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平行世界と私 2023年4月後半くらいのエッセイ

・4月の中頃からTOEICの対策をやっているので日々カツカツです。「一旦家帰ってご飯だけ食べてバイト」→「バイト終わってご飯食べて講義」という余暇がほぼないスケジュールをこなしています。いっそがしっ。

・そんな日々を過ごしているので観たいな~って思っている映画が近所でやらなくなってしまった。仕方がないのでちょっと遠出して映画館に行きました。
「デビッドボウイ ムーンエイジデイドリーム」と「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」を観ました。連続で観るのは初体験でかなり体力的な不安があったけどここを逃すともう観れなくなってなってしまいサブスク登場を祈るしかなくなってしまう。

・大学生料金であることに出発直前になって気づき、金がないことがわかりました。詰みかと思ったのですがおばあちゃんから貰った記念硬貨を使うことで事なきを得ました。支払いが全部記念硬貨なやつ、変な奴すぎる。やめたのか。コレクターを。

・最初に「エブエブ」を最初に観ました。すっごい感動しました。大泣き。これを観たときのちょっと前にやってた「ブラッシュアップライフ」とか見た後に読み終えた「四畳半神話大系」も似た「平行世界モノ」だったのでそれらを鑑賞して思ったことを書きます。


・それぞれの作品で平行世界は「違う選択をした分岐先の世界」で、3作とも「選択」がかなり大きな要素を持ってるなと思いました。人生は選択の連続で、ちょっとした選択もふとしたきっかけで非常に大きな違いを生み出してしまう。

「ブラッシュアップ」は特にそれが顕著で、あーちんが医学研究者やパイロットになるという選択をしたことでこれまでの人生では親友だったなっちやみーぽんと疎遠になってしまうという、「完璧な人生など存在せず、選択によっては取りこぼしてしまうものが絶対出てきてしまう」というのはすごい心に来るものがありました。

・自分の人生にも当然、選択をしなきゃいけないことの連続だし、日々何かを取りこぼしてると思う。
例えばこれを書いているときに大学で献血車が来てて、そこらで係の人が「献血お願いします!」って言ってました。自分はぜひ協力したかったんだけど献血の時間とスケジュールを確認すると、完全に「新入生のためのレポート書き方講座」と被っていました。これは……「選択」だ……っ!

αルート「レポート書き方講座に出席する」……私はレポートを書く方法を学ぶことができ、単位を落とす確率を下げることができるが、私の血がないことで血が不足し、この世の誰かの死のリスクが著しく高くなる。

βルート「献血に協力する」……私の血のおかげで誰かの命が助かるが、現時点で仲のいい先輩がいない私はレポートの書き方を学べず、落単の可能性が高くなり、それによる私の絶望での私の死のリスクが著しく高くなる。

……どちらにせよ命が一つ失われてしまう!
「何かを食べるということは命を頂くということなんだ」というのはよく聞く話だけど、まさか日々生きるだけで死人が発生するとは……。選択って恐ろしい。


・3つの作品に共通するのは他にもあって、それは「どんなに世界が変わっても”私”と”選択”からは逃げられない」ということ。「エブエブ」ではエブリンが突飛な行動をスイッチに様々な可能性から分岐したマルチバースのエブリンと入れ替わるんですけど、どの宇宙のエブリンも間違いなくエブリンでした。劇中で「あなたと結婚しなければ」と選択の部分で恨み言を言ったけど、決して「私」は手放さないというか、人のせいにしてるというか。「四畳半」でも「私」の置かれた状況を基本すべて小津のせいにしてる。平行世界モノに特有の世界への信頼のなさが「私」への絶対性を高めている気がします。

・そして「私」の不動さが際立つと「他者」との関係に直面します。3作では面白いことに、どの平行世界でも同じ人と関係を持っています。「四畳半」だとどの平行世界でも小津と唯一の友達になるし、明石さんと結ばれるし、「エブエブ」では基本世界では役所での関係だったのが、かなり遠くの宇宙では恋人になっているし、「ブラッシュアップ」でもなっちやみーぽんはもちろん、子供のころからの関係がどこかで生きてくるなど、無縁ではないというのが奇妙な共通性を持っているなと思いました。

・我々はなんとなく他者をゲームのNPCみたいに思ってしまい、そう扱ってしまいます。しかし、実際は「私」が「私」であるように、同じ重みを持った存在として他者があります。また、そうであるため他者は「私」と同じように複雑な存在で、互いに理解し合うというのは不可能に近いです。だからこそトラブルを起こしてしまったり、私が想定した他者像と実際の他者の乖離を見てしまってそこにがっかりしたり怒ったりしてしまいます。

では、他者との交わりは絶望しかないのかと言われれば、そうかもしれません。でも、それを知って絶望しっぱなしでも他者がなければ生きていけない私は続くわけで、そこに何かしらの対処が必要なわけです。

その対処とは何か。私は3作を鑑賞して「愛」かな………と思いました。

・「ブラッシュアップ」だと望む来世を叶えるためには徳を積まなければなりません。徳を積むというのに具体的な説明はなかったのですが、あーちんは親へプレゼントを贈ったり、苦手だった中学時代の先生を痴漢冤罪から救ったり、縁のある他者にできる範囲の愛と親切を施します。
これは徳というポイントをゲットするためという面もありますが、記憶を保ったまま人生をやり直すのなら、来世人間になるのを諦めて2000年とかにAmazonの株を買って金持ちになって一人勝ちというのもできたはずです。でもそれをしないであーちんが自然に他者に愛を振りまいたのは、人がひとりでは生きて行けず他者との関係でできる限り愛するのがいいと知っていたからなのかもしれないですね。

また「エブエブ」でも終盤、マルチバースを行き来できる隣人が襲いかかってくるシーンでも、エブリンがその敵と親しかった宇宙の経験を呼び出して、「愛」してやることで無力化するというシーンがありました。


ここにきて「隣人愛」。半径2キロメートルだけが世界だった頃から家から一歩も出ないで地球の裏側の人とお喋りできるようになったのに「隣人愛」。

「愛」か……。概念的によくわからないし、これ以上愛がどうとか述べるのは宗教家かポエマーに任せることにして、このあたりでスマホをペチペチフリック入力するのをやめることとします。

日記なのにめっちゃ間空いた!!!!許せ!


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