あぁ、あと少し。ほんとうに、あと少しなんだけどな。
夢から覚めると、テーブルの上で眠る牛の肉のドリップが、時間の経過を物語っている。
室内は、熱気に腐敗臭が混ざっている。
カーテンの隙間から漏れる光が夕刻なのか、夜明けのものなのかわからない。
頭上のスマートフォンを手に取って、眠気まなこに画面を映すも誰からの連絡も届いていなかった。
いつものことだ。
私は今、誰の記憶に残っているのだろうか。
代わり映えのない毎日に不安すらもが埋没していくような感覚を覚えた。

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