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戦国!室町時代・国巡り(1)尾張編


【0】はじめに

尾張国:石高57万石(1598年)

上四郡 春日井郡/丹羽郡/葉栗郡/中島郡
下四郡 知多郡/愛知郡/海東郡/海西郡

(2)年表

1542年 第一次小豆坂の戦い
1544年 加納口の戦い
1546年 織田信長元服
1548年 第二次小豆坂の戦い
1552年 萱津の戦い
1554年 村木砦の戦い
1554年 安食の戦い
1562年 十四条の戦い

【1】斯波武衛家

斯波氏は、鎌倉時代に足利泰氏の長男家氏が陸奥国斯波郡を所領とし、宗家から分かれたのに始まる。
家氏の母は、執権北条氏の有力一門名越氏の出身で、当初は泰氏の正室であった。しかし、兄の名越光時らが嫡流の北条得宗家に反乱を起こしたためか、母は側室に退き、家氏も嫡子から庶子へと改められた。
4代当主高経の代まで足利氏を名乗り、斯波を名乗ることはなかった。
武衛(ぶえい)とは兵衛府の唐名で、代々当主が兵衛府の督(かみ)や佐(すけ)に任ぜられたことに由来する。
また、勘解由小路(かでのこうじ)は洛中の小路の名であるが、武衛家がここに本邸を構えたことから、文献上、「勘解由小路武衛」などと呼ばれ、斯波姓で呼称されることは稀であった。
室町幕府では、三管領家筆頭の家格にある名門として扱われた。


①足利家氏()
②斯波宗家(足利宗家)2代当主
③斯波宗氏(足利宗氏)3代当主
④斯波高経(足利高経)(1305-1367)4代当主
⑤斯波義将(1350-1410;位:1350-1408)5代当主
⑥斯波義重(1371-1418;位:1408-1418)
⑦斯波義淳(1397-1434;位:1418-)
⑧斯波義郷(1410-1436;位:1434-1436)
⑨斯波義健(1435-1452;位:1436-1452)
⑩斯波義敏(1435-1508;位:1452-1459)
⑪斯波義廉(1445-?)
⑫斯波義寛(1457-1513;位:1459-1501)
⑬斯波義達(1486-1569;位:1501-1515)
⑭斯波義統(1513-1554;位:1515-1554)
⑮斯波義銀(1540-1600)

(1)斯波高経

(1305-1367)
宗氏の子。
子に家長、氏経、氏頼、義将、義種
足利尾張守家当主。越前・若狭・越中守護

(2)斯波義将

(1350-1410)
高経の四男。
室は吉良満貞の娘。
子に義重、蜂須賀正秋?、娘(渋川満頼室)、益子(桃井尚儀室)
3代、5代、8代室町幕府管領。越前・越中・信濃守護。斯波氏(武衛家)5代当主。
父の寵愛を受け、幼くして幕府管領に就任。父の失脚とともにその地位を失うが、やがて復権し、政敵の細川頼之を康暦の政変にて失脚させ管領に再任する。およそ30年間にわたって幕府の重鎮として活躍し、斯波氏の最盛期を築いた。
1360年、11歳で元服。
細川清氏が康安の政変で失脚。執事職は空席となっていた。義将は父や佐々木道誉の推薦で執事となる。越前・越中の守護に任ぜられる。
1366年8月、貞治の変において失脚。
1367年7月、父・高経が病死する。その直後に義将は上洛して将軍から正式に赦免された。
1368年2月、幕府に復帰していた桃井直常が越中にて、再び幕府に反抗を始めた。同年、義将は再び越中国守護に還補され、桃井討伐を命じられた。
1369年10月には直常の篭る松倉城を攻略した。
1370年、婦負郡長沢において決戦を挑み、義将は直常の子・直和を敗死させるなど勝利を手にした(長沢の戦い)。
越中平定と桃井追討を成し遂げた義将は諸侯中でもその名声を高め、反頼之派の旗頭となっていく。
1379年2月、一時、越中守護を罷免されるが、短期間で復帰。同年、ついに義将は京極高秀や土岐頼康ら反頼之派の守護大名と糾合し、兵を用いて将軍邸である花の御所を包囲するに至った(御所巻)。
義将は義満に迫って頼之の罷免を求め、自身を管領に再任させた(康暦の政変)。
管領に返り咲いた義将は、管領と政所の機構を整備して権限を強化、春屋妙葩を僧録に任命して禅僧の統括を図るなど義満を補佐し室町幕府の安定に力をつくした。
越中を畠山基国と交換することで越前を取り戻し、弟・義種が加賀国守護に任じられるなど、勢力を拡大した。
1389年、頼之が赦免されると、1391年には義将は管領を辞し、領国の越前へ帰国するが、1392年、頼之が没すると再び幕政に参与し、翌1393年6月には三度目の管領に就任する。
将軍義満が出家すると追従して出家し道将と号して、家督を子の義重に譲った。
1399年、大内義弘が挙兵した応永の乱の討伐に、義重とともに従軍し軍功をあげた。乱後、義重に尾張、遠江の守護職が与えられた。
1408年、義満の死後は、宿老として4代将軍足利義持を補佐する。
1410年、没

(3)斯波義重

(1371-1418)
義将の子。
正室は不明。側室に甲斐教光娘(義郷、持有の母)
子に義淳、義郷、持有。
室町幕府7代管領。越前・尾張・遠江・加賀・信濃守護。斯波氏(武衛家)6代当主。
足利義満・義持の二代に仕え、幕府の宿老として力を振るい、領国の経営にも努めた。
1398年、越前守護に補任、さらに信濃守護も兼ねる。
翌年の応永の乱では父と共に幕府方として参戦し、負傷しながらも武功を挙げた。
翌1400年にその功績から尾張守護に任じられた。
1405年に左兵衛督に進み、同年7月からは幕府管領に任じられ、新たに遠江守護を加えられた。
同年には尾張守護所下津城の別郭として、清洲城を築城。
1408年、義満が没する。
1418年、病没。

(4)斯波義淳

(1397-1434)
義重の子。
義郷、持有は異母弟。
子に義豊。
室町幕府9代、13代管領。越前・尾張・遠江守護。斯波氏(武衛家)7代当主。
1409年、13歳という年少の身でありながら管領に任じられた
1410年に祖父・義将が死去すると管領職を解かれている。
1418年に父が死去したため、越前・尾張・遠江の守護に任ぜられる。
1428年、足利義政が将軍に即位すると、義淳に管領就任を命じたが、義淳はこれを固辞した。しかし、繰り返し説得され、ついには管領就任を受諾した。
4代鎌倉公方足利持氏は京都との対立姿勢を強めていた。
この京都と鎌倉の対立に目をつけたのが持氏の叔父にあたる足利満直であった。満直は陸奥国篠川に屋形を構えて篠川御所と尊称されていたが、持氏に代わって鎌倉公方に成らんとの野心を見せ京都へ接近をはじめる事となる。この義教と満直の接近を憂慮したのが鎌倉では関東管領上杉憲実であり、京都では管領・義淳であった。
憲実は鎌倉は幕府と対決するつもりは無い旨を伝えるために、和睦の使節として鎌倉府の政所執事である二階堂盛秀を派遣する事を管領・義淳を通じて幕府に知らせた。
満直は、那須氏・佐竹氏・白河結城氏など京都扶持衆に対して軍事的行動を起こさぬように誓約した罰状(誓紙)を書かせるまでは、使節と対面しないで欲しいとの希望を伝え、義教もこれに同意した。
一方、義淳は「無条件で関東使節と対面すべき」と主張したため義教と義淳の意見は真っ向から対立した。諸大名も満直を支持したが、義淳は決して意見を変えなかった。
義教は諸大名の意見を採用して、義淳に上洛中の二階堂盛秀に鎌倉の罰状提出を伝えるように指示した。ところが義淳はこの命令を無視した。
義教はこのことを知り激怒した。
しかし、九州において騒乱が起こり、義教もついに折れ、義淳の望み通り無条件で関東使節と対面する事を決意した。
 その後、義淳は管領辞職を上申するようになり、1432年10月、ようやく認められrた。
 夭折した嫡男義豊に代わって異母弟の持有を後嗣に定める。
 1433年、幕府軍による叡山攻めの際には、病に伏しており、その年の12月に亡くなる。危篤の際、持有は後継者にふさわしくないとして、僧籍に入っていたもう1人の弟瑞鳳を還俗させて、斯波義郷として家督を相続させた。

(5)斯波義郷

(1410-1436)
義重の子。
子に義健。
斯波氏(武衛家)8代当主。越前・尾張・遠江の守護職。
母は甲斐教光の娘で甲斐常治は従兄弟にあたる。
瑞鳳と名乗り相国寺の鄂隠和尚の弟子であった。
1433年11月、兄・義淳が重病となると還俗し、斯波氏の家督を継いだ。1434年2月に室町幕府に出仕。越前・尾張・遠江の守護職を継承する。1436年)
9月29日、正親町三条実雅(正親町三条公治の父、義教正室・尹子の兄)宅訪問の帰路、陸橋から馬もろとも転落し、翌30日に死去した、

(6)斯波義健

(1435-1452)
義郷の子。幼名:千代徳丸。
斯波氏(武衛家)の第9代当主。越前・尾張・遠江守護。
1436年、父が落馬して死去したため、2歳で家督を継いだ。
初めは叔父の斯波持有、次いで分家の斯波持種と執事の甲斐常治の後見を受けた。
1441年、駿河守護今川範忠と遠江の所領を巡って争った。
1447年、持種と甲斐常治の対立が発生して、持種に同情する家臣による常治の暗殺未遂事件が起き、8代将軍足利義政が仲裁に乗り出す。
同年、吉良義尚の娘を妻とした。
1451年、前尾張守護代織田郷広が将軍義成の乳母今参局を通して復職を図ったがこれを拒否した(後に郷広は自殺)。
同年11月に元服し、従四位下治部大輔に叙任。
1452年6月、持種の子・斯波義敏を養子とする。9月1日に嗣子がないまま18歳で死去。

(7)斯波義敏

(1435-1508)
斯波(大野)持種の子。義健の養子。
子に義寛、斯波義孝室、寛元、義雄、政敏。
越前・尾張・遠江守護。斯波氏(武衛家)10代当主。
1452年9月、当主の義健が18歳で死去して嗣子が無かったため、一族である大野斯波氏から義敏が家督を継ぐこととなった。
当主の早世が相次いだため、一門筆頭(斯波持種)と家臣筆頭(甲斐常治)の対立が生じていた。そこに分国越前で支配権を掌握する甲斐派を排除したい越前国人と権力回復を目論む義敏が結びつくこととなった。
1457年、長禄合戦が勃発。
1459年、義敏が罷免されると、実子松王丸(後の斯波義寛)が家督を相続するが2年後の1461年松王丸も廃される。
堀越公方執事渋川義鏡の子である斯波義廉がが斯波氏の家督を継承することとなった。
1463年11月、将軍義政は側近の伊勢貞親、季瓊真蘂らの進言を容れ、生母日野重子の逝去に伴い義敏を赦免した。
1466年7月、幕府は義敏を武衛家家督に復し、8月には尾張・遠江・越前3ヶ国の守護に任じた。
義廉は岳父山名宗全を頼り、一色義直・土岐成頼らも義廉に味方する。さらに、同年に伊勢貞親の助言で大内教弘の子政弘が赦免されると、これに反対する細川勝元も貞親に敵対し、同年9月、貞親・真蘂・赤松政則らの失脚(文正の政変)に発展した。1義敏の守護職と家督は剥奪され、再度義廉が任命された。
1467年、応仁の乱の勃発。1468年には家督と3ヶ国守護職が義敏・松王丸父子へ再還付された。
1471年、越前国主の座を見返りに朝倉孝景が東軍へ寝返る。
1485年8月、義政に従って出家、入道道海と号す。
1508年、死去。

(7-2)長禄合戦


(8)斯波義廉

(1445-??)
渋川義鏡の子。
曾祖母が斯波義将の娘であった。
越前・尾張・遠江守護。
1459年、斯波氏当主であった斯波義敏が罷免されると、実子松王丸(後の斯波義寛)が家督を相続する。だが2年後の1461年松王丸も廃され、義廉が斯波氏の家督を継承することとなった。
この家督相続には、軍事力不足だった堀越公方足利政知(義政の異母兄)の要請に義政が応じ、政知の執事・(であり、斯波氏当主の実父である)渋川義鏡が斯波軍を動員することができるようとの企図と言われている。しかし、幕府方の上杉持朝と渋川義鏡が政争を起こし、持朝重臣の三浦時高・千葉実胤・太田道真らが隠居する事態となって、義政は義鏡を失脚させる。さらに1463年11月、義政生母日野重子の死去にともなう大赦で斯波義敏・松王丸父子が赦免され、養子当主の義廉の立場は悪化した。
 義敏は復帰工作をはじめ、義政側近の政所執事伊勢貞親や季瓊真蘂の画策もあり、1466年7月義廉は幕府への出仕を停止させられ、8月には3か国の守護返還を命じられた。
 しかし、義廉も山名宗全・畠山義就と手を組んでおり、義敏は貞親・真蘂・赤松政則らとともに文正の政変によって失脚し、守護職は義廉に戻された。
義廉は義就の軍事力を背景に畠山政長を管領の座から追い落としてその後任に就いた。
1467年、応仁の乱の勃発。義廉は翌1468年7月には管領職・3か国守護職を剥奪されたが、西軍内ではなおもその地位に留まっており、西軍の主力を担った。
しかし1471年に有力家臣の一人である朝倉孝景が越前に下向した後、東軍に属し、1475年に甲斐敏光も東軍に帰順して孤立した。
同年11月、尾張守護代の織田敏広を頼って尾張に下国し、東軍に与した義敏・義寛父子と織田敏定らの勢力を一時同国から駆逐する。しかし義敏・義寛父子の盛り返しにより、1478年に敏広が守護代を更迭され、敏定が新たな守護代に任じられると、幕府から「凶徒」と断じられ、尾張での支持勢力を失った。
その後の消息は明らかでない。

(9)斯波義寛

(1457-1513)しば よしひろ
義敏の子。幼名:松王丸。初名は義良。
治部大輔、左兵衛佐、左兵衛督。
室は一色義直娘
子に義達、娘(足利義澄室)、娘(村上顕国室)。
尾張・越前・遠江守護。斯波氏(武衛家)12代当主。
1459年8月、父が越前・遠江守護代甲斐常治との対立で将軍義政の怒りに触れ、隠退すると、甲斐氏らにより擁立され、僅か3歳の松王丸が家督と3ヶ国守護職を継いだ。
ところが1461年8月に義政から当主の座を廃されると、松王丸は相国寺の季瓊真蘂に稚児として預けられ、1463年11月に出家させられ宗成と名乗った。次の当主には遠縁にあたる渋川義鏡の子義廉が選ばれた。
1466年7月、父が義政から赦免され武衛家当主として復権すると、松王丸もそれに伴い還俗した。しかし間もなく文正の政変が起こると、父と伊勢貞親・季瓊真蘂らと共に再び失脚し、家督は義廉に戻されてしまう。
1467年1月、京都に残っていた松王丸は祖父斯波持種及び叔父の竹王丸とともに義廉によって襲撃され、京都を脱出して尾張国に逃れた。
 応仁の乱では一貫して東軍に属す。1468年には家督と3ヶ国守護職が義敏・松王丸父子へ再還付された。
 1472年12月、元服。
 1475年、9代将軍足利義尚に謁見し、遠江守護代となった甲斐敏光と共に遠江に下向して同国侵攻を続けていた駿河守護今川義忠の軍勢と対陣、翌年塩買坂で義忠を敗死させる。
 次に西軍から東軍へ寝返り越前を得た朝倉孝景に目を向ける。
 1479年閏9月、叔父の斯波義孝(竹王丸)、甲斐敏光、二宮氏ら重臣を引き連れて京都から越前に向けて進発し、越前北部の坂井郡の細呂宜・長崎・金津で朝倉孝景と交戦した。
 孝景の没後も1481年まで越前で合戦を繰り広げるが、9月15日の合戦で孝景の嫡男・氏景ら朝倉方に完敗し加賀に没落、越前復旧は失敗する。
 1483年3月に尾張清洲城に入城、ここを守護所と定め、織田敏定を尾張守護代、甲斐敏光を遠江守護代にそれぞれ任じた。
 1485年、将軍義尚より改めて偏諱を賜り、『義寛』と名乗る。また、出家していた父の跡を継いで名実共に武衛家当主となった。
 1487年、将軍義尚による近江守護・六角高頼攻め(長享・延徳の乱)が起こると、同年9月に尾張守護代である大和守敏定、伊勢守寛広ら両織田一族以下8000の大軍を率いて幕府軍に参陣し、副将軍としてその主力となった。
 1491年、義尚の後を継いだ10代将軍足利義材(義稙)によって再び六角征伐が行われると、義寛はまたも大軍を率いて参陣。
 1493年、明応の政変。赤松政則の仲介で細川政元に降伏。義材と親密であた義寛には大きな打撃であり、斯波氏没落のきっかけとなった。
 1494年には細川政元と連携関係にあった駿河守護・今川氏親が義寛が遠江に侵攻を開始。さらに1495年に隣国美濃で船田合戦が勃発。遠江出陣は不可能な状態となる。また同年には若年時から義寛を支えてきた執権の織田敏定が没し、敏定の跡を継いだ寛定もまもなく船田合戦中に戦死してしまう。
 1500年頃、信濃守護・小笠原貞朝、関東管領・上杉顕定にも協力を呼びかけ、今川氏親を東西から挟撃しようと目論む。
 1511年、子の義達が家督を継ぎ、1513年、死去。

(10)斯波義達

(1486-1569)
義寛の子。義達→義敦。官位:治部大輔、左兵衛佐。
母は一色義直の娘。
子に 義統、義景、統雅、統銀、今川氏豊室
尾張・遠江守護。斯波氏(武衛家)13代当主
斯波氏は戦国時代に入ると越前を家臣の朝倉氏に奪われるなど衰退の兆しが現れたが、それでも尾張・遠江の東海2ヶ国を支配する守護大名であった。しかし、隣国の駿河守護・今川氏親が遠江を狙って盛んに侵攻を始めてくるようになった。
1486年(文明18年):尾張守護である斯波義寛の嫡男として誕生する。
1501年(文亀元年)頃:家督を継ぐ。
1507年(永正4年)永正の錯乱。細川政元が暗殺されて政元の3人の養子の間で細川家が分裂状態。翌年には政元に廃位させられた将軍足利義尹(義稙)が将軍職に復帰。義尹は今川氏を遠江守護に任じる。
1510年(永正7年):遠江奪還のため、今川氏と争う
1513年(永正10年):今川氏に大敗する
1513年(永正10年):反旗を翻した尾張守護代・織田達定を破り、自刃に追い込む。
1515年(永正12年)8月:今川氏に再度大敗する。自身が捕虜となり、剃髪された上で送り返されるという恥辱を受ける。
1516年(永正13年)頃、諱を「義敦」と改める。

(11)斯波義統

(1513-1554)しば よしむね
義達の子。初名は義元。官位:左兵衛佐、治部大輔。
室は 石橋房義の娘。
子に義銀、毛利秀頼、津川義冬、蜂屋謙入、了妙尼(願得寺顕悟室)、女(吉良義安室)。
斯波氏(武衛家)14代当主。
1515年8月、引馬城における今川勢との合戦で、父・義達は自身が捕虜になるほどの大敗を喫し、剃髪をさせられた上で尾張に送り返される屈辱を受けた。帰国後の義達は実質的な引退に追い込まれて失意の晩年を過ごすこととなり、これに代わってわずか3歳の義統が新たな尾張の国主となった。
 このような状況から義達によって一時弱体化させられていた織田氏は勢力を回復していくことになった。
守護代である織田一族は、「伊勢守家」(岩倉織田氏)と「大和守家」(清洲織田氏)に分裂していたが、加えて津島経済を掌握する織田氏分家の弾正忠家(大和守家の家臣)の台頭が目覚しく、尾張国は群雄割拠の状態にあった。
 達勝・信友としては、大和守家こそが織田家の宗家であることを示す意味で義統を擁したと考えられる。
 義統は名目上は自らの「家臣」である弾正忠家の信秀が、その勢力を美濃国や三河国など、尾張の国内外に拡大させる事には賛意を示し、1544年に信秀が美濃へ進攻する際には、尾張国中に信秀への協力を命じて、本来なら弾正忠家よりも格上にあたる伊勢守家や、同輩の因幡守家を美濃進攻軍として動員させるなど、信秀に対して篤い支援を行った。
しかし大和守家の信友としては、義統が弾正忠家の信秀に接近することを快く思わず、義統としても自身を傀儡として扱う信友に不満を見せはじめたため、次第に両者の対立が深まっていった。
1554年、義統は、信友が弾正忠家の織田信長を謀殺する計画を企てたとき、信長にその計画を密告して自身の助けを求めた。しかしそれを知った信友は激怒し、同年7月義統嫡男の斯波義銀が屈強な家臣を率いて川狩りに出かけた隙を突いて、小守護代・坂井大膳をはじめとして、腹心の織田三位、河尻左馬助、川原兵助らとともに守護邸に攻め入った。
義統方も奮戦したが衆寡敵せず、自害して果てた。

(12)斯波義銀

(1540-1600)しば よしかね
義統の子。幼名:岩竜丸、法号:三松軒。
織田氏に服属後は津川義近を名乗る。
子に義康(大蔵?)、津川近利、津川辰珍、津川近治、女子(織田信重室)
父・義統が守護代・織田信友に討たれると、織田信長の元へ落ち延び、信長に信友を討たせた。以後、義銀は信長の庇護下に入る。
 やがて、義銀も、斯波氏の権勢を取り戻そうと吉良氏と結んで信長の追放を画策するようになった。義銀は足利御一門の石橋忠義、吉良義昭、今川義元、尾張海西郡の国人・服部友貞と通じ、今川の軍勢を海上から引き入れようとした。この密議は信長に知られるところとなり、義銀は尾張を追放された。
その後は同じ三職家の一つであった河内国の畠山高政の庇護の下に入り、のちに信長と和解し、その際に名を津川義近と改めた。1571年までには尾張へ帰国。
秀吉政権の下では足利義昭や山名豊国とともに御伽衆となり、1585年には公家成が認められた。

(13)一族

斯波持有
(1414-1440)しばもちあり
斯波義教(初め義重)の三男。初名は持輔。
母は甲斐教光の娘。

斯波寛元
(?-?)しば ひろもと
斯波義敏の子。通称:弥三郎。官位:中務少輔。
義敏の子。
兄・義寛の部将として兄弟の義雄と共に各地を転戦する。越前国坂北郡で討死したと伝わる。

斯波義雄
(?-?)しば よしかつ
斯波義敏の子。
子は義虎。
遠江国二俣城主、杜山城主。遠江守護代。
文亀年間に遠江侵攻の激しくなった今川氏の押さえとして杜山城に入城。今川勢と対峙したが、敗れて二俣城に退いた。

斯波義虎
(1511~1554)しば よしとら
斯波義雄の子。
1554年7月、守護代の織田信友が斯波氏に対して謀反を起こすと、義統や他の一族とともに自害した。

斯波統雅
(1524-1554)
斯波義達の子。別名:孫太郎。
1554年7月、守護代の織田信友が斯波氏に対して謀反を起こすと、義統や他の一族とともに自害した。

斯波長秀(毛利秀頼)
(1541-1593)しなばがひで(もうりひでより)
義統の次男。
子に秀秋。

斯波秀秋(毛利秀秋)
(1565~1615)しばひであき(もうりひであき)
長秀の子。別名:毛利秀秋

蜂屋謙入
(??-1593)はちやけんにゅう
義統の子。
1584年、弟・津川義冬が主君・織田信雄によって殺害された際、津川義近とともに伊勢松ヶ島城に立て籠もって信雄の軍と戦う。その後、秀吉に仕える。
1589年3月、聚楽第落書き事件で捕縛される。

斯波義冬(津川義冬)
(1543-1584)
義統の子。義永とも。通称:玄蕃允。
室は北畠具教の娘。
織田信長に仕え、後に信長の次男・信雄の家老に任じられた。
羽柴秀吉に寝返ったとの噂を信じた信雄に殺害される。それを契機に事態は小牧・長久手の戦いへと発展する。

斯波義康(津川義康
( ??-??)
義銀の長子。別名:津川義康、羽柴義康

津川近利
(1582-1642)つがわちかとし
義銀の次男。法号は休閑。

津川辰珍
(1583-1658)つがわ たつうず
義銀の三男。通称:四郎右衛門。
尾池義辰から偏諱を受ける。
小倉藩主細川氏に仕えた。始め客分として1000石で招かれ、細川氏が肥後54万石に加転封となると250石の加増を受けた。

津川近治
(??-1615)つがわちかはる
義銀の四男。
豊臣秀吉・秀頼に馬印奉行として仕えた。
大坂の役で豊臣秀頼側に付き大坂城本丸を守り、大坂城で討ち死にとも自刃とも。

牧長義
(?-?)
斯波義統の弟・津川義長(義冬?)の子。
室は織田信定の娘(長栄寺殿)、岡田時常の娘。
子に牧長清、牧長正(長治)。

牧長清
()
牧長義の子。真木与十郎
正室:織田信秀の娘・小林殿
織田信秀に仕える。

牧長正(長治)
()
牧長義の子。真木宗十郎
織田信秀に仕える。

[2]大野斯波家

斯波義種

斯波満種

斯波持種
(1413-1475)

斯波義孝
(1454-)
持種の子。
子は義縁、義信。
大野斯波氏当主。

斯波義縁

斯波義信

(14)斯波氏庶流

奥田氏(堀氏):斯波義敏の子・斯波三郎政敏の子・秀種が奥田直種の養子となった。奥田氏は大野斯波家の斯波満種の三男・源三郎氏種が初代であり、直種は奥田氏三代目である。奥田秀種の子が奥田直純であり、その息子の三右衛門政次は従兄弟の堀秀政と共に信長に仕え、堀姓を賜り「堀直政」と名を改めた、
牧氏
千福氏

柴田氏:始祖の柴田修理大夫義勝は越後国柴田の人。また尾張国愛知郡一色城を本拠とした柴田源六勝重(-1503)がいる。織田信長の臣・柴田勝家はその子孫である。
吉田氏

奥田氏種
奥田直種

奥田秀種
奥田直純
奥田政次(堀直政)

柴田勝重

(15)斯波氏の家臣

初期は、完草氏(鹿草・莞草とも)を筆頭とし、二宮氏、島田氏、甲斐氏
中期は、甲斐氏が筆頭、次いで織田氏、その下に朝倉氏
末期は、織田氏が筆頭となった。

簗田政綱(出羽守)尾張簗田家
簗田広正(左衛門太郎)


【2】織田伊勢守家(守護代家)

守護斯波氏に仕える尾張守護代織田家の嫡流。織田伊勢守家と呼ばれる。
岩倉織田氏。

織田常松(教信)(?-1428?;在:1402-1428)
織田教長(朝長、淳広)(?-?;在:1429-?)常松の子
織田郷広(?-1451;在:?-1441)常松の子
織田敏広(久広)(?-1481; 在:1441-1481)郷広の子
織田寛広(?-?;在:1481-1504)広近の子
織田広高(?-?;在:)寛広の子。
織田信安(?-1591;在:?-1558)大和守家からの養子。
織田信賢(?-?;在:1558-1559)信安の子。

(1)織田常松(教信)

(?-1428?;在1402-1428)
藤原兵庫助将広の子。官位: 伊勢守。重広→教広(斯波義教から偏諱)。
子に教長、郷広。
尾張国守護代。
1402年頃、尾張守護・斯波義教が尾張守護代・甲斐将教(祐徳)を更迭し、織田伊勢守入道常松を新たな守護代に任じ、以後織田氏が尾張の守護代職を世襲するようになった。

(2)織田教長(淳広)

(?-?;在:1429-?)
教信の子。初名は朝長。1431年に淳広に改名か?
1429年から守護代として活動。

(3)織田郷広

(?-1451、在:?-1441)
教信の子。(斯波義郷から偏諱)
子に 敏広、広近、広遠。
1441年、寺社領・本所領を横領したため逐電した。
1450年、将軍・足利義政の乳母・今参局に働きかけ、義政より赦免の内諾を得る。しかし、甲斐常治の意を受けた義政の生母・日野重子がこれに怒り、義政が赦免を反故にしてしまう。
翌年、甲斐常治に派遣された敏広らによって、越前国にて自害に追いやられる。

(4)織田敏広(久広)

(-1481)
郷広の嫡男。官位は兵庫助、伊勢守。
室は斎藤妙椿養女。
子に広高。養子に織田寛広(広近の子)。
1441年、父・郷広が逐電したため守護代となる。
1450年、主家・斯波氏に命じられ、越前国で郷広を自刃に追い込む。
1467年、応仁の乱が起こると管領・尾張守護である斯波義廉と共に西軍に属し、斯波義敏を擁立して東軍に属した分家の織田大和守家当主・織田敏定と対立する。
1475年11月、京都から主君・義廉を伴って尾張へ下国し、尾張中島郡にある尾張守護所の下津城に入城した。
1476年、岳父である美濃国の斎藤妙椿の協力を得て清洲方と戦うが敗れた。この際に下津城は落城したため、山田郡の国府宮へと逃れた。しかし、後に敏広が巻き返して、大和守家の勢力を尾張から一時的に追放する。
1478年、室町幕府は敏広を更迭し、新たな尾張守護代に敏定を任じる。
同年10月12日、尾張に下向した敏定に尾張春日井郡にある新たに守護所が置かれた居城清洲城を奪取された。
同年12月、再び妙椿の後ろ盾を得て、敏広は清洲城奪還を試みる。
敏定と戦って清洲城を囲むが、再三の幕府の介入で清洲城を断念して清洲方と和睦した。これにより、尾張を分割することになり、後に尾張上四郡(春日井郡、丹羽郡、葉栗郡、中島郡)を支配する守護代となっている。
1479年、美濃に近い尾張丹羽郡に岩倉城を築城し、岩倉城を居城とした。
1481年3月、大和守家との和睦が崩れ、清洲方と戦って敗れた後に病死した。

(5)織田寛広

(?-?)おだ とおひろ
広近の子。官位:兵庫助、伊勢守。幼名:千代夜叉丸。
尾張国上四郡守護代。岩倉城主。
養子に広高。
木ノ下城(後の犬山城)主・織田広近の子。
1481年3月、養父・敏広の死後に家督を継いで岩倉城主となる。
1481年7月、父・広近と共に守護の斯波義寛に帰順。
1481年8月、父と共に清洲城主の尾張下四郡守護代「織田大和守家」当主の織田敏定と上洛して、8代将軍・足利義政に尾張平穏の報告も兼ねて貢物を献上。
1487年にも上洛、足利義尚による六角高頼征伐に参陣した斯波義寛に敏定と共に従軍した(長享の乱)。
1494年、土岐氏の家督争いである船田合戦が起こると、斎藤妙純方に付いた。大和守家の敏定・寛定父子が石丸利光方に付いたことや、寛広は養父の代に斎藤氏と縁戚関係を結んでいたためである。
1495年6月、斎藤方の援軍として敏定らと戦って破る。同年、弟の織田寛近(津田武永)と共に石丸利光を攻めた。
1496年12月7日、妙純が近江国で戦死したため、斎藤氏の後ろ盾を失い織田伊勢守家は衰退する。

(6)織田広高

(?-?)
敏広の子。養子に信安。
1537年頃、記録アリ。

(7)織田信安

(1502??-1591)おだのぶやす
正室:秋悦院(織田信定娘)。
織田大和守家・織田敏信の子。
子に信賢、信家、剛可正仲、津田正盛。
1553年、家老の稲田大炊助に信長と内応している疑いが生じたため、殺害。
1556年、稲生の戦いでは、信長の弟である末森城主・織田信勝(信行)に味方し、信長と敵対した。
1558年、長男・信賢を廃し、次男・信家を後継にしようとしたため、かえって信賢により追放される。
斎藤義龍の家臣となり、義龍の死後もその子・龍興にも仕えた。
美濃斎藤氏が滅亡すると京都に逃れる。その後、信長より罪を許され美濃白銀に所領を与えられる。
1591年、死去。

(8)織田信賢

(?-?)おだ のぶかた
官位:伊勢守。岩倉城主。
末森城主・織田信勝、美濃国の斎藤義龍らと結んで、敵対関係にあった清洲三奉行の一家「織田弾正忠家」の織田信長に対抗するが、1558年、浮野の戦いで信長に敗れ、1559年、居城岩倉城も包囲される。数ヶ月の篭城戦ののちに信賢は降伏し、追放処分となった。

(9)一族

織田広近
(?-1491)おだひろちか
織田郷広の子。幼名:千代夜叉丸
子に 寛広、津田武永、広忠
1459年、尾張国丹羽郡小口に小口城を築城し、居城とした。
1469年、尾張丹羽郡に木ノ下城(犬山城)を築城し、小口城から移った。

織田広遠
(?-?)
郷広の子。通称:紀伊守。
1495年、寛広に従い美濃遠征。

津田武永
(?-?)つだ たけなが
広近の子。通称:遠江守
子に娘(岡田時常室)
尾張国小口城主、川村北城主。
1475年、父・広近の隠居により家督を継ぐ。
1487年から斯波義寛に従い、六角高頼征伐(長享・延徳の乱)に出兵した。
1495年、船田合戦では兄・寛広、叔父の織田紀伊守広遠らと共に美濃に出兵、石丸利光を攻めるが、「織田大和守家」当主・織田敏定が布陣中、死亡したことを知り尾張に引き返し、弟・広忠に加勢し寛定を討ち取った。
1544年8月、弾正忠家当主・織田信秀の要請で援軍を送る。
男児がおらず、川村北城を娘婿の岡田伊勢守時常に譲った。
1547年7月頃、出家。

織田広忠
(?-?)
広近の子。与三郎。

織田信家
(?-1582)
信安の子。
子に広長。官位:因幡守。
父・信安が兄・信賢を廃嫡し、信家に家督を継がせようとしたため家督争いが起き、結果、信賢により、父の信安と共に信家は尾張から追放された。
父は美濃斎藤氏に仕え、織田信長に抵抗したが、後に信長に罪を許された。この際に信家は信長の嫡男織田信忠付きの家臣となった。
1582年、信長の甲州征伐に従うが、信濃国高遠城攻略の際に武田方に討ち取られた。

津田正盛
(1583-1661)つだまさもり
織田信安の四男。
子に信明。

(10)家臣

織田信有()岩倉織田氏の四家老の一。信安の弟。七郎左衛門
織田源左衛門()岩倉一門家老衆、軍奉行。
織田広泰()
織田広久()
織田広成()

【2】山内氏
丹波山内氏11代目の山内久豊が嫡男の盛豊とともに丹波を出て尾張に赴き、羽栗郡黒田の郷侍となり岩倉織田氏に仕えた。

山内久豊()
山内盛豊 (1510-1557)岩倉織田氏の四家老の一。尾張黒田城代。
山内一豊()盛豊の子。
山内康豊()盛豊の子。

山内久豊
()

山内盛豊
()
久豊の子。通称:猪之助
岩倉織田氏の家老。

【3】高田氏

高田広知()
高田左京進()

【4】前野氏

前野時綱()四代目当主
前野時基()五代目当主
前野宗氏(-1336)六代目当主
前野宗義(1300-1373)
前野高康(1350-1418)
前野綱宗(1391-1443)
前野守久()
前野時正(1425-1484)
前野長義(1447-1512)時正の嫡男。
前野正義(1489-1556)長義の嫡男。
前野宗康(1489-1560)長義の次男。
坪内忠勝(1502-1569)前野長義の三男。坪内昌家の養子。別名:前野時氏
前野義高(1504-1561) 前野長義の四男。
前野宗吉(1526-1593)宗康の子。別名:小坂雄吉
前野長康(1528-1595)宗康の子。別名:坪内光景
前野勝長(??-1585) 宗康の子。坪内忠勝の養子。別名:坪内勝長
前野為定()坪内忠勝の子。
前野自勝()坪内忠勝の子。
前野忠康(1560-1600)坪内忠勝の子。長康の養子。
前野義康(1530-1609)義高の二男。
前野義詮(?-?)義高の三男。
前野則義(?-1699)義高の子。
前野景定(1566-1595)長康の子。

前野時綱
()
四代目当主

前野時基
()
五代目当主

前野宗氏
(-1336)

前野宗義
(1300-1373)
宗氏の嫡男

前野高康
(1350-1418)
通称:小次郎兵衛
子に綱宗、守久、成住
前野家八代目当主。織田常松に仕える。

前野綱宗
(1391-1443)
高康の嫡男。通称:四郎兵衛
子に時正。
前野家九代目当主。下津城主織田敏広に仕える。

前野時正
(1425-1484)まえのときまさ
綱宗の子。
前野家十代目当主。
織田伊勢守家(岩倉織田家)に仕える

前野長義
(1447-1512)まえのながよし
時正の嫡男。通称:小二郎
子に 前野正義、前野宗康、前野時氏、前野義高、坪内勝定室。
前野家十一代目当主。
織田伊勢守家(岩倉織田家、織田敏信)に仕え、織田信有(六/七郎左衛門、織田信安弟)・稲田修理亮と並び、岩倉三奉行と称された。軍奉行。
1487年9月、足利義尚による第一次六角征伐(長享の乱・鈎の陣)の際には、主君敏信の元で斯波義寛軍に従軍して上洛し、六角行高軍と戦って武功を挙げた。
1491年8月、室足利義材による第二次六角征伐(延徳の乱)の際には、主君の命令で大和守家当主織田敏定に従って斯波義寛軍に従軍・遠征し、武功を挙げた。

前野正義
(1489-1556)まえのまさよし
長義の嫡男。通称:五郎九郎
子に阿久以(森正久室)。
前野家十二代目当主。川並衆に属する。
齋藤義龍による美濃明智城攻めの際、援軍を送る余裕のない織田信長は、犬山織田家の織田信清に救援を要請する。この時正義は、生駒家長(小折城)、中島左衛門尉(小口城)、坪内衆(松倉城)、川並衆の蜂須賀正勝・前野長康、婿の森正久らとともに援軍として差し向けられたが、それらは総勢僅か300余騎だった。この戦いで正義は討ち死。

前野宗康
(1489-1560)まえのむねやす
長義の次男。
子に小坂雄吉(前野宗吉)、前野長康、津弥(稲田植元室)、前野勝長、前野康宗、前野康宗。
前野家十三代目当主。
織田伊勢守家(岩倉織田家、織田信安)に仕え、軍奉行。
1547年、加納口の戦いでは、川並衆らとともに織田信康旗下の最前線に配置され、七曲口を攻めた。
1556年、犬山織田家の援軍として明智城に出陣した兄の前野正義が討ち死にし、前野家の当主となった。
1558年、織田信賢・織田信有らが共謀して信安の追放を謀ると、宗康は信安の身を案じて隠居を献言した。
1559年、織田信長軍が岩倉城へ迫ると、一族郎党率い岩倉城に籠城した。重臣による軍議の際、降伏に反対する織田一門家老の織田信有との対立の末、降伏を諦め最後まで籠城した。このとき、三男の前野勝長や山内一豊らに信賢を城外に脱出させた。

坪内忠勝(前野時氏
(1502-1569)つぼうちただかつ
前野長義の三男。坪内昌家の養子。別名:前野時氏。通称:又五郎。
子に於弥(前野為定室)、前野自勝、前野忠康
養子に前野為定(坪内頼定の子)、坪内勝長(前野宗康の子)、前野時之(山内實通の子)。
1547年9月、加納口の戦いで戦功を挙げ、この戦いで討ち死にした坪内広綱の父である坪内昌家の養子となり、かつての昌家・広綱の居城であった尾張国野府城の城代となる。

前野義高
(1504-1561)まえのよしたか
前野長義の四男。通称:長兵衛
子に 前野長右衛門、前野義康、前野義詮、前野則義、前野五左衛門、土方信治室。
織田信長の弓衆。
元服後は織田家に仕えて幾つもの戦場を駆け抜け、侍大将に取り立てられ、弓衆となる。
桶狭間の戦い後、勝利の勢いに乗って三河国・梅ヶ坪城を攻めた際、奮戦するも討死した。

前野宗吉(小坂雄吉)
(1526-1593)まえのむねよし(おざかかつよし)
宗康の子。別名:小坂雄吉

前野長康(坪内光景)
(1528-1595)まえのながやす
宗康の子。坪内勝定の養子。別名:坪内光景
室は坪内勝定の娘。
子に 刀弥、加弥(前野忠康室)、景定、辰(豊臣秀次側室)、養子に前野忠康(前野忠勝の子)
騎乗の才能を認められて織田信長から駒右衛門という名を賜った。

前野勝長
(?-1585)まえのかつなが
宗康の子。坪内忠勝の養子。別名:坪内勝長
小豆坂の戦いや桶狭間の戦いで活躍した後に佐々成政の家臣となった。
成政とともに越中に攻め入った際、井波城主となり1万5000石を領した。その後、成政の命で越中魚津城・松倉城を攻め落とす(魚津城合戦)。
1584年、成政と前田利家が争った時、朝日山城の戦いや末森城攻めなどで軍功を挙げる(朝日山城の戦い・末森城の戦い)。家老職に任じられるが、病気のため越中新川郡にて没。戦死とも伝わる。

前野為定

前野自勝(坪内宗高)
(?ー?)

前野忠康
(1560-1601)

前野義康
(1530-1609)
義高の二男。通称:喜左衛門。
織田信雄に仕え、信雄家老で従兄弟の小坂雄吉の奉行役となる。
小牧・長久手の戦いの際には、織田・徳川連合軍側について最前線の砦である五丁堀砦を手勢300名で守る。

前野義詮
(?-?)まえのよしまさ
義高の三男。前野清助。
棒術の使い手。小坂雄吉(前野宗吉)の弟子。
出石城家老にまで出世した。長康が秀次事件で連座切腹となった際には、追い腹を禁じられ、京都・伏見の六漢寺にて長康が切腹する際の介錯を務めた。前野姓をはばかり野田義詮を名乗った。その後、浪人ののちに出家して常円と称す。

前野則義
(?-1600)まえののりよし
義高の子。通称:九郎兵衛
棒術の使い手。小坂雄吉(前野宗吉)の弟子。
前野長康に仕える。
関ヶ原の戦いの際には西軍につき、前哨戦である合渡川の戦いで前野忠康隊の一員として戦い、奮戦したが最期は戦死した。

前野景定

【5】堀尾氏
堀尾泰政()丹羽郡・御供所。織田家家老。
堀尾泰晴(1517-1599) 岩倉織田氏の四家老の一。泰政の長男。
堀尾方泰()泰政の次男。
堀尾吉晴(1543-1611)泰晴の子。

堀尾泰政
()

堀尾泰晴
(1517-1599)ほりおやすはる
泰政の長男、別名:忠助。
岩倉織田氏の四家老の一。 

堀尾吉晴
(1543-1611)ほりおよしはる
泰晴の子。
豊臣政権三中老の1人。
羽柴秀吉の家臣:別記事参照。

【6】稲田氏
稲田修理亮()
稲田貞祐(-1553)稲田修理亮の子。別名:稲田大炊助。
稲田景元(1521-1553)貞祐の嫡男。
稲田景継(?-1558)貞祐の二男。
稲田植元(1545-1628)貞祐の三男。
稲田吉勝()貞祐の四男。
稲田示稙(1570-1650)植元の子

稲田修理亮

稲田貞祐
(1521-1553)

稲田景継
(?-1558)

稲田景元

稲田植元
(1545-1628)いなだたねもと

稲田吉勝
()

稲田示稙
(1570-1650)いなだしげたね

【3】織田大和守家

尾張守護代である織田伊勢守家の傍流。織田大和守家と呼ばれる。
清州織田氏。

織田常竹()
織田久長()
織田敏定(1452-1495)久長の子
織田寛定()敏定の子
織田寛村()敏定の子
織田達定
織田達勝
織田信友

(1)織田常竹

()
藤原兵庫助将広の子。官位:左京亮、出雲守。
子に 勝久、久長。
兄・常松に代わり下津城で又守護代として在地支配をしていた。

(2)織田久長

()
常竹の子。通称は弾正左衛門。官位:大和守、近江守、兵庫助。法名:常祐。
正室は朝倉教景娘。
子に敏定、常寛、達広、良信、敏信。
楽田城主。
1504年、尾張丹羽郡に楽田城を築城し、居城とした

(3)織田敏定

(1452-1495)おだ としさだ
久長の子。
子に寛定、寛村、敏宗、秀敏
1467年(応仁元年):応仁の乱が起きると、先代の尾張守護・斯波義敏と共に東軍に属した。そのため、西軍に属した「織田伊勢守家」出身の守護代である織田敏広と対立した。
1476年(文明8年)11月:尾張中島郡にある尾張守護所の下津城を攻め、織田敏広とその岳父である美濃国の斎藤妙椿ら岩倉方と戦い、勝利を収めた。
1478年(文明10年)9月9日:応仁の乱が東軍の勝利に終わると、敏定は室町幕府から尾張守護代に任じられる。「凶徒退治」を下命され、これによって敵方であった美濃守護の土岐成頼・斎藤妙椿らの援助を受け、新たに守護所が置かれた清洲城に入城した。
同年12月:織田敏広は清洲城を攻撃し、斎藤妙椿が敏広援護に乗り出してきたため形勢は逆転した。清洲城は一時的に炎上し、敏定は山田郡の山田庄に敗走。敏定はこの戦いで右目に矢を受ける。
1479年(文明11年)1月19日:斎藤妙椿の仲介で両軍は尾張を分割統治することで和睦。
1481年(文明13年)3月:和睦が破れ、伊勢守家と再び争う。その後、織田敏広が死去。
敏広の後を継いだ養子(甥)の織田寛広、敏広の弟・広近らが斯波義寛に帰順し、尾張に平穏が訪れた。
1487年(長享元年):9代将軍・足利義尚による六角高頼征伐(長享の乱)に参陣した斯波義寛に従軍。
1491年(延徳3年)、10代将軍・足利義稙による六角高頼征伐(延徳の乱)でも義寛に従軍し、軍功があったという。
1495年(明応4年)7月:布陣中に死去したという。享年は44

(4)織田寛定

(?-1495)おだとおさだ
敏定の子。通称:五郎。官位:近江守、丹波守。
正室は石丸利光娘。
子に達定、達勝、広孝。
日置城主。
1494年、美濃国守護・土岐氏の家督争い(船田合戦)が起こると、石丸利光の娘を正室に迎えたため、土岐元頼・石丸利光方に味方して、土岐政房・斎藤妙純方の織田伊勢守家当主の織田寛広と戦うが、1495年7月、父が陣中に死去する。
寛定は家督を継ぐが、9月には美濃で討ち死にした。

(5)織田寛村

()おだとおむら
敏定の子。通称:六郎。
1495年5月、土岐氏の家督争いである船田合戦では石丸利光へ援軍を送った。同年9月、父・敏定の跡を継いだ兄・寛定が討ち死にするとその家督を継ぎ、石丸方敗退後も織田伊勢守家と対立を続けた。その後、美濃国の斎藤妙純を仲介に対立していた嫡流「織田伊勢守家」の岩倉城主・織田寛広と和睦した。
 1500年9月、実成寺に寺領安堵したのを最後に文献から寛村の名は途絶え、1503年頃には寛村に代わり、次代・達定が守護代となっているので、その前後に隠居もしくは死去したと思われる。

(6)織田達定

(-1513)おだ たつさだ(みちさだ)
寛定の子。通称:五郎。官位:大和守。
清洲城主。
1513年、義寛の跡を継いだ守護・斯波義達に対して反乱を起こすが敗れて自害する。

(7)織田達勝

(1480-1550)おだ たつかつ(みちかつ)
寛定の子。官位:大和守。
子に 織田信秀正室。養子に信友。
清洲城主。
1513年、兄・達定が尾張守護の斯波義達と争い、殺害された後、家督を継ぐ。清洲三奉行の補佐を受ける。
1532年頃には「織田弾正忠家」当主の織田信秀と争い、同じ三奉行家の「織田藤左衛門家」と共に信秀と戦ったが、後に和睦している。

(8)織田信友

(1516-1555)おだのぶとも
父は織田因幡守家の織田達広。別名:彦五郎、大和守。広信、信豊。
主家・斯波氏の当主・斯波義統を傀儡の守護として擁立した。一方で、信友自身も家臣である坂井氏や河尻氏に家中の主導権を握られていた。
信秀の死後は織田信行(信勝)の家督相続を支持し、信秀の後を継いだ織田信長と対立する。
1552年、萱津の戦いでは、守山城の織田信光に支持された信長に敗れる。
1554年、信友は家老の坂井大膳と図り、斯波氏の家臣の大部分が義統の子・義銀に従って城外に出かけた隙に義統を暗殺した。義銀は信長を頼り逃亡。義銀を擁した信長の反撃を受けた信友は安食の戦いで敗れる。
最期は織田信長の命を受けた織田信光に攻められ、自害した。

(9)一族

織田敏信
(1466-1517)おだ としのぶ
久長の子。通称:左馬助、伊勢守、大和守、備後守。
子に信安、信有、定信、織田信秀側室
1491年、10代将軍・足利義稙による六角高頼征伐のため、敏信は父・織田敏定と共に尾張守護・斯波義寛に従軍した。

織田敏宗
(-)おだとしむね
敏定の子。通称:左馬助。
室は京極常観の娘。
子に 飯尾定宗、永政。
織田信秀に仕える。

織田秀敏
(-)おだひでとし
敏定の子。通称: 玄蕃允。
織田信秀に仕える。

織田広孝
()
寛定の子。

(10)家臣

坂井大膳()小守護代。清洲家四家老。
坂井甚介(-1552)清洲家四家老。大膳の弟。
河尻重俊(-1554)清洲家四家老。別名:河尻左馬丞
織田三位(-1554)清洲家四家老。
川原兵助()

織田達順
()

【4】織田弾正忠家

織田大和守家の織田敏定の子・良信を祖とする。清洲三奉行家の一。
勝幡織田氏。

織田良信()
織田信定(-1538)
織田信秀(1510-1552)
織田信長
織田信忠
織田秀信

(1)織田良信

()
織田大和守家・織田久長の子。官位:弾正左衛門、弾正忠。備後守。
清洲三奉行家の一つ、織田弾正忠家当主。
正室は京極持清娘。
子に信定。

(2)織田信定

(-1538)
良信の子。官位:弾正忠、弾正左衛門尉。
子に信秀、信康、信正、信光、信実、信次、秋悦院(織田信安室)、女(松平信定室)、女(牧長義室)、おつやの方(遠山景任室のち秋山虎繁室)。
正室はいぬゐの方(含笑院;織田良頼の娘)。側室は月静院殿。
清洲三奉行家の一つ、織田弾正忠家当主。
勝幡城城主。
織田達勝に仕える。
永正年間に勝幡城を築城し、津島の館から拠点を移した。
天文年間初めに嫡男・信秀に家督を譲って隠居した。この際、木ノ下城(犬山城)に移り、勝幡城を信秀に与えたとされる。

(3)織田信秀

(1510-1552)
信定の子。 通称:三郎。
正室は織田達勝の娘。継室は土田御前。側室は織田敏信の娘、養徳院殿(池田政秀の娘)。
子に 信広、信時、信長、信行、信包、信治、信興、秀孝、秀成、信照、長益(有楽)、お市の方(浅井長政継室のち柴田勝家室)、お犬の方(佐治信方室のち細川昭元室)
清洲三奉行家の一つ、織田弾正忠家当主。
勝幡城城主。

(4)一族

[1]信秀の兄弟

織田信康
(1512頃?-1544)おだ のぶやす
信定の次男。
下記、織田信康の一族(犬山織田家)参照

織田信正(掃部頭)
()おだかもんのかみ
※同姓同名アリ
信定の庶子(信康の子とも)。官位:掃部頭。
子に織田信和。
丹羽郡楽田城主。

織田信光
(1516-1556)おだのぶみつ
信定の三男。
下記、織田信光の一族(守山織田家)参照

織田信実
(1520頃?-)おだのぶざね
信定の四男。通称:四郎次郎。
養子に信昌(織田信光・二男)

織田信次
(1532頃?-1574)おだのぶつぐ
信定の五男。通称:孫十郎。官位:右衛門尉
1555年5月、織田信友が信長によって滅ぼされ、兄・信光が守山城から那古野城へ移ると、後任の守山城主となった。
しかし、川狩りの最中、無礼な態度をとった若者に対し、信次の家臣・洲賀才蔵が怒って弓で射殺した。ところが、その若者は信長の弟・織田秀孝であり、遺体を見て驚愕した信次はそのまま逃亡した。
信長の異母弟・織田信時が後任の守山城主を務めたが、重臣の角田新五の謀反に遭い自害したため、許されて守山城主に戻った。
1574年、第三次長島一向一揆攻めに参加。討ち死。
家老に角田新五・坂井喜左衛門・丹羽氏勝。

[2]信長の兄弟

織田信広
(1528?-1574)おだのぶひろ
信秀の庶長子。

織田信時
(-1556)おだのぶとき
信秀の庶子。秀俊とも。官位:安房守
室は善応院(荒尾善次娘、後に池田恒興正室)
子に康長、女(飯尾敏成室→下間頼龍室)
蓄電した織田信次に代わって守山城主となる。
家臣の角田新五に裏切られ、自刃する。

織田信勝(信行)
(1536-1558)おだのぶかつ
信秀の子。通称:勘十郎。信勝→達成→信成
母は土田御前。
子に信澄、信糺、信兼
父・信秀の死後は末森城主となる。柴田勝家、佐久間大学、佐久間次右衛門ら弾正忠家の重臣が付されていて、信長が当主として括弧した地位を確立できたわけではなかった。
1555年6月、弟・秀孝が叔父・信次の家臣・洲賀才蔵に誤殺された際、信行は、信次の居城・守山城の城下を焼き払わさせた。
代わって守山城主となった信時が、守山城年寄衆・角田新五によって殺害されるが、処罰を受けることなく、後の稲生の戦いでは信行の側について参戦していることから、信時暗殺に信勝が関与している可能性も疑われる。
1556年、長良川の戦いで斎藤道三が死亡すると、同年8月、信勝は林秀貞・林美作守・柴田勝家らとともに、信長と敵対する態度を明らかにする。
稲生の戦いで信勝は敗北、母のとりなしで赦免される。
1558年、柴田勝家などに見限られ、謀反の企てを密告され、信長に謀殺される。

織田信包
(1543-1614)

織田信治
(1544-1570)おだ のぶはる
信秀の五男。子に柘植正俊。
尾張野府城主。
1570年、浅井・朝倉連合軍が宇佐山城に迫ってきた際、信治は京都から2000の援兵を率いて救援に駆け付けた。森可成、青地茂綱と共に宇佐山城から出て浅井長政・朝倉義景の連合軍と近江坂本で戦ったが(宇佐山城の戦い)、可成、茂綱と共に戦死した。

織田信興
(-1570)おだのぶおき
信秀の七男。
1565年、信長の命で滝川一益と共に出兵し、弥富服部党の当主・服部友貞不在を狙って攻め立て勝利する。鯏浦城・小木江城(古木江城)を築き、以後は小木江城を拠点とし、伊勢長島と対峙する。
1570年11月、信長が石山本願寺などの信長包囲網にさらされると、信興の小木江城も尾張・伊勢長島一向一揆衆によって囲まれた。このとき、信長は浅井長政や朝倉義景らと比叡山で対峙し、近隣の桑名城にいた滝川一益も一揆勢の侵攻により籠城していたため、援軍を送ることができなかった。
信興は孤立無援の中で奮戦するも、落城。自害した、

織田秀孝
(1541-1555)おだひでたか

織田秀成
(-1574)
信秀の九男。津田信成。
1574年7月の伊勢長島攻めにおいては信長の嫡男・信忠の供衆として従軍した。一揆勢の捨て身の反抗に遭い、戦死。

織田信照
(1546-1610)
信秀の十男。官位:越中守
遠江国二俣城城主・中根忠貞(和泉守)の養子となり越中守を称した。
信長が死去した後は次兄・織田信雄の家臣となった。

織田長益(有楽)
(1547-1622)
信秀の十一男。

織田長利
(-1582)おだながとし
信秀の十二男。通称:又十郎。津田長利

[3]織田信康の一族(犬山織田家)

織田信康
(-1544)おだのぶやす
信定の子。通称:与次郎(與次郎)
子に 信清、広良、与一、信武、織田信張正室ら。養子に信時。
1537年、犬山城に入城。織田伊勢守家・織田信安の後見役を務めた。
1544年、加納口の戦いにて戦死。

織田信清
(?-?)おだのぶきよ
信康の子。通称は十郎左衛門、下野守。
室は 犬山殿(織田信秀娘)。
子に津田信益。
犬山城主。
1558年7月、浮野の戦い・岩倉城攻略で信長を支援したが、織田信賢の旧領地の分与を巡って信長と諍いを起こし、1562年、反旗を翻し、楽田城を奪う。しかし、信長軍に支城を次々に攻め落とされ、1564年5月には居城の犬山城も陥落し、甲斐国へと逃亡、甲斐武田氏の許で犬山鉄斎と称した。

織田広良
(?-1562)おだひろよし
信康の子。與康、信益。通称:源三郎、勘解由左衛門。
美濃国十九条城主。
1562年、十四条の戦いで斎藤方の野々村正成に討ち取られた。

柘植与一
(1541-1609)つげよいち
信康の六男。柘植友顕(柘植玄蕃)の養子。通称:大炊助。
室は坪内宗之こと前野自勝の娘。

織田信武
()
信康の庶子。松長信正。
後に徳川家康に仕え、1598年、家康より松長の名字を与えられ、松長三郎信正を名乗った。

津田信益
(-1633)つだのぶます
信清の子。通称:源十郎

[4]織田信光の一族(守山織田家)

織田信光
(1516-1556)おだのぶみつ
信定の子。通称:孫三郎。
子に 信成、信昌(織田信実の養子へ)、仙千代。
守山城主。
小豆坂七本槍の一人として名を馳せた。
1535年、居城・守山城を松平清康に攻められるが、清康が重臣の阿部正豊に殺害されたことにより松平勢は撤収した(守山崩れ)。
家督を継いだ甥の織田信長を支持し、萱津の戦い、村木砦の戦いなどで活躍した。
信長と敵対する織田大和守家当主・織田信友の重臣・坂井大膳の誘いに応じるふりをし、1555年4月19日に清洲城に入城。翌20日、信友を謀殺して清洲城を奪った。
信長に清洲城を渡すと、自身は信長より譲られた那古野城に入ったが、1556年1月に不慮の死を遂げた。近臣・坂井孫八郎により殺害されたという。

織田信成
(-1574)
信光の子。
室は小幡殿(織田信秀七女)。
子に正信、光徳院。
父の死後、小幡城主となるが、同城はしばらく後に廃城となった。
1574年9月、第三次長島攻めに参加。討ち死。

織田信昌
(-1574)
信光の子。信実の養子。
子に 津田長義、森高次室。
1574年8月、第三次長島攻めに参加。討ち死。

織田正信
()

津田長義
()

[5]その他

織田信和
(?-1592)
信正の子
子に信直、重成、伊崎宗悟室、伊藤権兵衛室。

織田信直
(?-1592)
信和の子

織田重成
(?-?)
信和の子。
重成流織田家初代。

(5)信秀の家臣

織田定信
織田光清
織田達種
織田頼秀
伴九郎兵衛
滝川勝景
矢野寛倫
矢野勝倫
雑賀右京進
斎藤勝秀
小瀬秀実

[2]津島衆

四家七党
四家:大橋、岡本、山川、恒川
七党:堀田、平野、服部、鈴木、真野、光賀、河村

[3]織田信長の付家老

林秀貞
平手政秀
青山秀勝
内藤勝介

林氏・平手氏については別記事参照

(2)青山氏
青山秀勝(1507-)
青山秀昌(小助)
青山昌起(新七)
青山吉次(与三)

[4]織田信勝の付家老

柴田勝家(権六)
佐久間盛重(大学)
佐久間次右エ門
長谷川宗兵衛
山田弥右衛門

[5]川並衆

(1)加賀富樫氏・坪内氏

坪内頼定(?-?)尾張国松倉城主。
坪内友定(?-?)
坪内兼光(前野為定)(?-?)
坪内勝定(1516-1609)
坪内利定(1539-1610)
坪内澄定(前野澄定)(-1612)
坪内定時(前野定時)(-1593)

坪内頼定
(?-?)
富樫基定の子。通称:藤左衛門
子に友定
尾張国松倉城主。
加賀国の守護大名・富樫氏の一門衆である富樫基定の子に生まれる。
尾張国に赴き、犬山織田家初代・織田信康に仕え、尾張国葉栗郡に松倉城を築城する。

坪内友定
(?-?)
頼定の子。
子に 為定、勝定、重定
尾張国松倉城主。坪内氏二代目当主。

坪内兼光(前野為定)
(?-?)
友定の子。前野自唯。
子に田中加右衛門室、若原監物室。養子に前野自勝、坪内勝定。
坪内氏三代目当主。兵法者としても知られる。
 初め犬山織田家の織田信康・信清の家臣で、松倉城の坪内衆や川並衆と呼ばれる集団に属していた。
 しかし、信長の美濃攻略の際には木下藤吉郎に協力し、新加納に砦を築き、坪内家一門衆を説得して墨俣築城に協力させた。
さらに小坂雄吉の協力も得るため説得するが失敗。二度目は蜂須賀正勝から預かった書状を持って雄吉のもとへ説得に行き、協力を得た。
この時互いに協力して説得に行った前野時氏の娘を妻にし、養子となって前野為定を名乗る。坪内家の家督は弟の勝定に譲った。
時氏のもう一人の子である前野自勝を養子とし、為定は前野自唯と改めた。

坪内勝定
(1516-1609)
友定の子。
室は坪内昌家娘、生駒右近妹、前野長義娘
子に女(坪内光景(前野長康)室)、利定、澄定(前野澄定)、定時(前野定時)、坪内半兵衛室、坪内守定、武山善兵衛室。
坪内氏四代目当主。

坪内利定
(1539-1610)
勝定の子。
子に家定、定安、正定、秀定、安定、行定、定令、浅井直元室ら。

坪内澄定(前野澄定)
(-1612)

坪内定時(前野定時)
(-1593)

(2)尾張富樫氏・坪内氏
尾張富樫氏の始祖である富樫長泰(富樫氏6代当主・泰家の子)の子孫。

坪内昌家()尾張国坪内城主。
坪内広綱()

坪内昌家
(?-?)
坪内以有の子。
子に広綱、娘(坪内勝定室)。養子に坪内忠勝(前野長義の子)
尾張国坪内城主。昌家の祖先は尾張富樫氏の始祖である富樫長泰(富樫氏6代当主・泰家の子)であると言われる。
野府城を築城し、子の広綱を城主とする。
広綱は、1547年9月加納口の戦いに出陣し討ち死する。
跡継ぎを失った昌家は、坪内家の娘を妻に迎えている前野又五郎忠勝を養子に迎え、野府城の城代とした。
娘は加賀富樫氏系坪内氏の坪内勝定に嫁いだ。

坪内広綱
()
昌家の子。
尾張国坪内城主。
1547年9月加納口の戦いに出陣し討ち死する。

[6]その他

(1)小坂氏
小坂吉政
小坂行宗()前野俊平の子
小坂吉俊()行宗の子。三代当主。吉田城主
小坂正高()
小坂正氏()吉俊の長男。四代当主。吉田城主
小坂正吉()吉俊の二男
小坂雄吉()

【5】織田藤左衛門家

織田大和守家の織田久長の子・常寛を祖とする。清洲三奉行家の一。
小田井織田氏。

①織田常寛(-1506)
②織田寛故(-1550)
③織田寛維(1520-1542)
④織田信張(1527-1594)
織田信直(1546-1574)
⑤織田信氏
⑥織田忠辰

(1)織田常寛(久孝)

(-1506)おだつねとお/じょうかん
織田大和守家・織田久長の子。官位:丹波守。別名:弾正左衛門。織田丹波守久孝。
子に寛故。
於田井城主(初代)。清洲三奉行の一つ、織田藤左衛門家当主。
織田良頼(筑前守)と同一人物?
そうであれば子に含笑院(いぬゐの方)。

(2)織田寛故

(-1550)おだとおもと
常寛の子。
正室:玉堂殿(斯波氏娘)
子に寛維、福富貞嗣室、津田元信室、信張(寛廉)、常知、梁田教貞室
於田井城主(2代)。清洲三奉行の一つ、織田藤左衛門家当主。
子・寛維に家督を譲るが、寛維の死後、再び城主になる。

(3)織田寛維

(1520-1542)おだとおふさ
寛故の子。通称は藤左衛門尉。
於田井城主(3代)。清洲三奉行の一つ、織田藤左衛門家当主。
1542年、大垣城攻めに参戦し、討ち死。

(4)織田信張

(1527-1594)おだのぶはる
寛故の子。寛廉→信純→信張→信弘
織田信長に仕えた際、偏諱を受け信張と名乗った。
正室は織田信康娘。
子に信直。
於田井城主(4代)。清洲三奉行の一つ、織田藤左衛門家当主。
1577年、紀州雑賀攻めなど、主に紀伊方面を担当。和泉国佐野砦を任されていたが、その後、岸和田城へ移り和泉半国を領し、信長直轄軍の一員として働いた。
1587年、佐々成政が肥後国の検地に失敗し切腹を命じられた際には、豊臣秀吉より八代城を与えるとの命があったが、信張はこれを固辞した。

(5)織田信直

(1546-1574)おだのぶなお
信張の子。
正室は 織田信秀六女・栄輪院。
子に信氏、忠辰、娘。
1574年7月、第三次長島攻めに従軍。同年9月29日、討ち死。

(6)織田信氏

(-1584)おだのぶうじ
信直の子。
子に津田清幽。
於田井城主。
1574年9月、伊勢長島で父・信直が討ち死、後を継いで小田井城主となった。翌年、父の死の償いとして小田井に3万6,000貫の知行を得た。
1582年、本能寺の変後は、織田一族を束ねた織田信雄に属したが、1584年6月2日、祖父よりも先に死去。家督は弟・忠辰が継いだ。

(7)織田忠辰

(1572-1613)おだただとき
信直の嫡男。
子に津田信番、津田知信、津田宗元。
於田井城主。
織田信忠、信雄に仕え、1584年に起こった小牧・長久手の戦いの後、羽柴秀吉によって於田井城を追われた。

(8)楽田織田氏

織田寛貞
()
常寛の子。通称:筑後守。
織田藤左ヱ門家庶流。楽田織田氏当主。
1548年、犬山城主織田信清と共謀し、織田信秀と対立。
1562年、信清に攻められ城を失い、没落。

織田忠寛
(-1577)おだただひろ
寛貞の子。織田掃部、津田一安
子に忠遼、信昌。
信長に仕える。

織田忠遼
()
忠寛の子。

(9)一族

津田清幽
()
信氏の子。

津田信番
()
忠辰の子。

津田知信
(1598-1644)つだとものぶ
忠辰の子。

津田宗元
(159-1654)つだむねもと
忠辰の子。

【6】織田因幡守家

清洲三奉行家の一。

織田広長()織田常竹の子か?
織田広貞(-1488?)広長の子。
織田広延()広長の子。
織田達広(-1547?)広延の子。

織田達広
()
広延の子。
子に織田信友(織田大和守家当主)、

【7】織田信長の一族

織田弾正忠家の当主であった織田信長が尾張国を統一した。

(1)織田信長


(2)織田信忠

(3)織田信雄


(4)織田信孝

幸田 孝之(彦右衛門)
岡本良勝

与力大名
関氏   関盛信
峰氏   峰広政
鹿伏兎氏 鹿伏兎左京亮

(5)織田信勝(信行)の一族 

織田信澄
(1555-1582)
信勝(信行)の子。津田信澄
子に 昌澄(信重)、元信

織田信糺
()
信勝(信行)の子。通称:勝三郎。津田信糺
母は春田刑部の娘
織田信雄、後に蜂須賀家政に仕える。

織田信兼
(-1583)
信勝(信行)の子。通称:新八郎
織田信孝に仕える。信孝が自害したときには殉死した。

(6)織田信包

織田信重

織田信則

織田信当

(7)尾張時代の信長の家臣

村井貞勝

島田秀満


[2]黒母衣衆

河尻秀隆
中川重政
佐々成政
津田左馬允
毛利良勝
平手久左衛門
伊東武兵衛
水野忠光
松岡高光
生駒勝介
追加メンバ
蜂谷頼隆
野々村正成

[3]赤母衣衆

前田利家
浅井信広
織田薩摩守(木下雅楽助)
伊東長久
岩屋長門守
山口飛騨守
佐脇藤八
毛利長秀
飯尾尚清
長谷川橋介
追加メンバ
福富秀勝
塙直政
渥美刑部丞
金森長近
猪子一成
織田越前守
加藤弥三郎

【8】尾張の武将たち


尾張の主要な国人
織田氏、佐久間氏、佐々氏、丹羽氏、林氏、久松氏、前田氏、山田氏、水野氏、水野氏 (桓武平氏)、毛利氏、山内氏、山口氏、石橋氏、坂井氏、新海氏、山田氏、中島氏、千竃氏、荒尾氏


【9】水野氏

鎮守府将軍・源満政を祖として、満政の7世孫の小河重房の代に至って尾張知多郡阿久比郷小河に住して小河氏と称して、その子・重清は春日井郡水野郷に一時期住して、水野とも称するようになったことにはじまる。
南北朝時代に小河正房は土岐直氏の攻撃をうけ、子の信業と共に戦死し(小河合戦)、孫の信安は先祖の故地・春日井郡水野郷へ移り再び水野を称した。その後、曾孫水野忠義は知多郡小河に戻った。
水野貞守の代、尾張国知多郡小河に緒川城と、尾張国と狭い入り江を挟んで隣接する三河国碧海郡に刈谷城の二つの拠点を置いたのに始まる。その後、戦国期において水野氏は勢力を伸ばし、水野氏は知多郡大野の佐治氏、渥美郡の戸田氏と争いながら勢力を広げ、大高城、常滑城、亀崎城、宮津城、鷲塚城などを有した。
水野信元の代、親今川路線を変更し、織田信秀と同盟(織水同盟)を結んだ。
1575年、水野信元は突如、武田勝頼への内通を疑われ、織田信長の命を受けた徳川家康により殺害された。この時、跡継ぎであった水野信政も殺害され、水野氏は断絶した。
1580年、信長に再興を許され、水野忠守は尾張国小河の、水野忠重は刈谷の旧領に復した。

小河正房
小河信業
水野信安
①水野貞守
②水野賢正
③清忠(信政)
④水野忠政
⑤水野信元
⑥水野信政

下総山川藩主家
水野忠守
水野忠元
上野安中藩主家
水野忠分
水野分長
備後福山藩主家
水野忠重
水野勝成

(1)緒川水野家

水野貞守
(-1487)

水野賢正
(-1514)

水野清忠
(-1509)
子に清重、忠政、元興、娘(松平信忠室)、娘(奥平貞勝室)

水野忠政
(1493-1543)
清忠の次男。通称は藤七郎、右衛門大夫、下野守。幼名:牛息丸。初名は妙茂
正室:松平昌安の娘、継室:華陽院(大河内元綱の養女)
子に近守、信元、於丈の方(松平家広室)、信近、忠守、於大の方(松平広忠室)、妙春尼(石川清兼室)、女(水野豊信室)、近信、忠勝、藤助、屋鍋(中山勝時室)、女(水野忠守室)、忠分、忠重。
緒川城および刈谷城の城主。
1533年、三河国刈谷に新城(刈谷城)を築いた。
織田信秀の西三河進攻に協力しつつ、他方では岡崎城主松平広忠、形原城主松平家広などに娘を嫁がせて、領土の保全を図った。

水野信元
(-1576)
忠政の次男。初名は忠次。通称は藤四郎(藤七郎)。
母は松平信貞娘。

(2)下総山川藩主家

水野忠守
(1525-1600)
忠政の子。
母は華陽院(大河内元綱養女)
子に吉守(金蔵)、守重、忠元、守信、娘(奥平次左衛門室)、重家、元吉
1580年、忠重が旧領に復した際に忠守は緒川城主となった。
1590年、徳川家康が関東に入部すると、玉縄城の守備を命じられ、知行を得た。

水野忠元
(1576-1620)
忠守の三男。
1616年、水野忠元は下総国山川領の領主となり、3万石の大名となった(下総山川藩)。

(3)上野安中藩主家

水野忠分
(1537-1579)
忠政の八男。
室は佐治信方の妹。
子に分長、義忠、重央、吉勝、松平勝政、女(松平家忠室)
天文年間(1532年-1555年)、布土城主であった。
有岡城の戦いにおいて戦死。

水野分長
(1562-1623)
忠分の長男。幼名:藤次郎
室は山口重勝の娘。
子に元綱
はじめ叔父の水野忠重に属した。
1584年、小牧・長久手の戦いで首級を挙げて武功を挙げた。
小田原征伐にも忠重に属して従軍する。
その後、水野氏を去って蒲生氏郷に属し、九戸政実の乱で先陣を務め戦功を挙げた。
1599年に家康から呼び戻され大番頭に任じられ、1600年の関ヶ原の戦いに参陣する。
1601年、尾張緒川藩1万石を与えられた。
1604年、備後守に任ぜられる。
1606年、三河新城に移封され、設楽・宝飯郡内で1万石を与えられた。
1614年、大坂の陣にも家康付大番頭として従軍する。
1616年、家康が亡くなると徳川秀忠に仕え、近江国栗太郡内で2000石を加増された。
1620年、徳川頼房に付けられて水戸藩に移る。この際に新城の領地は長男の元綱に譲り、分長は安房国・上総国内で1万5000石を与えられた。
1623年3月死去。享年62。死後、安房・上総国内の領地は相続する者がなく収公された。

水野重央
(1570-1621)
忠分の三男。官位:対馬守。重信→重央→重仲。別名:藤四郎、藤次郎
子に子 重良、定勝、しゃむ姫(大関政増正室)、水野義重室、小笠原義治正室、松平康信正室、有馬豊長継室
1576年、母方の従兄に当たる徳川家康に初めて謁見し、のち家康に近侍して5,500石を知行する。
1588年に大番頭となり、
1592年、武蔵国埼玉郡・上総国山辺郡内に1,500石を加増される。
1600年、関ヶ原の戦いでは大番頭として従軍。
1601年、従五位下・対馬守に叙任。
1606年、家康の十男・徳川頼宣の後見を家康から託され、1608年に頼宣の家老となり、常陸国内に1万石を与えられた。
幼少である頼宣に代わり、水戸藩では重央が国政に当たる。
1609年、頼宣が駿河国駿府藩に転封されると、重央は遠江国浜松城主となって2万5,000石を与えられた。
1619年、頼宣が紀州藩に移ると、重央は紀伊国新宮に3万5,000石を与えられ、安藤直次と共に頼宣の附家老としてその補佐に務めた。しかし附家老という身分上、大名としての資格を失うことになった。
 1621年)11月死去。享年52。

(4)備後福山藩主家

水野忠重
(1541-1600)
忠政の九男。
子に、勝成、忠胤、弥十郎、忠清、清浄院(加藤清正室)、忠直、女(安部信勝室)、女(森本右近室)。
初め水野家惣領であった異母兄・水野信元に仕える。
1561年、三河岡崎城の松平元康(徳川家康)の傘下に入る。
1575年、信元が武田氏との内通の嫌疑をかけられて岡崎へ逃亡したが、信長の命令で家康は信元親子を自害させた。佐久間信盛の讒言とも言われる。
1580年8月、佐久間信盛が織田家を追放されて三河刈谷城も没収されると、忠重は信長より刈谷城を与えられ、9月23日に入城した。水野家当主となったことで信長の家臣となった。
1582年、本能寺の変後は、織田信雄に仕える。刈谷、緒川のほか北伊勢にも所領を持ち、都合1万3千貫文を領する。
1590年、小田原の役では、250騎を率いた。同年9月、伊勢神戸城4万石に移封された。
1595年、本領・三河刈谷城主に戻され、石高は2万石となった。
1600年、浜松から越前府中の新領に帰る堀尾吉晴を歓待して酒宴を催した際、同席した加賀井重望(秀望)と口論になって殺害された

水野勝成

水野忠胤

(5)一族

水野清重
()
清忠の子。

水野元興
(-1571)
清忠の子。

水野近守
(-1556)
忠政の長男。藤九郎。

水野信近
(1525-1560)
忠政の三男。
幼名:千代松、通称は十郎左衛門、藤四郎、藤九郎。
子に信政(元茂)、信行、村瀬重治室。
刈谷城主。
忠政の死後、刈谷水野氏を継いだ。
1560年、桶狭間の戦いの直後、今川家臣の岡部元信に城を攻められて討死した。

水野近信
(?-1602)
忠政の五男。通称:伝兵衛。

水野忠勝
(?-1568)
忠政の子。通称:弥平大夫。
子に康忠。
今川義元・氏真の2代に従う。
1567年、敵対する武田信玄に内通して密書を送ったことが露見したため、自害した。

信政(元茂)
()
信近の子。

信行
()
信近の子。

【10】一色氏

一色詮範(位:1391)若狭・三河守護
一色満範(位:1392-1409)丹後守護、後に若狭・三河守護を兼ねる
一色義貫(位:1409-1440)若狭・三河・丹後守護
一色義遠(位:1451-)



【11】服部党

伊賀服部氏とは別系統で、伊勢国奄芸郡が発祥とされる。
戦国時代、尾張国河内(海西郡)に勢力を持っていた一族。
党首・友貞は伊勢長島城の城主も務めたが、1568年に織田信長の謀略にかかり討ち取られ、服部一門は長島一向一揆に参加し織田氏に抵抗し続けた。
長島一向一揆の崩壊後は、友貞の子・正友ら服部一門が織田氏の許可を得て復帰し、市江島(現在の弥富市)を開墾し、江戸時代を通じて存続した。

服部友貞
(-1568)

服部正友

【12】城郭・古戦場・地理


【1】春日井郡

清州城

守山城

比良城

品野城

【2】丹羽郡

岩倉城
丹羽郡()
1479年頃、「織田伊勢守家」当主の織田敏広によって築城された。
1559年3月、信長に攻撃されて落城した。そのまま廃城となった。

犬山城
丹羽郡()
1537年、織田信康が築城。

木ノ下城

【3】葉栗郡


【4】中島郡


【5】知多郡

緒川城
知多郡()
文明年間(1469年-1487年)、小河重房の屋敷跡(高藪城)に水野貞守(小河貞守)が築城。
1606年、廃城

大高城


【6】愛知郡

那古野城

古渡城
1534年、織田信秀が東南方に備えるために築城。
信秀は那古野城を、嫡男吉法師(織田信長)に譲り、この城を拠点とした。
1548年、美濃に侵攻した信秀の留守を狙い、清洲の守護代織田信友の家臣坂井大膳らが城下に攻め寄せ、町が焼かれた。
信秀が末森城に移ったため、1548年に廃城。

末森城

下社城

稲葉地城

荒子城

沓掛城

鳴海城

熱田神宮

【7】海東郡

勝幡場


【8】海西郡

荷之上城

 

参考文献
『織田信長の家臣団―派閥と人間関係』 和田裕博 中公新書




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