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戦国!室町時代・国巡り(1)尾張編


【0】はじめに

尾張国:石高57万石(1598年)

上四郡 春日井郡/丹羽郡/葉栗郡/中島郡
下四郡 知多郡/愛知郡/海東郡/海西郡

(2)年表

1366年 貞治の変
1542年 第一次小豆坂の戦い
1544年 加納口の戦い
1546年 織田信長元服
1548年 第二次小豆坂の戦い
1552年 萱津の戦い
1554年 村木砦の戦い
1554年 安食の戦い
1562年 十四条の戦い

【1】斯波武衛家

斯波氏は、鎌倉時代に足利泰氏の長男家氏が陸奥国斯波郡を所領とし、宗家から分かれたのに始まる。
家氏の母は、執権北条氏の有力一門名越氏の出身で、当初は泰氏の正室であった。しかし、兄の名越光時らが嫡流の北条得宗家に反乱を起こしたためか、母は側室に退き、家氏も嫡子から庶子へと改められた。
4代当主高経の代まで足利氏を名乗り、斯波を名乗ることはなかった。
武衛(ぶえい)とは兵衛府の唐名で、代々当主が兵衛府の督(かみ)や佐(すけ)に任ぜられたことに由来する。
また、勘解由小路(かでのこうじ)は洛中の小路の名であるが、武衛家がここに本邸を構えたことから、文献上、「勘解由小路武衛」などと呼ばれ、斯波姓で呼称されることは稀であった。
室町幕府では、三管領家筆頭の家格にある名門として扱われた。


①足利家氏()
②斯波宗家(足利宗家)2代当主
③斯波宗氏(足利宗氏)3代当主
④斯波高経(足利高経)(1305-1367)4代当主
⑤斯波義将(1350-1410;位:1350-1408)5代当主
⑥斯波義重(1371-1418;位:1408-1418)
⑦斯波義淳(1397-1434;位:1418-)
⑧斯波義郷(1410-1436;位:1434-1436)
⑨斯波義健(1435-1452;位:1436-1452)
⑩斯波義敏(1435-1508;位:1452-1459)
⑪斯波義廉(1445-?)
⑫斯波義寛(1457-1513;位:1459-1501)
⑬斯波義達(1486-1569;位:1501-1515)
⑭斯波義統(1513-1554;位:1515-1554)
⑮斯波義銀(1540-1600)

(1)斯波高経

(1305-1367)
宗氏の子。
子に家長、氏経、氏頼、義将、義種
足利尾張守家当主。越前・若狭・越中守護。
1338年、藤島の戦いで新田義貞を討ち取る功を挙げた。
観応の擾乱が起こると足利直義陣営に属して尊氏と戦うが、この間に尊氏、直義両陣営の間で離反と帰参を繰り返した。尊氏の死後、一時室町幕府の最高権力を得たものの、まもなく佐々木道誉らの策謀により失脚(貞治の変)。

(2)斯波義将

(1350-1410)
高経の四男。
室は吉良満貞の娘。
子に義重、蜂須賀正秋?、娘(渋川満頼室)、益子(桃井尚儀室)
3代、5代、8代室町幕府管領。越前・越中・信濃守護。斯波氏(武衛家)5代当主。
父の寵愛を受け、幼くして幕府管領に就任。父の失脚とともにその地位を失うが、やがて復権し、政敵の細川頼之を康暦の政変にて失脚させ管領に再任する。およそ30年間にわたって幕府の重鎮として活躍し、斯波氏の最盛期を築いた。
1360年、11歳で元服。
細川清氏が康安の政変で失脚。執事職は空席となっていた。義将は父や佐々木道誉の推薦で執事となる。越前・越中の守護に任ぜられる。
1366年8月、貞治の変において失脚。
1367年7月、父・高経が病死する。その直後に義将は上洛して将軍から正式に赦免された。
1368年2月、幕府に復帰していた桃井直常が越中にて、再び幕府に反抗を始めた。同年、義将は再び越中国守護に還補され、桃井討伐を命じられた。
1369年10月には直常の篭る松倉城を攻略した。
1370年、婦負郡長沢において決戦を挑み、義将は直常の子・直和を敗死させるなど勝利を手にした(長沢の戦い)。
越中平定と桃井追討を成し遂げた義将は諸侯中でもその名声を高め、反頼之派の旗頭となっていく。
1379年2月、一時、越中守護を罷免されるが、短期間で復帰。同年、ついに義将は京極高秀や土岐頼康ら反頼之派の守護大名と糾合し、兵を用いて将軍邸である花の御所を包囲するに至った(御所巻)。
義将は義満に迫って頼之の罷免を求め、自身を管領に再任させた(康暦の政変)。
管領に返り咲いた義将は、管領と政所の機構を整備して権限を強化、春屋妙葩を僧録に任命して禅僧の統括を図るなど義満を補佐し室町幕府の安定に力をつくした。
越中を畠山基国と交換することで越前を取り戻し、弟・義種が加賀国守護に任じられるなど、勢力を拡大した。
1389年、頼之が赦免されると、1391年には義将は管領を辞し、領国の越前へ帰国するが、1392年、頼之が没すると再び幕政に参与し、翌1393年6月には三度目の管領に就任する。
将軍義満が出家すると追従して出家し道将と号して、家督を子の義重に譲った。
1399年、大内義弘が挙兵した応永の乱の討伐に、義重とともに従軍し軍功をあげた。乱後、義重に尾張、遠江の守護職が与えられた。
1408年、義満の死後は、宿老として4代将軍足利義持を補佐する。
1410年、没

(3)斯波義重

(1371-1418)
義将の子。
正室は不明。側室に甲斐教光娘(義郷、持有の母)
子に義淳、義郷、持有。
室町幕府7代管領。越前・尾張・遠江・加賀・信濃守護。斯波氏(武衛家)6代当主。
足利義満・義持の二代に仕え、幕府の宿老として力を振るい、領国の経営にも努めた。
1398年、越前守護に補任、さらに信濃守護も兼ねる。
翌年の応永の乱では父と共に幕府方として参戦し、負傷しながらも武功を挙げた。
翌1400年にその功績から尾張守護に任じられた。
1405年に左兵衛督に進み、同年7月からは幕府管領に任じられ、新たに遠江守護を加えられた。
同年には尾張守護所下津城の別郭として、清洲城を築城。
1408年、義満が没する。
1418年、病没。

(4)斯波義淳

(1397-1434)
義重の子。
義郷、持有は異母弟。
子に義豊。
室町幕府9代、13代管領。越前・尾張・遠江守護。斯波氏(武衛家)7代当主。
1409年、13歳という年少の身でありながら管領に任じられた
1410年に祖父・義将が死去すると管領職を解かれている。
1418年に父が死去したため、越前・尾張・遠江の守護に任ぜられる。
1428年、足利義政が将軍に即位すると、義淳に管領就任を命じたが、義淳はこれを固辞した。しかし、繰り返し説得され、ついには管領就任を受諾した。
4代鎌倉公方足利持氏は京都との対立姿勢を強めていた。
この京都と鎌倉の対立に目をつけたのが持氏の叔父にあたる足利満直であった。満直は陸奥国篠川に屋形を構えて篠川御所と尊称されていたが、持氏に代わって鎌倉公方に成らんとの野心を見せ京都へ接近をはじめる事となる。この義教と満直の接近を憂慮したのが鎌倉では関東管領上杉憲実であり、京都では管領・義淳であった。
憲実は鎌倉は幕府と対決するつもりは無い旨を伝えるために、和睦の使節として鎌倉府の政所執事である二階堂盛秀を派遣する事を管領・義淳を通じて幕府に知らせた。
満直は、那須氏・佐竹氏・白河結城氏など京都扶持衆に対して軍事的行動を起こさぬように誓約した罰状(誓紙)を書かせるまでは、使節と対面しないで欲しいとの希望を伝え、義教もこれに同意した。
一方、義淳は「無条件で関東使節と対面すべき」と主張したため義教と義淳の意見は真っ向から対立した。諸大名も満直を支持したが、義淳は決して意見を変えなかった。
義教は諸大名の意見を採用して、義淳に上洛中の二階堂盛秀に鎌倉の罰状提出を伝えるように指示した。ところが義淳はこの命令を無視した。
義教はこのことを知り激怒した。
しかし、九州において騒乱が起こり、義教もついに折れ、義淳の望み通り無条件で関東使節と対面する事を決意した。
 その後、義淳は管領辞職を上申するようになり、1432年10月、ようやく認められrた。
 夭折した嫡男義豊に代わって異母弟の持有を後嗣に定める。
 1433年、幕府軍による叡山攻めの際には、病に伏しており、その年の12月に亡くなる。危篤の際、持有は後継者にふさわしくないとして、僧籍に入っていたもう1人の弟瑞鳳を還俗させて、斯波義郷として家督を相続させた。

(5)斯波義郷

(1410-1436)
義重の子。
子に義健。
斯波氏(武衛家)8代当主。越前・尾張・遠江の守護職。
母は甲斐教光の娘で甲斐常治は従兄弟にあたる。
瑞鳳と名乗り相国寺の鄂隠和尚の弟子であった。
1433年11月、兄・義淳が重病となると還俗し、斯波氏の家督を継いだ。1434年2月に室町幕府に出仕。越前・尾張・遠江の守護職を継承する。1436年)
9月29日、正親町三条実雅(正親町三条公治の父、義教正室・尹子の兄)宅訪問の帰路、陸橋から馬もろとも転落し、翌30日に死去した、

(6)斯波義健

(1435-1452)
義郷の子。幼名:千代徳丸。
斯波氏(武衛家)の第9代当主。越前・尾張・遠江守護。
1436年、父が落馬して死去したため、2歳で家督を継いだ。
初めは叔父の斯波持有、次いで分家の斯波持種と執事の甲斐常治の後見を受けた。
1441年、駿河守護今川範忠と遠江の所領を巡って争った。
1447年、持種と甲斐常治の対立が発生して、持種に同情する家臣による常治の暗殺未遂事件が起き、8代将軍足利義政が仲裁に乗り出す。
同年、吉良義尚の娘を妻とした。
1451年、前尾張守護代織田郷広が将軍義成の乳母今参局を通して復職を図ったがこれを拒否した(後に郷広は自殺)。
同年11月に元服し、従四位下治部大輔に叙任。
1452年6月、持種の子・斯波義敏を養子とする。9月1日に嗣子がないまま18歳で死去。

(7)斯波義敏

(1435-1508)
斯波(大野)持種の子。義健の養子。
子に義寛、斯波義孝室、寛元、義雄、政敏。
越前・尾張・遠江守護。斯波氏(武衛家)10代当主。
1452年9月、当主の義健が18歳で死去して嗣子が無かったため、一族である大野斯波氏から義敏が家督を継ぐこととなった。
当主の早世が相次いだため、一門筆頭(斯波持種)と家臣筆頭(甲斐常治)の対立が生じていた。そこに分国越前で支配権を掌握する甲斐派を排除したい越前国人と権力回復を目論む義敏が結びつくこととなった。
1457年、長禄合戦が勃発。
1459年、義敏が罷免されると、実子松王丸(後の斯波義寛)が家督を相続するが2年後の1461年松王丸も廃される。
堀越公方執事渋川義鏡の子である斯波義廉がが斯波氏の家督を継承することとなった。
1463年11月、将軍義政は側近の伊勢貞親、季瓊真蘂らの進言を容れ、生母日野重子の逝去に伴い義敏を赦免した。
1466年7月、幕府は義敏を武衛家家督に復し、8月には尾張・遠江・越前3ヶ国の守護に任じた。
義廉は岳父山名宗全を頼り、一色義直・土岐成頼らも義廉に味方する。さらに、同年に伊勢貞親の助言で大内教弘の子政弘が赦免されると、これに反対する細川勝元も貞親に敵対し、同年9月、貞親・真蘂・赤松政則らの失脚(文正の政変)に発展した。1義敏の守護職と家督は剥奪され、再度義廉が任命された。
1467年、応仁の乱の勃発。1468年には家督と3ヶ国守護職が義敏・松王丸父子へ再還付された。
1471年、越前国主の座を見返りに朝倉孝景が東軍へ寝返る。
1485年8月、義政に従って出家、入道道海と号す。
1508年、死去。

(7-2)長禄合戦


(8)斯波義廉

(1445-??)
渋川義鏡の子。
曾祖母が斯波義将の娘であった。
越前・尾張・遠江守護。
1459年、斯波氏当主であった斯波義敏が罷免されると、実子松王丸(後の斯波義寛)が家督を相続する。だが2年後の1461年松王丸も廃され、義廉が斯波氏の家督を継承することとなった。
この家督相続には、軍事力不足だった堀越公方足利政知(義政の異母兄)の要請に義政が応じ、政知の執事・(であり、斯波氏当主の実父である)渋川義鏡が斯波軍を動員することができるようとの企図と言われている。しかし、幕府方の上杉持朝と渋川義鏡が政争を起こし、持朝重臣の三浦時高・千葉実胤・太田道真らが隠居する事態となって、義政は義鏡を失脚させる。さらに1463年11月、義政生母日野重子の死去にともなう大赦で斯波義敏・松王丸父子が赦免され、養子当主の義廉の立場は悪化した。
 義敏は復帰工作をはじめ、義政側近の政所執事伊勢貞親や季瓊真蘂の画策もあり、1466年7月義廉は幕府への出仕を停止させられ、8月には3か国の守護返還を命じられた。
 しかし、義廉も山名宗全・畠山義就と手を組んでおり、義敏は貞親・真蘂・赤松政則らとともに文正の政変によって失脚し、守護職は義廉に戻された。
義廉は義就の軍事力を背景に畠山政長を管領の座から追い落としてその後任に就いた。
1467年、応仁の乱の勃発。義廉は翌1468年7月には管領職・3か国守護職を剥奪されたが、西軍内ではなおもその地位に留まっており、西軍の主力を担った。
しかし1471年に有力家臣の一人である朝倉孝景が越前に下向した後、東軍に属し、1475年に甲斐敏光も東軍に帰順して孤立した。
同年11月、尾張守護代の織田敏広を頼って尾張に下国し、東軍に与した義敏・義寛父子と織田敏定らの勢力を一時同国から駆逐する。しかし義敏・義寛父子の盛り返しにより、1478年に敏広が守護代を更迭され、敏定が新たな守護代に任じられると、幕府から「凶徒」と断じられ、尾張での支持勢力を失った。
その後の消息は明らかでない。

(9)斯波義寛

(1457-1513)しば よしひろ
義敏の子。幼名:松王丸。初名は義良。
治部大輔、左兵衛佐、左兵衛督。
室は一色義直娘
子に義達、娘(足利義澄室)、娘(村上顕国室)。
尾張・越前・遠江守護。斯波氏(武衛家)12代当主。
1459年8月、父が越前・遠江守護代甲斐常治との対立で将軍義政の怒りに触れ、隠退すると、甲斐氏らにより擁立され、僅か3歳の松王丸が家督と3ヶ国守護職を継いだ。
ところが1461年8月に義政から当主の座を廃されると、松王丸は相国寺の季瓊真蘂に稚児として預けられ、1463年11月に出家させられ宗成と名乗った。次の当主には遠縁にあたる渋川義鏡の子義廉が選ばれた。
1466年7月、父が義政から赦免され武衛家当主として復権すると、松王丸もそれに伴い還俗した。しかし間もなく文正の政変が起こると、父と伊勢貞親・季瓊真蘂らと共に再び失脚し、家督は義廉に戻されてしまう。
1467年1月、京都に残っていた松王丸は祖父斯波持種及び叔父の竹王丸とともに義廉によって襲撃され、京都を脱出して尾張国に逃れた。
 応仁の乱では一貫して東軍に属す。1468年には家督と3ヶ国守護職が義敏・松王丸父子へ再還付された。
 1472年12月、元服。
 1475年、9代将軍足利義尚に謁見し、遠江守護代となった甲斐敏光と共に遠江に下向して同国侵攻を続けていた駿河守護今川義忠の軍勢と対陣、翌年塩買坂で義忠を敗死させる。
 次に西軍から東軍へ寝返り越前を得た朝倉孝景に目を向ける。
 1479年閏9月、叔父の斯波義孝(竹王丸)、甲斐敏光、二宮氏ら重臣を引き連れて京都から越前に向けて進発し、越前北部の坂井郡の細呂宜・長崎・金津で朝倉孝景と交戦した。
 孝景の没後も1481年まで越前で合戦を繰り広げるが、9月15日の合戦で孝景の嫡男・氏景ら朝倉方に完敗し加賀に没落、越前復旧は失敗する。
 1483年3月に尾張清洲城に入城、ここを守護所と定め、織田敏定を尾張守護代、甲斐敏光を遠江守護代にそれぞれ任じた。
 1485年、将軍義尚より改めて偏諱を賜り、『義寛』と名乗る。また、出家していた父の跡を継いで名実共に武衛家当主となった。
 1487年、将軍義尚による近江守護・六角高頼攻め(長享・延徳の乱)が起こると、同年9月に尾張守護代である大和守敏定、伊勢守寛広ら両織田一族以下8000の大軍を率いて幕府軍に参陣し、副将軍としてその主力となった。
 1491年、義尚の後を継いだ10代将軍足利義材(義稙)によって再び六角征伐が行われると、義寛はまたも大軍を率いて参陣。
 1493年、明応の政変。赤松政則の仲介で細川政元に降伏。義材と親密であた義寛には大きな打撃であり、斯波氏没落のきっかけとなった。
 1494年には細川政元と連携関係にあった駿河守護・今川氏親が義寛が遠江に侵攻を開始。さらに1495年に隣国美濃で船田合戦が勃発。遠江出陣は不可能な状態となる。また同年には若年時から義寛を支えてきた執権の織田敏定が没し、敏定の跡を継いだ寛定もまもなく船田合戦中に戦死してしまう。
 1500年頃、信濃守護・小笠原貞朝、関東管領・上杉顕定にも協力を呼びかけ、今川氏親を東西から挟撃しようと目論む。
 1511年、子の義達が家督を継ぎ、1513年、死去。

(10)斯波義達

(1486-1569)
義寛の子。義達→義敦。官位:治部大輔、左兵衛佐。
母は一色義直の娘。
子に 義統、義景、統雅、統銀、今川氏豊室
尾張・遠江守護。斯波氏(武衛家)13代当主
斯波氏は戦国時代に入ると越前を家臣の朝倉氏に奪われるなど衰退の兆しが現れたが、それでも尾張・遠江の東海2ヶ国を支配する守護大名であった。しかし、隣国の駿河守護・今川氏親が遠江を狙って盛んに侵攻を始めてくるようになった。
1486年、尾張守護である斯波義寛の嫡男として誕生する。
1501年、家督を継ぐ。
1507年、永正の錯乱。細川政元が暗殺されて政元の3人の養子の間で細川家が分裂状態。翌年には政元に廃位させられた将軍足利義尹(義稙)が将軍職に復帰。義尹は今川氏を遠江守護に任じる。
1510年、遠江奪還のため、今川氏と争う
1513年、今川氏に大敗する
1513年、反旗を翻した尾張守護代・織田達定を破り、自刃に追い込む。
1515年8月、今川氏に再度大敗する。自身が捕虜となり、剃髪された上で送り返されるという恥辱を受ける。
1516年頃、諱を「義敦」と改める。

(11)斯波義統

(1513-1554)しば よしむね
義達の子。初名は義元。官位:左兵衛佐、治部大輔。
室は 石橋房義の娘。
子に義銀、毛利秀頼、津川義冬、蜂屋謙入、了妙尼(願得寺顕悟室)、女(吉良義安室)。
斯波氏(武衛家)14代当主。
1515年8月、引馬城における今川勢との合戦で、父・義達は自身が捕虜になるほどの大敗を喫し、剃髪をさせられた上で尾張に送り返される屈辱を受けた。帰国後の義達は実質的な引退に追い込まれて失意の晩年を過ごすこととなり、これに代わってわずか3歳の義統が新たな尾張の国主となった。
 このような状況から義達によって一時弱体化させられていた織田氏は勢力を回復していくことになった。
守護代である織田一族は、「伊勢守家」(岩倉織田氏)と「大和守家」(清洲織田氏)に分裂していたが、加えて津島経済を掌握する織田氏分家の弾正忠家(大和守家の家臣)の台頭が目覚しく、尾張国は群雄割拠の状態にあった。
 達勝・信友としては、大和守家こそが織田家の宗家であることを示す意味で義統を擁したと考えられる。
 義統は名目上は自らの「家臣」である弾正忠家の信秀が、その勢力を美濃国や三河国など、尾張の国内外に拡大させる事には賛意を示し、1544年に信秀が美濃へ進攻する際には、尾張国中に信秀への協力を命じて、本来なら弾正忠家よりも格上にあたる伊勢守家や、同輩の因幡守家を美濃進攻軍として動員させるなど、信秀に対して篤い支援を行った。
しかし大和守家の信友としては、義統が弾正忠家の信秀に接近することを快く思わず、義統としても自身を傀儡として扱う信友に不満を見せはじめたため、次第に両者の対立が深まっていった。
1554年、義統は、信友が弾正忠家の織田信長を謀殺する計画を企てたとき、信長にその計画を密告して自身の助けを求めた。しかしそれを知った信友は激怒し、同年7月義統嫡男の斯波義銀が屈強な家臣を率いて川狩りに出かけた隙を突いて、小守護代・坂井大膳をはじめとして、腹心の織田三位、河尻左馬助、川原兵助らとともに守護邸に攻め入った。
義統方も奮戦したが衆寡敵せず、自害して果てた。

(12)斯波義銀

(1540-1600)しば よしかね
義統の子。幼名:岩竜丸、法号:三松軒。
織田氏に服属後は津川義近を名乗る。
子に義康(大蔵?)、津川近利、津川辰珍、津川近治、女子(織田信重室)
父・義統が守護代・織田信友に討たれると、織田信長の元へ落ち延び、信長に信友を討たせた。以後、義銀は信長の庇護下に入る。
 やがて、義銀も、斯波氏の権勢を取り戻そうと吉良氏と結んで信長の追放を画策するようになった。義銀は足利御一門の石橋忠義、吉良義昭、今川義元、尾張海西郡の国人・服部友貞と通じ、今川の軍勢を海上から引き入れようとした。この密議は信長に知られるところとなり、義銀は尾張を追放された。
 その後は同じ三職家の一つであった河内国の畠山高政の庇護の下に入り、のちに信長と和解し、その際に名を津川義近と改めた。1571年までには尾張へ帰国。
 本能寺の変後は、弟の津川義冬(雄光)が信長の子の織田信雄の家老となっていたため、織田信雄の麾下に属した。「小牧、長久手の戦い」では松ヶ島城に籠城したが、羽柴秀吉勢に降伏した。
 秀吉政権の下では足利義昭や山名豊国とともに御伽衆となり、1585年には公家成が認められた。

(13)一族

斯波持有
(1414-1440)しばもちあり
斯波義教(初め義重)の三男。初名は持輔。
母は甲斐教光の娘。

斯波寛元
(?-?)しば ひろもと
斯波義敏の子。通称:弥三郎。官位:中務少輔。
義敏の子。
兄・義寛の部将として兄弟の義雄と共に各地を転戦する。越前国坂北郡で討死したと伝わる。

斯波義雄
(?-?)しば よしかつ
斯波義敏の子。
子は義虎。
遠江国二俣城主、杜山城主。遠江守護代。
文亀年間に遠江侵攻の激しくなった今川氏の押さえとして杜山城に入城。今川勢と対峙したが、敗れて二俣城に退いた。

斯波政敏
斯波義敏の子。
子に奥田秀種

斯波義虎
(1511~1554)しば よしとら
斯波義雄の子。
1554年7月、守護代の織田信友が斯波氏に対して謀反を起こすと、義統や他の一族とともに自害した。

斯波統雅
(1524-1554)
斯波義達の子。別名:孫太郎。
1554年7月、守護代の織田信友が斯波氏に対して謀反を起こすと、義統や他の一族とともに自害した。

斯波長秀(毛利秀頼)
(1541-1593)しなばがひで(もうりひでより)
義統の次男。通称:河内守。
子に秀秋。
父・義統が謀殺されると、毛利敦元に引き取られ養育された。
その後、織田信長に仕えた。
1560年、「桶狭間の戦い」で戦功を挙げ、赤母衣衆に抜擢された。
1569年、「大河内城の戦い」「石山本願寺の戦い」で戦功を挙げた。
その後、織田信忠の配下になる。武田家の滅亡後、高遠城主に任じられた。1582年、本能寺の変で、織田信長が討死すると所領を捨て尾張国に帰還した。以後は羽柴秀吉に仕えた。
「小牧、長久手の戦い」「九州征伐」「小田原の役」などに参陣して戦功を挙げたため、伊那郡・飯田城70,000石を領した。
1592年「文禄の役」では肥前名護屋に在陣するも、渡海はしなかった。

斯波秀秋(毛利秀秋)
(1565~1615)しばひであき(もうりひであき)
長秀の子。別名:毛利秀秋

蜂屋謙入
(??-1593)はちやけんにゅう
義統の子。
1584年、弟・津川義冬が主君・織田信雄によって殺害された際、津川義近とともに伊勢松ヶ島城に立て籠もって信雄の軍と戦う。その後、秀吉に仕える。
1589年3月、聚楽第落書き事件で捕縛される。

斯波義冬(津川義冬)
(1543-1584)
義統の三男。義永とも。通称:玄蕃允。
室は北畠具教の娘。
織田信長に仕え、後に信長の次男・信雄の家老に任じられた。
本能寺の変後は松ヶ島城主を預けられる。
羽柴秀吉に寝返ったとの噂を信じた信雄に殺害される。それを契機に事態は小牧・長久手の戦いへと発展する。

斯波義康(津川義康
( ??-??)
義銀の長子。別名:津川義康、羽柴義康

津川近利
(1582-1642)つがわちかとし
義銀の次男。法号は休閑。

津川辰珍
(1583-1658)つがわ たつうず
義銀の三男。通称:四郎右衛門。
尾池義辰から偏諱を受ける。
小倉藩主細川氏に仕えた。始め客分として1000石で招かれ、細川氏が肥後54万石に加転封となると250石の加増を受けた。

津川近治
(??-1615)つがわちかはる
義銀の四男。
豊臣秀吉・秀頼に馬印奉行として仕えた。
大坂の役で豊臣秀頼側に付き大坂城本丸を守り、大坂城で討ち死にとも自刃とも。

牧長義
(?-1570)
斯波義統の弟・津川義長(義冬?)の子。
室は織田信定の娘(長栄寺殿)、岡田時常の娘。
子に牧長清、牧長正(長治)。
岳父・岡田時常から川村城を譲り受ける。
1548年、愛知郡・小林城を築き4,000石を領した。

牧長清
()
牧長義の子。真木与十郎
正室:織田信秀の娘・小林殿
織田信秀に仕える。

牧長正(長治)
()
牧長義の子。真木宗十郎
織田信秀に仕える。

[2]大野斯波家

斯波義種
(1352-1408)
斯波高経の五男
子に満種、満理
1366年8月の貞治の変によって父が失脚

斯波満種
(1376-1427)
義種の嫡男。
母は千秋高範の娘。
子に持種、氏種。
1408年、父が没すると加賀守護職を継いで名実ともに大野家当主となった。
しかし1414年、4代将軍足利義持に加賀守護職を剥奪される。
満種は高野山へ遁世し、加賀守護家としての大野家は没落する。

斯波持種
(1413-1475)
斯波満種の嫡男。
子に 義敏(武衛家当主に)、義孝
宗家で義郷、義健と短命の当主が続いたため、持種の長男である義敏が据えられた。このことで越前守護代の甲斐将久(常治)との対立が深刻化。 1458年、長禄合戦をもって両者は激突する。持種・義敏父子は敗北し失脚。孫で義敏の子息松王丸が当主となるも、間もなく松王丸も家督を廃され、代わって渋川義鏡の子義廉が武衛家当主となることとなった。
その後、伊勢貞親の働きかけで義敏が赦免されて、1465年12月には義敏が将軍足利義政と対面して正式に赦免された際には持種も同席している。後に義敏の斯波氏家督と守護復帰が決定されるも、文正の政変によって義敏は再び追放されて義廉が復帰する。
応仁の乱ただ中の1475年に死去

斯波義孝
(1454-)
持種の子。
子は義縁、義信。
大野斯波氏当主。
1475年、父の死によって家督を承継。
応仁の乱の混乱の中で越前を簒奪した朝倉氏との戦いを続けた。

斯波義縁

斯波義信

(14)斯波氏庶流

奥田氏(堀氏):斯波義敏の子・斯波三郎政敏の子・秀種が奥田直種の養子となった。奥田氏は大野斯波家の斯波満種の三男・源三郎氏種が初代であり、直種は奥田氏三代目である。奥田秀種の子が奥田直純であり、その息子の三右衛門政次は従兄弟の堀秀政と共に信長に仕え、堀姓を賜り「堀直政」と名を改めた、
牧氏
千福氏

柴田氏:始祖の柴田修理大夫義勝は越後国柴田の人。また尾張国愛知郡一色城を本拠とした柴田源六勝重(-1503)がいる。織田信長の臣・柴田勝家はその子孫である。
吉田氏

(15)斯波氏の家臣

初期は、完草氏(鹿草・莞草とも)を筆頭とし、二宮氏、島田氏、甲斐氏
中期は、甲斐氏が筆頭、次いで織田氏、その下に朝倉氏
末期は、織田氏が筆頭となった。

【2】織田伊勢守家(守護代家)

守護斯波氏に仕える尾張守護代織田家の嫡流。織田伊勢守家と呼ばれる。
岩倉織田氏。

織田常松(教信)(?-1428?;在:1402-1428)
織田教長(朝長、淳広)(?-?;在:1429-?)常松の子
織田郷広(?-1451;在:?-1441)常松の子
織田敏広(久広)(?-1481; 在:1441-1481)郷広の子
織田寛広(?-?;在:1481-1504)広近の子
織田広高(?-?;在:)寛広の子。
織田信安(?-1591;在:?-1558)大和守家からの養子。
織田信賢(?-?;在:1558-1559)信安の子。

(1)織田常松(教信)

(?-1428?;在1402-1428)
藤原兵庫助将広の子。官位: 伊勢守。重広→教広(斯波義教から偏諱)。
子に教長、郷広。
尾張国守護代。
1402年頃、尾張守護・斯波義教が尾張守護代・甲斐将教(祐徳)を更迭し、織田伊勢守入道常松を新たな守護代に任じ、以後織田氏が尾張の守護代職を世襲するようになった。

(2)織田教長(淳広)

(?-?;在:1429-?)
教信の子。初名は朝長。1431年に淳広に改名か?
1429年から守護代として活動。

(3)織田郷広

(?-1451、在:?-1441)
教信の子。(斯波義郷から偏諱)
子に 敏広、広近、広遠。
1441年、寺社領・本所領を横領したため逐電した。
1450年、将軍・足利義政の乳母・今参局に働きかけ、義政より赦免の内諾を得る。しかし、甲斐常治の意を受けた義政の生母・日野重子がこれに怒り、義政が赦免を反故にしてしまう。
翌年、甲斐常治に派遣された敏広らによって、越前国にて自害に追いやられる。

(4)織田敏広(久広)

(-1481)
郷広の嫡男。官位は兵庫助、伊勢守。
室は斎藤妙椿養女。
子に広高。養子に織田寛広(広近の子)。
1441年、父・郷広が逐電したため守護代となる。
1450年、主家・斯波氏に命じられ、越前国で郷広を自刃に追い込む。
1467年、応仁の乱が起こると管領・尾張守護である斯波義廉と共に西軍に属し、斯波義敏を擁立して東軍に属した分家の織田大和守家当主・織田敏定と対立する。
1475年11月、京都から主君・義廉を伴って尾張へ下国し、尾張中島郡にある尾張守護所の下津城に入城した。
1476年、岳父である美濃国の斎藤妙椿の協力を得て清洲方と戦うが敗れた。この際に下津城は落城したため、山田郡の国府宮へと逃れた。しかし、後に敏広が巻き返して、大和守家の勢力を尾張から一時的に追放する。
1478年、室町幕府は敏広を更迭し、新たな尾張守護代に敏定を任じる。
同年10月12日、尾張に下向した敏定に尾張春日井郡にある新たに守護所が置かれた居城清洲城を奪取された。
同年12月、再び妙椿の後ろ盾を得て、敏広は清洲城奪還を試みる。
敏定と戦って清洲城を囲むが、再三の幕府の介入で清洲城を断念して清洲方と和睦した。これにより、尾張を分割することになり、後に尾張上四郡(春日井郡、丹羽郡、葉栗郡、中島郡)を支配する守護代となっている。
1479年、美濃に近い尾張丹羽郡に岩倉城を築城し、岩倉城を居城とした。
1481年3月、大和守家との和睦が崩れ、清洲方と戦って敗れた後に病死した。

(5)織田寛広

(?-?)おだ とおひろ
広近の子。官位:兵庫助、伊勢守。幼名:千代夜叉丸。
尾張国上四郡守護代。岩倉城主。
養子に広高。
木ノ下城(後の犬山城)主・織田広近の子。
1481年3月、養父・敏広の死後に家督を継いで岩倉城主となる。
1481年7月、父・広近と共に守護の斯波義寛に帰順。
1481年8月、父と共に清洲城主の尾張下四郡守護代「織田大和守家」当主の織田敏定と上洛して、8代将軍・足利義政に尾張平穏の報告も兼ねて貢物を献上。
1487年にも上洛、足利義尚による六角高頼征伐に参陣した斯波義寛に敏定と共に従軍した(長享の乱)。
1494年、土岐氏の家督争いである船田合戦が起こると、斎藤妙純方に付いた。大和守家の敏定・寛定父子が石丸利光方に付いたことや、寛広は養父の代に斎藤氏と縁戚関係を結んでいたためである。
1495年6月、斎藤方の援軍として敏定らと戦って破る。同年、弟の織田寛近(津田武永)と共に石丸利光を攻めた。
1496年12月7日、妙純が近江国で戦死したため、斎藤氏の後ろ盾を失い織田伊勢守家は衰退する。
1504年頃から記録から消える。

(6)織田広高

(?-?)
敏広の子。養子に信安。
1537年頃、記録アリ。

あるいは織田敏信と同一人物?

(7)織田信安

(1502??-1591)おだのぶやす
正室:秋悦院(織田信定娘)。
織田大和守家・織田敏信の子。
子に信賢、信家、剛可正仲、津田正盛。
一説では1517年、織田敏信が亡くなると家督を継ぐ。
1553年、家老の稲田大炊助に信長と内応している疑いが生じたため、殺害。
1556年、稲生の戦いでは、信長の弟である末森城主・織田信勝(信行)に味方し、信長と敵対した。
1558年、長男・信賢を廃し、次男・信家を後継にしようとしたため、かえって信賢により追放される。
斎藤義龍の家臣となり、義龍の死後もその子・龍興にも仕えた。
美濃斎藤氏が滅亡すると京都に逃れる。その後、信長より罪を許され美濃白銀に所領を与えられる。
1591年、死去。

(8)織田信賢

(?-?)おだ のぶかた
官位:伊勢守。岩倉城主。
末森城主・織田信勝、美濃国の斎藤義龍らと結んで、敵対関係にあった清洲三奉行の一家「織田弾正忠家」の織田信長に対抗するが、1558年、浮野の戦いで信長に敗れ、1559年、居城岩倉城も包囲される。数ヶ月の篭城戦ののちに信賢は降伏し、追放処分となった。

(9)一族

織田広近
(?-1491)おだひろちか
織田郷広の子。幼名:千代夜叉丸
子に 寛広、津田武永、広忠
1459年、尾張国丹羽郡小口に小口城を築城し、居城とした。
1469年、尾張丹羽郡に木ノ下城(犬山城)を築城し、小口城から移った。

織田広遠
(?-?)
郷広の子。通称:紀伊守。
1495年、寛広に従い美濃遠征。

津田武永
(?-?)つだ たけなが
広近の子。通称:遠江守
子に娘(岡田時常室)
尾張国小口城主、川村北城主。
1475年、父・広近の隠居により家督を継ぐ。
1487年から斯波義寛に従い、六角高頼征伐(長享・延徳の乱)に出兵した。
1495年、船田合戦では兄・寛広、叔父の織田紀伊守広遠らと共に美濃に出兵、石丸利光を攻めるが、「織田大和守家」当主・織田敏定が布陣中、死亡したことを知り尾張に引き返し、弟・広忠に加勢し寛定を討ち取った。
1544年8月、弾正忠家当主・織田信秀の要請で援軍を送る。
男児がおらず、川村北城を娘婿の岡田伊勢守時常に譲った。
1547年7月頃、出家。

織田広忠
(?-?)
広近の子。与三郎。

織田信家
(?-1582)
信安の子。
子に広長。官位:因幡守。
父・信安が兄・信賢を廃嫡し、信家に家督を継がせようとしたため家督争いが起き、結果、信賢により、父の信安と共に信家は尾張から追放された。
父は美濃斎藤氏に仕え、織田信長に抵抗したが、後に信長に罪を許された。この際に信家は信長の嫡男織田信忠付きの家臣となった。
1582年、信長の甲州征伐に従うが、信濃国高遠城攻略の際に武田方に討ち取られた。

津田正盛
(1583-1661)つだまさもり
織田信安の四男。
子に信明。

(10)家臣

織田信有()岩倉織田氏の四家老の一。信安の弟。七郎左衛門
織田源左衛門()岩倉一門家老衆、軍奉行。
織田広泰()
織田広久()
織田広成()

【2】山内氏
丹波山内氏11代目の山内久豊が嫡男の盛豊とともに丹波を出て尾張に赴き、羽栗郡黒田の郷侍となり岩倉織田氏に仕えた。

山内久豊()
山内盛豊 (1510-1557)岩倉織田氏の四家老の一。尾張黒田城代。
山内一豊()盛豊の子。
山内康豊()盛豊の子。

山内久豊
()

山内盛豊
()
久豊の子。通称:猪之助
岩倉織田氏の家老。

【3】高田氏

高田広知()
高田左京進()

【4】前野氏

前野時綱()四代目当主
前野時基()五代目当主
前野宗氏(-1336)六代目当主
前野宗義(1300-1373)
前野高康(1350-1418)
前野綱宗(1391-1443)
前野守久()
前野時正(1425-1484)
前野長義(1447-1512)時正の嫡男。
前野正義(1489-1556)長義の嫡男。
前野宗康(1489-1560)長義の次男。
坪内忠勝(1502-1569)前野長義の三男。坪内昌家の養子。別名:前野時氏
前野義高(1504-1561) 前野長義の四男。
前野宗吉(1526-1593)宗康の子。別名:小坂雄吉
前野長康(1528-1595)宗康の子。別名:坪内光景
前野勝長(??-1585) 宗康の子。坪内忠勝の養子。別名:坪内勝長
前野為定()坪内忠勝の子。
前野自勝()坪内忠勝の子。
前野忠康(1560-1600)坪内忠勝の子。長康の養子。
前野義康(1530-1609)義高の二男。
前野義詮(?-?)義高の三男。
前野則義(?-1699)義高の子。
前野景定(1566-1595)長康の子。

前野時綱
()
四代目当主

前野時基
()
五代目当主

前野宗氏
(-1336)

前野宗義
(1300-1373)
宗氏の嫡男

前野高康
(1350-1418)
通称:小次郎兵衛
子に綱宗、守久、成住
前野家八代目当主。織田常松に仕える。

前野綱宗
(1391-1443)
高康の嫡男。通称:四郎兵衛
子に時正。
前野家九代目当主。下津城主織田敏広に仕える。

前野時正
(1425-1484)まえのときまさ
綱宗の子。
前野家十代目当主。
織田伊勢守家(岩倉織田家)に仕える

前野長義
(1447-1512)まえのながよし
時正の嫡男。通称:小二郎
子に 前野正義、前野宗康、前野時氏、前野義高、坪内勝定室。
前野家十一代目当主。
織田伊勢守家(岩倉織田家、織田敏信)に仕え、織田信有(六/七郎左衛門、織田信安弟)・稲田修理亮と並び、岩倉三奉行と称された。軍奉行。
1487年9月、足利義尚による第一次六角征伐(長享の乱・鈎の陣)の際には、主君敏信の元で斯波義寛軍に従軍して上洛し、六角行高軍と戦って武功を挙げた。
1491年8月、室足利義材による第二次六角征伐(延徳の乱)の際には、主君の命令で大和守家当主織田敏定に従って斯波義寛軍に従軍・遠征し、武功を挙げた。

前野正義
(1489-1556)まえのまさよし
長義の嫡男。通称:五郎九郎
子に阿久以(森正久室)。
前野家十二代目当主。川並衆に属する。
齋藤義龍による美濃明智城攻めの際、援軍を送る余裕のない織田信長は、犬山織田家の織田信清に救援を要請する。この時正義は、生駒家長(小折城)、中島左衛門尉(小口城)、坪内衆(松倉城)、川並衆の蜂須賀正勝・前野長康、婿の森正久らとともに援軍として差し向けられたが、それらは総勢僅か300余騎だった。この戦いで正義は討ち死。

前野宗康
(1489-1560)まえのむねやす
長義の次男。
子に小坂雄吉(前野宗吉)、前野長康、津弥(稲田植元室)、前野勝長、前野康宗、前野康宗。
前野家十三代目当主。
織田伊勢守家(岩倉織田家、織田信安)に仕え、軍奉行。
1547年、加納口の戦いでは、川並衆らとともに織田信康旗下の最前線に配置され、七曲口を攻めた。
1556年、犬山織田家の援軍として明智城に出陣した兄の前野正義が討ち死にし、前野家の当主となった。
1558年、織田信賢・織田信有らが共謀して信安の追放を謀ると、宗康は信安の身を案じて隠居を献言した。
1559年、織田信長軍が岩倉城へ迫ると、一族郎党率い岩倉城に籠城した。重臣による軍議の際、降伏に反対する織田一門家老の織田信有との対立の末、降伏を諦め最後まで籠城した。このとき、三男の前野勝長や山内一豊らに信賢を城外に脱出させた。

坪内忠勝(前野時氏
(1502-1569)つぼうちただかつ
前野長義の三男。坪内昌家の養子。別名:前野時氏。通称:又五郎。
子に於弥(前野為定室)、前野自勝、前野忠康
養子に前野為定(坪内頼定の子)、坪内勝長(前野宗康の子)、前野時之(山内實通の子)。
1547年9月、加納口の戦いで戦功を挙げ、この戦いで討ち死にした坪内広綱の父である坪内昌家の養子となり、かつての昌家・広綱の居城であった尾張国野府城の城代となる。

前野義高
(1504-1561)まえのよしたか
前野長義の四男。通称:長兵衛
子に 前野長右衛門、前野義康、前野義詮、前野則義、前野五左衛門、土方信治室。
織田信長の弓衆。
元服後は織田家に仕えて幾つもの戦場を駆け抜け、侍大将に取り立てられ、弓衆となる。
桶狭間の戦い後、勝利の勢いに乗って三河国・梅ヶ坪城を攻めた際、奮戦するも討死した。

前野宗吉(小坂雄吉)
(1526-1593)まえのむねよし(おざかかつよし)
宗康の子。別名:小坂雄吉

前野長康(坪内光景)
(1528-1595)まえのながやす
宗康の子。坪内勝定の養子。別名:坪内光景
室は坪内勝定の娘。
子に 刀弥、加弥(前野忠康室)、景定、辰(豊臣秀次側室)、養子に前野忠康(前野忠勝の子)
騎乗の才能を認められて織田信長から駒右衛門という名を賜った。

前野勝長
(?-1585)まえのかつなが
宗康の子。坪内忠勝の養子。別名:坪内勝長
小豆坂の戦いや桶狭間の戦いで活躍した後に佐々成政の家臣となった。
成政とともに越中に攻め入った際、井波城主となり1万5000石を領した。その後、成政の命で越中魚津城・松倉城を攻め落とす(魚津城合戦)。
1584年、成政と前田利家が争った時、朝日山城の戦いや末森城攻めなどで軍功を挙げる(朝日山城の戦い・末森城の戦い)。家老職に任じられるが、病気のため越中新川郡にて没。戦死とも伝わる。

前野為定

前野自勝(坪内宗高)
(?ー?)

前野忠康
(1560-1601)

前野義康
(1530-1609)
義高の二男。通称:喜左衛門。
織田信雄に仕え、信雄家老で従兄弟の小坂雄吉の奉行役となる。
小牧・長久手の戦いの際には、織田・徳川連合軍側について最前線の砦である五丁堀砦を手勢300名で守る。

前野義詮
(?-?)まえのよしまさ
義高の三男。前野清助。
棒術の使い手。小坂雄吉(前野宗吉)の弟子。
出石城家老にまで出世した。長康が秀次事件で連座切腹となった際には、追い腹を禁じられ、京都・伏見の六漢寺にて長康が切腹する際の介錯を務めた。前野姓をはばかり野田義詮を名乗った。その後、浪人ののちに出家して常円と称す。

前野則義
(?-1600)まえののりよし
義高の子。通称:九郎兵衛
棒術の使い手。小坂雄吉(前野宗吉)の弟子。
前野長康に仕える。
関ヶ原の戦いの際には西軍につき、前哨戦である合渡川の戦いで前野忠康隊の一員として戦い、奮戦したが最期は戦死した。

前野景定

【5】堀尾氏
堀尾氏は尾張国丹羽郡御供所の土豪であり、高階氏を称していた。

堀尾泰政()丹羽郡・御供所。織田家家老。
堀尾泰晴(1517-1599) 岩倉織田氏の四家老の一。泰政の長男。
堀尾方泰()泰政の次男。
堀尾吉晴(1543-1611)泰晴の子。

堀尾泰政
()

堀尾泰晴
(1517-1599)ほりおやすはる
泰政の長男、別名:忠助。
岩倉織田氏の四家老の一。
1559年、岩倉城の戦いで主家が滅亡した後の動向は定かではない。

堀尾方泰
()
泰政の次男。

堀尾吉晴
(1543-1611)ほりおよしはる
泰晴の子。
豊臣政権三中老の1人。
羽柴秀吉の家臣:別記事参照。

【6】稲田氏
稲田修理亮()
稲田貞祐(-1553)稲田修理亮の子。別名:稲田大炊助。
稲田景元(1521-1553)貞祐の嫡男。
稲田景継(?-1558)貞祐の二男。
稲田植元(1545-1628)貞祐の三男。
稲田吉勝()貞祐の四男。
稲田示稙(1570-1650)植元の子

稲田修理亮
()
1558年、信賢と謀り、織田信安を美濃国に追放する。

稲田貞祐
(1521-1553)
修理亮の子。
室は前野彦四郎の娘。
織田信長と貞祐が内通しているという讒言を主君・織田信安が信じたため、自刃を命じられた。

稲田景元
(-1553)
貞祐の子。父の後を追って自刃。

稲田景継
(?-1558)
貞祐の次男。
伊勢の戦いで討死。

稲田植元
(1545-1628)いなだたねもと
貞祐の三男。通称左馬亮。室は織田信賢の娘。
父が主君・織田信安から自刃を命じられると、父の朋友であった蜂須賀正勝に預けられた。

稲田吉勝
()

稲田示稙
(1570-1650)いなだしげたね

【3】織田大和守家

尾張守護代である織田伊勢守家の傍流。織田大和守家と呼ばれる。
清州織田氏。

織田常竹()
織田久長()
織田敏定(1452-1495)久長の子
織田寛定()敏定の子
織田寛村()敏定の子
織田達定
織田達勝
織田信友

(1)織田常竹

()
藤原兵庫助将広の子。官位:左京亮、出雲守。
子に 勝久、久長。
兄・常松に代わり下津城で又守護代として在地支配をしていた。

(2)織田久長

()
常竹の子。通称は弾正左衛門。官位:大和守、近江守、兵庫助。法名:常祐。
正室は朝倉教景娘。
子に敏定、常寛、達広、良信、敏信。
楽田城主。
1504年、尾張丹羽郡に楽田城を築城し、居城とした

(3)織田敏定

(1452-1495)おだ としさだ
久長の子。
子に寛定、寛村、敏宗、秀敏
1467年(応仁元年):応仁の乱が起きると、先代の尾張守護・斯波義敏と共に東軍に属した。そのため、西軍に属した「織田伊勢守家」出身の守護代である織田敏広と対立した。
1476年(文明8年)11月:尾張中島郡にある尾張守護所の下津城を攻め、織田敏広とその岳父である美濃国の斎藤妙椿ら岩倉方と戦い、勝利を収めた。
1478年(文明10年)9月9日:応仁の乱が東軍の勝利に終わると、敏定は室町幕府から尾張守護代に任じられる。「凶徒退治」を下命され、これによって敵方であった美濃守護の土岐成頼・斎藤妙椿らの援助を受け、新たに守護所が置かれた清洲城に入城した。
同年12月:織田敏広は清洲城を攻撃し、斎藤妙椿が敏広援護に乗り出してきたため形勢は逆転した。清洲城は一時的に炎上し、敏定は山田郡の山田庄に敗走。敏定はこの戦いで右目に矢を受ける。
1479年(文明11年)1月19日:斎藤妙椿の仲介で両軍は尾張を分割統治することで和睦。
1481年(文明13年)3月:和睦が破れ、伊勢守家と再び争う。その後、織田敏広が死去。
敏広の後を継いだ養子(甥)の織田寛広、敏広の弟・広近らが斯波義寛に帰順し、尾張に平穏が訪れた。
1487年(長享元年):9代将軍・足利義尚による六角高頼征伐(長享の乱)に参陣した斯波義寛に従軍。
1491年(延徳3年)、10代将軍・足利義稙による六角高頼征伐(延徳の乱)でも義寛に従軍し、軍功があったという。
1495年(明応4年)7月:布陣中に死去したという。享年は44

(4)織田寛定

(?-1495)おだとおさだ
敏定の子。通称:五郎。官位:近江守、丹波守。
正室は石丸利光娘。
子に達定、達勝、広孝。
日置城主。
1494年、美濃国守護・土岐氏の家督争い(船田合戦)が起こると、石丸利光の娘を正室に迎えたため、土岐元頼・石丸利光方に味方して、土岐政房・斎藤妙純方の織田伊勢守家当主の織田寛広と戦うが、1495年7月、父が陣中に死去する。
寛定は家督を継ぐが、9月には美濃で討ち死にした。

(5)織田寛村

()おだとおむら
敏定の子。通称:六郎。
1495年5月、土岐氏の家督争いである船田合戦では石丸利光へ援軍を送った。同年9月、父・敏定の跡を継いだ兄・寛定が討ち死にするとその家督を継ぎ、石丸方敗退後も織田伊勢守家と対立を続けた。その後、美濃国の斎藤妙純を仲介に対立していた嫡流「織田伊勢守家」の岩倉城主・織田寛広と和睦した。
 1500年9月、実成寺に寺領安堵したのを最後に文献から寛村の名は途絶え、1503年頃には寛村に代わり、次代・達定が守護代となっているので、その前後に隠居もしくは死去したと思われる。

(6)織田達定

(-1513)おだ たつさだ(みちさだ)
寛定の子。通称:五郎。官位:大和守。
清洲城主。
1513年、義寛の跡を継いだ守護・斯波義達に対して反乱を起こすが敗れて自害する。

(7)織田達勝

(1480-1550)おだ たつかつ(みちかつ)
寛定の子。官位:大和守。
子に 織田信秀正室。養子に信友。
清洲城主。
1513年、兄・達定が尾張守護の斯波義達と争い、殺害された後、家督を継ぐ。清洲三奉行の補佐を受ける。
1532年頃には「織田弾正忠家」当主の織田信秀と争い、同じ三奉行家の「織田藤左衛門家」と共に信秀と戦ったが、後に和睦している。

(8)織田信友

(1516-1555)おだのぶとも
父は織田因幡守家の織田達広。織田達勝の養子。別名:彦五郎、大和守。広信、信豊。
主家・斯波氏の当主・斯波義統を傀儡の守護として擁立した。一方で、信友自身も家臣である坂井氏や河尻氏に家中の主導権を握られていた。
信秀の死後は織田信行(信勝)の家督相続を支持し、信秀の後を継いだ織田信長と対立する。
1552年、萱津の戦いでは、守山城の織田信光に支持された信長に敗れる。
1554年、信友は家老の坂井大膳と図り、斯波氏の家臣の大部分が義統の子・義銀に従って城外に出かけた隙に義統を暗殺した。義銀は信長を頼り逃亡。義銀を擁した信長の反撃を受けた信友は安食の戦いで敗れる。
最期は織田信長の命を受けた織田信光に攻められ、自害した。

(9)一族

織田敏信
(1466-1517)おだ としのぶ
久長の子。通称:左馬助、伊勢守、大和守、備後守。
子に信安、信有、定信、織田信秀側室
1491年、10代将軍・足利義稙による六角高頼征伐のため、敏信は父・織田敏定と共に尾張守護・斯波義寛に従軍した。

織田敏宗
(-)おだとしむね
敏定の子。通称:左馬助。
室は京極常観の娘。
子に 飯尾定宗、永政。
織田信秀に仕える。

織田秀敏
(-)おだひでとし
敏定の子。通称: 玄蕃允。
織田信秀に仕える。

織田広孝
()
寛定の子。

(10)家臣

坂井大膳()小守護代。清洲家四家老。
坂井甚介(-1552)清洲家四家老。大膳の弟。
河尻重俊(-1554)清洲家四家老。別名:河尻左馬丞
織田三位(-1554)清洲家四家老。
川原兵助()

坂井大膳
()
小守護代。清洲家四家老。

坂井甚介
(-1552)
清洲家四家老。大膳の弟。
1552年、「松葉城の戦い」で柴田勝家、中条家忠に討たれた。

河尻重俊
(-1554)
別名:左馬丞、与一。
織田信友に仕える。清洲家四家老。
1552年、「松葉城の戦い」に参陣。
1554年、「安食の戦い」で討死した。
織田信長の命で川尻家惣領職は川尻秀隆が相続した。

織田三位
(-1554)
清洲家四家老。
1554年、「安食の戦い」で斯波義銀の家臣・由宇喜一に討取られ、戦死した。

織田達順
()

【4】織田弾正忠家

織田大和守家の織田敏定の子・良信を祖とする。清洲三奉行家の一。
勝幡織田氏。

織田良信()
織田信定(-1538)
織田信秀(1510-1552)
織田信長
織田信忠
織田秀信

(1)織田良信

()
織田大和守家・織田久長の子。官位:弾正左衛門、弾正忠。備後守。
清洲三奉行家の一つ、織田弾正忠家当主。
正室は京極持清娘。
子に信定。

(2)織田信定

(-1538)
良信の子。官位:弾正忠、弾正左衛門尉。
子に信秀、信康、信正、信光、信実、信次、秋悦院(織田信安室)、女(松平信定室)、女(牧長義室)、おつやの方(遠山景任室のち秋山虎繁室)。
正室はいぬゐの方(含笑院;織田良頼の娘)。側室は月静院殿。
清洲三奉行家の一つ、織田弾正忠家当主。
勝幡城城主。
織田達勝に仕える。
永正年間(1504年から1521年)に勝幡城を築城し、津島の館から拠点を移した。
天文年間初めに嫡男・信秀に家督を譲って隠居した。この際、木ノ下城(犬山城)に移り、勝幡城を信秀に与えたとされる。

(3)織田信秀

(1510-1552)
信定の子。 通称:三郎。
正室は織田達勝の娘。継室は土田御前。側室は織田敏信の娘、養徳院殿(池田政秀の娘)。
子に 信広、信時、信長、信行、信包、信治、信興、秀孝、秀成、信照、長益(有楽)、お市の方(浅井長政継室のち柴田勝家室)、お犬の方(佐治信方室のち細川昭元室)
清洲三奉行家の一つ、織田弾正忠家当主。
勝幡城城主。

(4)一族

[1]信秀の兄弟

織田信康
(1512頃?-1544)おだ のぶやす
信定の次男。
下記、織田信康の一族(犬山織田家)参照

織田信正(掃部頭)
()おだかもんのかみ
※同姓同名アリ
信定の庶子(信康の子とも)。官位:掃部頭。
子に織田信和。
丹羽郡楽田城主。

織田信光
(1516-1556)おだのぶみつ
信定の三男。
下記、織田信光の一族(守山織田家)参照

織田信実
(1520頃?-)おだのぶざね
信定の四男。通称:四郎次郎。
養子に信昌(織田信光・二男)

織田信次
(1532頃?-1574)おだのぶつぐ
信定の五男。通称:孫十郎。官位:右衛門尉
1555年5月、織田信友が信長によって滅ぼされ、兄・信光が守山城から那古野城へ移ると、後任の守山城主となった。
しかし、川狩りの最中、無礼な態度をとった若者に対し、信次の家臣・洲賀才蔵が怒って弓で射殺した。ところが、その若者は信長の弟・織田秀孝であり、遺体を見て驚愕した信次はそのまま逃亡した。
信長の異母弟・織田信時が後任の守山城主を務めたが、重臣の角田新五の謀反に遭い自害したため、許されて守山城主に戻った。
1574年、第三次長島一向一揆攻めに参加。討ち死。
家老に角田新五・坂井喜左衛門・丹羽氏勝。

[2]信長の兄弟

織田信広
(1528?-1574)おだのぶひろ
信秀の庶長子。

織田信時
(-1556)おだのぶとき
信秀の庶子。秀俊とも。官位:安房守
室は善応院(荒尾善次娘、後に池田恒興正室)
子に康長、女(飯尾敏成室→下間頼龍室)
蓄電した織田信次に代わって守山城主となる。
家臣の角田新五に裏切られ、自刃する。

織田信勝(信行)
(1536-1558)おだのぶかつ
信秀の子。通称:勘十郎。信勝→達成→信成
母は土田御前。
子に信澄、信糺、信兼
父・信秀の死後は末森城主となる。柴田勝家、佐久間大学、佐久間次右衛門ら弾正忠家の重臣が付されていて、信長が当主として括弧した地位を確立できたわけではなかった。
1555年6月、弟・秀孝が叔父・信次の家臣・洲賀才蔵に誤殺された際、信行は、信次の居城・守山城の城下を焼き払わさせた。
代わって守山城主となった信時が、守山城年寄衆・角田新五によって殺害されるが、処罰を受けることなく、後の稲生の戦いでは信行の側について参戦していることから、信時暗殺に信勝が関与している可能性も疑われる。
1556年、長良川の戦いで斎藤道三が死亡すると、同年8月、信勝は林秀貞・林美作守・柴田勝家らとともに、信長と敵対する態度を明らかにする。
稲生の戦いで信勝は敗北、母のとりなしで赦免される。
1558年、柴田勝家などに見限られ、謀反の企てを密告され、信長に謀殺される。

織田信包
(1543-1614)

織田信治
(1544-1570)おだ のぶはる
信秀の五男。子に柘植正俊。
尾張野府城主。
1570年、浅井・朝倉連合軍が宇佐山城に迫ってきた際、信治は京都から2000の援兵を率いて救援に駆け付けた。森可成、青地茂綱と共に宇佐山城から出て浅井長政・朝倉義景の連合軍と近江坂本で戦ったが(宇佐山城の戦い)、可成、茂綱と共に戦死した。

織田信興
(-1570)おだのぶおき
信秀の七男。
1565年、信長の命で滝川一益と共に出兵し、弥富服部党の当主・服部友貞不在を狙って攻め立て勝利する。鯏浦城・小木江城(古木江城)を築き、以後は小木江城を拠点とし、伊勢長島と対峙する。
1570年11月、信長が石山本願寺などの信長包囲網にさらされると、信興の小木江城も尾張・伊勢長島一向一揆衆によって囲まれた。このとき、信長は浅井長政や朝倉義景らと比叡山で対峙し、近隣の桑名城にいた滝川一益も一揆勢の侵攻により籠城していたため、援軍を送ることができなかった。
信興は孤立無援の中で奮戦するも、落城。自害した、

織田秀孝
(1541-1555)おだひでたか

織田秀成
(-1574)
信秀の九男。津田信成。
1574年7月の伊勢長島攻めにおいては信長の嫡男・信忠の供衆として従軍した。一揆勢の捨て身の反抗に遭い、戦死。

織田信照
(1546-1610)
信秀の十男。官位:越中守
遠江国二俣城城主・中根忠貞(和泉守)の養子となり越中守を称した。
信長が死去した後は次兄・織田信雄の家臣となった。

織田長益(有楽)
(1547-1622)
信秀の十一男。

織田長利
(-1582)おだながとし
信秀の十二男。通称:又十郎。津田長利

[3]織田信康の一族(犬山織田家)

織田信康
(-1544)おだのぶやす
信定の子。通称:与次郎(與次郎)
子に 信清、広良、与一、信武、織田信張正室ら。養子に信時。
1537年、犬山城に入城。織田伊勢守家・織田信安の後見役を務めた。
1544年、加納口の戦いにて戦死。

織田信清
(?-?)おだのぶきよ
信康の子。通称は十郎左衛門、下野守。
室は 犬山殿(織田信秀娘)。
子に津田信益。
犬山城主。
1558年7月、浮野の戦い・岩倉城攻略で信長を支援したが、織田信賢の旧領地の分与を巡って信長と諍いを起こし、1562年、斎藤義龍と結び反旗を翻し、楽田城を奪う。しかし、信長軍に支城を次々に攻め落とされ、1564年5月には居城の犬山城も陥落し、甲斐国へと逃亡、甲斐武田氏の許で犬山鉄斎と称した。

織田広良
(?-1562)おだひろよし
信康の子。與康、信益。通称:源三郎、勘解由左衛門。
美濃国十九条城主。
1562年、十四条の戦いで斎藤方の野々村正成に討ち取られた。

柘植与一
(1541-1609)つげよいち
信康の六男。柘植友顕(柘植玄蕃)の養子。通称:大炊助。
室は坪内宗之こと前野自勝の娘。

織田信武
()
信康の庶子。松長信正。
後に徳川家康に仕え、1598年、家康より松長の名字を与えられ、松長三郎信正を名乗った。

津田信益
(-1633)つだのぶます
信清の子。通称:源十郎
父は生涯信長と敵対したが、信益は罪を赦され、1581年、連枝衆として馬揃に加った。1582年、「本能寺の変」では、蒲生賢秀らとともに安土城留守役を務めた。のち羽柴秀吉に仕えた。

[4]織田信光の一族(守山織田家)

織田信光
(1516-1556)おだのぶみつ
信定の子。通称:孫三郎。
子に 信成、信昌(織田信実の養子へ)、仙千代。
守山城主。
小豆坂七本槍の一人として名を馳せた。
1535年、居城・守山城を松平清康に攻められるが、清康が重臣の阿部正豊に殺害されたことにより松平勢は撤収した(守山崩れ)。
家督を継いだ甥の織田信長を支持し、萱津の戦い、村木砦の戦いなどで活躍した。
信長と敵対する織田大和守家当主・織田信友の重臣・坂井大膳の誘いに応じるふりをし、1555年4月19日に清洲城に入城。翌20日、信友を謀殺して清洲城を奪った。
信長に清洲城を渡すと、自身は信長より譲られた那古野城に入ったが、1556年1月に不慮の死を遂げた。近臣・坂井孫八郎により殺害されたという。

織田信成
(-1574)
信光の子。
室は小幡殿(織田信秀七女)。
子に正信、光徳院。
父の死後、小幡城主となるが、同城はしばらく後に廃城となった。
1574年9月、第三次長島攻めに参加。討ち死。

織田信昌
(-1574)
信光の子。信実の養子。通称:四郎三郎。
子に 津田長義、女(森高次室)。
信包に仕えた。
1574年8月、第三次長島攻めに参加。討ち死。

織田正信
()

津田長義
()

[5]その他

織田信和
(?-1592)
信正の子
子に信直、重成、伊崎宗悟室、伊藤権兵衛室。

織田信直
(?-1592)
信和の子

織田重成
(?-?)
信和の子。
重成流織田家初代。

(5)信秀の家臣

織田定信
織田光清
織田達種
織田頼秀
伴九郎兵衛
滝川勝景
矢野寛倫
矢野勝倫
雑賀右京進
斎藤勝秀
小瀬秀実

[2]津島衆

四家七党
四家:大橋、岡本、山川、恒川
七党:堀田、平野、服部、鈴木、真野、光賀、河村

[3]織田信長の付家老

林秀貞
平手政秀
青山秀勝
内藤勝介

林氏・平手氏については別記事参照

(2)青山氏

青山秀勝(1507-)
青山秀昌(小助)
青山昌起(新七)
青山吉次(与三)

[4]織田信勝の付家老

柴田勝家(権六)
佐久間盛重(大学)
佐久間次右エ門(盛次か?)
長谷川宗兵衛
山田弥右衛門

【5】織田藤左衛門家

織田大和守家の織田久長の子・常寛を祖とする。清洲三奉行家の一。
小田井織田氏。

①織田常寛(-1506)
②織田寛故(-1550)
③織田寛維(1520-1542)
④織田信張(1527-1594)
織田信直(1546-1574)
⑤織田信氏
⑥織田忠辰

(1)織田常寛(久孝)

(-1506)おだつねとお/じょうかん
織田大和守家・織田久長の次男。官位:丹波守。別名:弾正左衛門。織田丹波守久孝。
子に寛故。
於田井城主(初代)。清洲三奉行の一つ、織田藤左衛門家当主。
織田良頼(筑前守)と同一人物?
そうであれば子に含笑院(いぬゐの方)。

(2)織田寛故

(-1550)おだとおもと
常寛の子。通称:藤左衛門尉、兵部大輔。
正室:玉堂殿(斯波氏娘)
子に寛維、福富貞嗣室、津田元信室、信張(寛廉)、常知、梁田教貞室
於田井城主(2代)。清洲三奉行の一つ、織田藤左衛門家当主。
子・寛維に家督を譲るが、寛維の死後、再び城主になる。

(3)織田寛維

(1520-1542)おだとおふさ
寛故の子。通称は藤左衛門尉。
於田井城主(3代)。清洲三奉行の一つ、織田藤左衛門家当主。
1542年、大垣城攻めに参戦し、討ち死。

(4)織田信張

(1527-1594)おだのぶはる
寛故の子。寛廉→信純→信張→信弘
織田信長に仕えた際、偏諱を受け信張と名乗った。
正室は織田信康娘。
子に信直。
於田井城主(4代)。清洲三奉行の一つ、織田藤左衛門家当主。
1577年、紀州雑賀攻めなど、主に紀伊方面を担当。和泉国佐野砦を任されていたが、その後、岸和田城へ移り和泉半国を領し、信長直轄軍の一員として働いた。本能寺の変後は織田信雄に仕えた。
1587年、佐々成政が肥後国の検地に失敗し切腹を命じられた際には、豊臣秀吉より八代城を与えるとの命があったが、信張はこれを固辞した。

(5)織田信直

(1546-1574)おだのぶなお
信張の子。
正室は 織田信秀六女・栄輪院。
子に信氏、忠辰、娘。
1574年7月、第三次長島攻めに従軍。同年9月29日、討ち死。

(6)織田信氏

(-1584)おだのぶうじ
信直の子。
子に津田清幽。
於田井城主。
1574年9月、伊勢長島で父・信直が討ち死、後を継いで小田井城主となった。翌年、父の死の償いとして小田井に3万6,000貫の知行を得た。
1582年、本能寺の変後は、織田一族を束ねた織田信雄に属したが、1584年6月2日、祖父よりも先に死去。家督は弟・忠辰が継いだ。

(7)織田忠辰

(1572-1613)おだただとき
信直の嫡男。通称:兵部大輔
室は村上頼勝の娘。
子に津田信番、津田知信、津田宗元。
於田井城主。
織田信忠、信雄に仕え、1584年に起こった小牧・長久手の戦いの後、羽柴秀吉によって於田井城を追われた。
のちに罪を許され、豊臣秀吉、秀頼に仕えた。

(8)楽田織田氏

織田寛貞
()
常寛の子。通称:筑後守。
織田藤左ヱ門家庶流。楽田織田氏当主。
1548年、犬山城主織田信清と共謀し、織田信秀と対立。
1562年、信清に攻められ城を失い、没落。

織田忠寛
(-1577)おだただひろ
寛貞の子。織田掃部、津田一安
子に忠遼、信昌。
信長に仕える。

織田忠遼
()
忠寛の子。

(9)一族

津田清幽
()
信氏の子。

津田信番
()
忠辰の子。

津田知信
(1598-1644)つだとものぶ
忠辰の子。

津田宗元
(159-1654)つだむねもと
忠辰の子。

【6】織田因幡守家

清洲三奉行家の一。

織田広長()織田常竹の子か?
織田広貞(-1488?)広長の子。
織田広延()広長の子。
織田達広(-1547?)広延の子。

織田達広
()
広延の子。
子に織田信友(織田大和守家当主)、

【7】織田信長の一族

織田弾正忠家の当主であった織田信長が尾張国を統一した。

(1)織田信長

(2)織田信忠

(3)織田信雄

(4)織田信孝

幸田 孝之(彦右衛門)
岡本良勝

与力大名
関氏   関盛信
峰氏   峰広政
鹿伏兎氏 鹿伏兎左京亮

(5)織田信勝(信行)の一族 

織田信澄
(1555-1582)
信勝(信行)の子。津田信澄
子に 昌澄(信重)、元信

織田信糺
()
信勝(信行)の子。通称:勝三郎。津田信糺
母は春田刑部の娘
織田信雄、後に蜂須賀家政に仕える。

織田信兼
(-1583)
信勝(信行)の子。通称:新八郎
織田信孝に仕える。信孝が自害したときには殉死した。

(6)織田信包

織田信重

織田信則

織田信当


【8】尾張の武将たち

[8-1]川並衆


川並衆とは、尾張国と美濃国の境を流れる木曽川沿いに勢力を持ったとされる土豪の総称。『武功夜話』にのみ記されており、当時これら国人衆を川並衆と称した歴史的事実は無い。

(1)蜂須賀氏

蜂須賀氏は斯波氏の支流として清和源氏の末裔を称し、尾張守護の斯波義重に従って尾張国に入り、海東郡蜂須賀村を代々領した。

蜂須賀正永()
蜂須賀正忠()正永の長男
蜂須賀正利(-1553)正永の次男
蜂須賀正刻()正忠の子。
蜂須賀正勝(1526-1586)正利の子。
蜂須賀家政()正勝の子。
蜂須賀至鎮()

蜂須賀正利
(-1553)
蜂須賀正成の次男。
斯波氏の凋落後は、正利は美濃国の斎藤道三に従ったが、一時期、織田信秀に従ったことがあり、信秀と不仲になって蜂須賀城を追われ、尾張宮後村(宮後城)に住むようになり、再び道三に与したという

蜂須賀正勝
(1526-1586)
正利の子。通称は小六。
1553年、父の死後、正勝は郷里を出て斎藤道三に近侍した。
初名の利政も道三より偏諱を受けたものらしい。
1556年、道三と斎藤義龍が争った長良川の戦いでは、道三側について首級を上げた。
道三死後は尾張国の岩倉城主・織田信賢に仕え、翌年、岩倉城で反乱があった際に鎮圧に貢献して賜衣を授けられた。しかし信賢は織田信長と犬山城主・織田信清の連合に攻められ、敗れて降伏。このため正勝は信清に一時的に仕えるが、信清も信長と不和となって1564年に甲斐国へ亡命したので、信長に仕えるようになって、この頃、蜂須賀郷に戻った。
(つづく)

(2)加賀富樫氏流・坪内氏


加賀国富樫郷より尾張国に赴き、犬山織田家に仕え、松倉城を築城し、城主となり始めて正式に坪内氏を称す。

坪内頼定(?-?)尾張国松倉城主。
坪内友定(?-?)
坪内兼光(前野為定)(?-?)
坪内勝定(1516-1609)
坪内利定(1539-1610)
坪内澄定(前野澄定)(-1612)
坪内定時(前野定時)(-1593)
坪内家定
坪内定次
前野辰定

坪内頼定
(?-?)
富樫基定の子。通称:藤左衛門
子に友定
尾張国松倉城主。
加賀国の守護大名・富樫氏の一門衆である富樫基定の子に生まれる。
尾張国に赴き、犬山織田家初代・織田信康に仕え、尾張国葉栗郡に松倉城を築城する。

坪内友定
(?-?)
頼定の子。通称:対馬守
子に 為定、勝定、重定
尾張国松倉城主。坪内氏二代目当主。

坪内兼光(前野為定)
(?-?)
友定の子。前野自唯。通称:惣兵衛。
子に田中加右衛門室、若原監物室。養子に前野自勝、坪内勝定。
坪内氏三代目当主。兵法者としても知られる。
 初め犬山織田家の織田信康・信清の家臣で、松倉城の坪内衆や川並衆と呼ばれる集団に属していた。
 しかし、信長の美濃攻略の際には木下藤吉郎に協力し、新加納に砦を築き、坪内家一門衆を説得して墨俣築城に協力させた。
 さらに小坂雄吉の協力も得るため説得するが失敗。二度目は蜂須賀正勝から預かった書状を持って雄吉のもとへ説得に行き、協力を得た。
 この時互いに協力して説得に行った前野時氏の娘を妻にし、養子となって前野為定を名乗る。坪内家の家督は弟の勝定に譲った。
 時氏のもう一人の子である前野自勝を養子とし、為定は前野自唯と改めた。

坪内勝定
(1516-1609)
友定の子。
室は坪内昌家娘、生駒右近妹、前野長義娘
子に女(坪内光景(前野長康)室)、利定、澄定(前野澄定)、定時(前野定時)、坪内半兵衛室、坪内守定、武山善兵衛室。
坪内氏四代目当主。
1559年、拾阿弥を斬殺して罪に問われていた前田利家を庇い、自らの松倉城にしばらく匿ったという。
1566年、尾張国葉栗郡松倉城にいた勝定は、木下藤吉郎から墨俣築城の一件で相談を受ける。兄・為定やその養父・前野時氏(忠勝)と話し合った結果、蜂須賀正勝率いる尾張国の土豪の蜂須賀党の協力を得るべきだという意見で一致する。蜂須賀党のいる宮後城を訪ねに行ったのは、藤吉郎と弟・木下小一郎、前野時氏、勝定と嫡男の坪内利定らで、正勝は勝定らの願いを受け入れ、墨俣築城に協力することを承諾した。

坪内利定
(1539-1610)
勝定の子。通称:喜太郎、坪内玄蕃
子に家定、定安、正定、秀定、安定、行定、定令、浅井直元室ら。
信長の死後、秀吉と不和となり、1584年の小牧・長久手の戦いでは秀吉の直臣としてではなく、秀吉方に属した金山城主・森長可の下に付く。
しかし、長可が戦死したために浪人となり、1590年に徳川家康に召しだされて仕え、上総国・武蔵国において3,400石を領した。

坪内澄定(前野澄定)
(-1612)
坪内勝定の三男。
室は稲葉通勝娘
子に前野辰定
初め兄の坪内利定らとともに木下藤吉郎に仕える。
豊臣政権の誕生による天下統一の後には池田輝政の家臣となり、知行1,500石を賜る。

坪内定時(前野定時)
(-1593)
勝定の子。
前野家に仕え、前野小平太定時を称す。
文禄の役で戦死。

坪内家定
(1564-1648)
利定の子。
定次、前野自勝室の子。

坪内定次
(1596-1673)
家定の次男。
1610年、2代将軍・徳川秀忠に拝謁して小姓組に列し、300石を拝領。
秀忠直轄として近侍し、大坂の陣に従軍して武功を挙げる。
1626年の秀忠上洛にも供奉している。
1633年、甲斐国に500石を拝領して御徒頭に昇進したが、1641年に徳川家光の勘気を被り、半年逼塞した。
1644年2月に御先鉄砲頭、同年12月に持筒頭に栄進。
1663年に致仕し、1673年、死去。

前野辰定
(-1659)
坪内澄定の子。
子に 定辰
大坂の陣では蜂須賀家政に召し出されて、蜂須賀至鎮旗下で戦った。
1615年9月、阿波国名西郡南嶋村に知行400石を賜った。

(3)尾張富樫氏・坪内氏


尾張富樫氏の始祖である富樫長泰(富樫氏6代当主・泰家の子)の子孫。

坪内昌家()尾張国坪内城主。
坪内広綱()

坪内昌家
(?-?)
坪内以有の子。
子に広綱、娘(坪内勝定室)。養子に坪内忠勝(前野長義の子)
尾張国坪内城主。昌家の祖先は尾張富樫氏の始祖である富樫長泰(富樫氏6代当主・泰家の子)であると言われる。
野府城を築城し、子の広綱を城主とする。
広綱は、1547年9月加納口の戦いに出陣し討ち死する。
跡継ぎを失った昌家は、坪内家の娘を妻に迎えている前野又五郎忠勝を養子に迎え、野府城の城代とした。
娘は加賀富樫氏系坪内氏の坪内勝定に嫁いだ。

坪内広綱
()
昌家の子。
尾張国坪内城主。
1547年9月加納口の戦いに出陣し討ち死する。

(4)松原氏


松原内匠

松原内匠
(1530-1604)
松原氏は境川沿いの国人(川並衆)。松原島の亘利城を拠点とし境川沿いの葉栗郡11ヶ村を根拠地としていた。
当初は土岐頼芸に仕えていたが、土岐氏の衰退に伴い斎藤道三に仕えた。
 1544年、織田信秀と斎藤道三の戦い(松山の合戦)の際、斎藤道三の密命で、兄・源吾と協力して、土岐八郎頼香を無動寺城で自害に追い込む。
 1564年頃、木下藤吉郎と出会う。
 1566年、木下藤吉郎による墨俣城築城の際、大工棟梁を任じられ、重要な役割を果たす。
 1567年、家督を兄・源吾より譲られ亘利城主となった。
 1585年に発生した大洪水により木曽川の流れが一変、この洪水で亘利城と松原氏の領土に大きな被害を受けることとなり、翌年には亘利城は廃城される。以降は被害の少なかった領土の開墾に力を入れ、拠点も野中に移した。  1595年、松原島で隠居。松原氏の領土は関ヶ原の戦い以降旗本・坪内利定の領土となる。

(5)日比野氏
日比野六大夫

[8-2]その他

(1)奥田氏

奥田氏種()斯波満種の子。
奥田直種
()氏種の子。
奥田秀種(1503-1557)斯波政敏の子、奥田直種の養子
奥田直純
(1523-1571)秀種の子。
奥田政次(堀直政)
(1547-1608)直純の子。
堀直清
(1573-1641)
堀直寄
(1577-1639)
堀直之
(1585-1642)
堀直重
(1585-1617)

奥田秀種
(1503-1557)
斯波政敏の子、奥田直種の養子。満長(初名)→満利→秀種。
子に直純。

奥田直純
(1523-1571)
秀種の子。通称:七郎五郎
正室:堀利房の娘
子に堀直政
美濃国茜部に500貫文の地を領し、斎藤義龍に仕えた。
義龍が父道三と戦った際、怪力無双を謳われた道家孫次郎と戦いその首を討ち取った。これにより世人は直純を悪七郎五郎と呼んだという。
義龍の死後は織田信長に仕えた。

奥田政次(堀直政)
(1547-1608)
奥田直純の子。政次→直次→直政。通称:三右衛門、監物。
正室:堀秀政の娘、朽木元綱の娘
子に直清、直倶、直寄、直之、直重、直里、直忠

堀直清
(1573-1641)

堀直寄
(1577-1639)

堀直之
(1585-1642)

堀直重
(1585-1617)

(2)生駒氏

藤原良房(忠仁公)の子孫が大和国平群郡・生駒の地に移り住み本拠とするようになり、後に生駒を名乗るようになった。室町時代に応仁の乱の戦禍から逃れるため、家広の頃尾張国丹羽郡小折の地に移住したと伝えられる。
灰(染料用)と油を扱い馬借として商い財を蓄えた武家商人だった。

生駒家広()為義の子。
生駒豊政()家広の子。
生駒親重(-1570)土田秀久の子、生駒豊政の養子。家督を継ぐ。
生駒親正(1526-1603)親重の子。土田生駒氏当主。
生駒一正(1555-1610)親正の子。土田生駒氏当主。
生駒正俊(1586-1621)
生駒正信(-1615)
生駒正房()
生駒家宗(-1556)豊政の子。尾張生駒氏三代当主。小折城主
生駒家長(-1607)家宗の子。尾張生駒氏四代当主。
生駒善長()阿波生駒家初代当主
生駒利豊()家長の子。五代当主。

生駒親重
(-1570)
土田秀久の子、生駒豊政の養子。別名:土田政久
母は生駒家広の娘。
織田信康に仕えた。
生駒豊政の養子となり、生駒家の家督を継ぐ(土田生駒氏)。

生駒親正
(1526-1603)
親重の子。
子に一正。
 1566年、織田信長の美濃攻めに際してその臣下となる。その後は羽柴秀吉付属の武将に任じられ、金ヶ崎の戦い、長篠の戦い、石山本願寺攻め、紀伊国雑賀攻めなどに参加した。
 1582年の信長死後は秀吉の家臣となり、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、小田原征伐、文禄の役などに参加して活躍。
 姫路城主時代の秀吉に仕えていた1578年の約1000石からはじまり、1584年に2000石加増、1585年に2万3500石、1586には播磨国加里屋6万石と着々と知行を増やした。
 1595年には讃岐国12万6千200石を与えられ高松城と丸亀城を築城し城下町の形成に着手した。
 秀吉の晩年には、中村一氏や堀尾吉晴と共に三中老に任じられて豊臣政権に参与したが、三中老の制度は後世に作られたとも言われる。
 1600年の関ヶ原の戦いでは、子の一正は東軍に与し、親正は在国していたが西軍に与して丹後国田辺城攻めに家臣を代理として派遣した。
 戦後、高野山に入った。

生駒一正
(1555-1610)
親正の子。
正室:堀秀重の娘、側室:於夏
子に 正俊、正信、正房、入谷盛之、山里、近藤政成正室
五代生駒氏五代当主。

生駒正俊
(1586-1621)
正室:藤堂高虎の養女
一正の長男。
1610年、一正の死により家督を相続する。
子に高俊、藤堂高義室、天正院、藤堂長正正室、正慶

生駒正信
(-1615)

生駒正房
()

生駒家宗
(-1556)
豊政の子。通称蔵人。
子に家長、久庵桂昌(土田弥平治室、後に織田信長室、俗名:吉乃)他
小折城主。尾張生駒氏当主。
豊政は土田政久(生駒親重、信正、甚助)を猶子として生駒家の家督を譲ったので、豊政の男子は本家を継げなかった。
信康とその子の織田信清に仕えた。

生駒家長
(-1607)
家宗の子
子に善長、利豊、慈光院(蜂須賀家政室)
小折城主。尾張生駒氏当主。
はじめ織田信清に仕えた。後に織田信長に仕える。
本能寺の変後は、信長の次男織田信雄に仕え、1300貫文を領した。
信雄が追放されると浪人し、豊臣秀吉に仕え1590年、秀吉の小田原征伐に従軍。秀吉死後、徳川家康の四男松平忠吉の尾張入府の案内を任された際、そのまま尾張国に留まって家臣となり、1954石を知行した。

生駒善長
(1573-1642)
家長の子。
子に 言慶、津田正俊室、永見吉長室。
伊勢国北畠家執権、山崎兵部少輔の婿養子となる。北畠家の滅亡後、織田信雄の従兄弟であったことから所領5000石はそのまま安堵されるも尾張国小折に戻った。
1591年、信雄が改易された後は、信雄の嫡子秀雄に仕える。
1610年、秀雄が没すると松平忠直に1500石にて召抱えられる。
1614年、大坂冬の陣では出陣を願うも、年長者が善長しかおらず忠直の母の警護にと懇願されたが、戦後の論功行賞で無禄であったため、暇を願い出る。
蜂須賀家政、至鎮父子から御伽衆として招かれ、徳島藩中老、阿波生駒家の祖となる。隠居後は盛庵と号し500石を給わる。
家督は次男の言慶が継いだ。
1620年、忠直より4000石にて再仕官を懇願されるも辞退し、阿波国に留まる。

生駒利豊
(1575-1670)
家長の四男。尾張生駒氏当主。
子に肥田忠重室
幼い時より豊臣秀次の近くに仕え、小田原征伐に16歳で従軍した。
秀次が自刃したのちは豊臣秀吉に仕えた。
1600年、関ヶ原の戦いでは、福島正則の陣に属して戦う。
1601年、松平忠吉の家臣となった。
1607年、松平忠吉が夭折すると次に襲封した徳川義直の家臣となった。
1670年、96歳で没する。男子無く断絶、外孫(娘の子)の生駒利勝が家督を継いだ。

(3)小坂氏


小坂吉政
小坂行宗()前野俊平の子。柏井城(吉田城)二代目城主。
小坂吉俊()行宗の子。柏井城(吉田城)三代城主。
小坂正高()
小坂正氏(-1556)吉俊の長男。柏井城(吉田城)四代城主。
小坂正吉()吉俊の二男
小坂雄吉()前野宗康の子。柏井城(吉田城)五代城主。

小坂吉政
()
正室:佐登(毛受頼勝妹)
女(小坂行宗室)
但馬国出石郡小坂郷に出生。
山名氏に仕えたが、応仁の乱の頃に京都へ出た後に織田敏定の家臣になり尾張国に入った。
柏井城を築城した(吉政が姓を吉田に改めたことから、吉田城と呼ばれるようになった)。
男子がいなかったため、尾張国丹羽郡・前野村の土豪・前野家の前野正俊の子・前野行宗と長女を養子縁組させて小坂家を継がせた。

小坂行宗(前野行宗)
()
前野俊平の子。
室:小坂吉政娘
子に 小坂吉俊、小坂正高、前野俊行
尾張国柏井城(吉田城)二代目城主。

小坂吉俊
()
行宗の子。通称、源九郎。
子に正氏、正吉、妙善(前野宗康室)。
柏井城(吉田城)三代城主。

小坂雄吉
(1552-1593)
前野宗康の子。
幼少期は吉田城で育ち、修験者であった覚然坊から棒術を習った。身長は約180cmある大男だったといわれている。その後、織田信長に家臣として仕える。

(4)簗田氏

簗田政綱(出羽守)尾張簗田家
簗田広正(左衛門太郎)(-1579)
簗田長教(-1582)広正の子
梁田正勝(-1652)
梁田直次(-1683)

簗田政綱
(-1573頃?)
子に広正(正次)
春日井郡九之坪城主。
織田信秀・信長父子に仕えた。
桶狭間の戦いの戦功によって3,000貫文の知行と沓掛城を与えられた。

簗田広正
(-1579)
政綱の子。通称:左衛門太郎、別喜右近大夫。
子に長教
別喜姓を下賜される。

簗田長教
(-1582)

梁田正勝
(-1652)
広正の子か?
子に直次
1595年、徳川家康に仕え、3代将軍家光の代まで出仕した。大番を務め400石を領した。

(5)岩崎丹羽氏

岩崎丹羽家の祖は一色丹羽氏で、一色氏明が尾張丹羽庄に定着し、地名をとり丹羽氏を称した。なお、同じ織田家臣の丹羽長秀の児玉丹羽氏とは血縁関係はない。

丹羽氏員()
丹羽氏興(-1536)氏員の子。本郷城主
丹羽氏清(1485-1560)
丹羽氏識(1497-1565)
丹羽氏勝(1523-1597)
丹羽氏次(1550-1601)
丹羽氏重(1569-1584)
丹羽氏資()
丹羽氏信()
藤島丹羽氏
丹羽氏秀()藤島城主。丹羽氏員の子・右京進の子

丹羽氏興
(-1536)
氏員の子。
子に氏清。
尾張国本郷城2代城主
織田敏定のち織田信定に属し、本郷城に住む。
弟に右京進がおり、藤島に分家して藤島城を築城した。

丹羽氏清
(1485-1560)
氏興の子
子に氏識
尾張国本郷城3代城主にして、同国岩崎城初代城主。
1521年に先代氏興に代わり本郷城主になる。
1529年、三河岡崎城主・松平清康と、織田信秀の属将・荒川頼宗との間で岩崎の戦い(享禄の戦い)が起こる
天文年間に尾張・三河国双方の要害の地である岩崎の地に城を築き、移り住む。

丹羽氏識
(1497-1565)
氏清の子。
子に氏勝、上田近正(近次)、氏常(氏国)、氏種、氏俊
尾張国岩崎城主。
従兄弟の尾張藤島城主・丹羽氏秀と対立し、たびたび戦う。氏秀は織田信長に援軍を求め、1551年に尾張愛知郡・横山で氏識らと対決した。氏識はこれを破り、藤島城も領することとなった。
その後、岩崎が尾張・三河国双方の要害の地であったため、織田信長・徳川家康の双方から臣下としての誘いを受けるが、信長が横山の戦いで氏秀に援軍を送っていたため信長の誘いを断って家康につき、三河国の乙尾・一色・赤羽根の三ヶ所を与えられた。信長と家康が和睦して清洲同盟を結んだ後は信長の臣下となるが、三河国の所領はそのまま安堵された。

丹羽氏勝
(1523-1597)
氏識の子。通称:右近大夫
継室:織田信秀娘
子に氏次、氏重、加藤忠景室
尾張国岩崎城主。守山城主・織田信次の家臣。後に信長の直臣となった。
守山城主・織田信次の家臣・洲賀才蔵が織田信長の弟・秀孝を殺害する事件が起こる。信次は信長の怒りを恐れ逃亡したが、信次の家老衆である角田新五・坂井喜左衛門・丹羽氏勝らは守山城に立て篭もる。
守山城下は秀孝の兄・織田信行の兵に焼き払われ、守山城は信行方・柴田勝家・津々木蔵人、信長方・飯尾定宗父子らに包囲された。
この時、信長家臣の佐久間信盛が信長の異母弟・信時を守山城主にすることを進言。事態は収まった。
角田新五が信時を切腹に追い込むと、丹羽氏勝は共に城に立て籠った。その後、守山城は信長に帰参を許された信次が城主に返り咲く。
1569年、伊勢大河内攻めに加わる。1570年6月、姉川の戦いに参戦したのち、同年8月、野田・福島攻城戦の一員になる。同年9月、浅井・朝倉軍挙兵の報に接し坂本に移動。そのまま比叡山の攻防にも加わる。1575年、越前攻めに参戦。1577年2月、信長に従って紀伊国雑賀攻めに加わる。
1580年、8月、林秀貞・安藤守就と共に、突然信長より追放される。
信長の死後には次男・氏重の居城である傍示本城に戻り、余生を過ごした。

丹羽氏次
(1550-1601)
氏勝の長男。
子に氏資、氏信、女(小坂雄吉室)
1580年に父・氏勝が信長の勘気を被って追放されているが、氏次には影響は及ばなかったようで、以後、織田信忠の家臣として仕え、1582年の甲州征伐では木曾義昌・織田長益らと共に信忠軍団の一員として武田領内へ侵攻している。
本能寺の変で信長が死去した後はその次男・信雄に仕えたが、信雄の勘気を被ったため、1583年に徳川家康の家臣となった。
その後、家康の取り成しで再び信雄に仕え、伊勢国内に7千石を与えられた。
小田原征伐後に信雄が改易されると、再び家康の下で仕えようと豊臣秀吉に懇願したが、秀吉の命により豊臣秀次に仕えることとなる。
1600年)の関ヶ原の戦いでは氏次は東軍に属し、家康より尾張・三河を結ぶ重要拠点・岩崎城の守備固めを命じられる。三河国伊保に1万石を与えられた。

丹羽氏重
(1569-1584)
氏勝の次男。
1584年の小牧・長久手の戦いで、兄・丹羽氏次は徳川家康に従軍したため、氏次に代わって尾張岩崎城を守備。氏重は痘瘡(天然痘)を患っていたが[、豊臣秀吉軍・池田恒興らが率いる部隊が奇襲を企て、城の前を通過すると、小牧山に知らせを届けるため討死覚悟で一戦を挑んだ。
新手として現れた森長可軍の銃撃に怯んだ隙に討ち取られた。享年16。

丹羽氏資
(-1599)

丹羽氏信
(1590-1646)

(6)山口氏

山口盛重()
山口重俊()
山口重勝(1547-1595)
山口重政()
山口重信()
山口重克()

山口重勝
(1547-1595)
山口重俊の子
尾張国寺部城主、後に尾張星崎城主。
織田信雄に仕え、1584年の小牧・長久手の戦いにも参加した。その後は豊臣秀吉に仕えた。
1586年、養子・重政に家督を譲って隠居した。しかし間もなく豊臣秀次の家臣となり、1594年の伏見城普請工事にも参加した。
1595年7月、秀次事件で連座により秀吉から自害を命じられた。

(7)岡田氏

岡田重頼()
岡田重善(1527-1583)
岡田重孝(-1584)重善の子
岡田善同(1558-1631)重善の子
岡田重政()重孝の子。
岡田善政()善同の子。

岡田重善
(1527-1583)
重頼の子。重能、直教とも。通称:助右衛門、長門守。
子に重孝、善同、娘(山口重勝妻)
尾張国星崎城主。
織田信秀の家臣となり今川氏との戦いで功名を挙げ、小豆坂七本槍の一人に数えられる。その後は信秀の子信長に仕え、1573年8月の朝倉軍追撃戦(刀禰坂の戦い)などで、息子・重孝と共に活躍し、信長の馬廻りとしての立場を保持した。
本能寺の変後は、信長の次男信雄の家老となった。小瀬甫庵と親しかった。

岡田重孝
(-1584)
重善の子。通称:助三郎、 長門守。
尾張国星崎城主。
始めは織田信長に仕え、馬廻。
1573年8月の朝倉軍追撃戦で父と共に活躍したという。
信長が本能寺の変で横死すると、その次男・織田信雄の家臣として仕えた。1583年、父の死去により家督を継いで当主となる。
同年、12月23日には大坂城の津田宗及邸で行われた茶会で秀吉と同席している。このころから羽柴秀吉(豊臣秀吉)と親しかったという。
 浅井長時・津川義冬らと共に三家老として信雄を良く補佐し、秀吉からもその器量を認められていた。しかし秀吉との内通を信雄から疑われ、長時や義冬と共に信雄によって伊勢長島城に呼び出され土方雄久によって殺害された。

岡田善同
(1558-1631)
重善の子。別名 岡田将監
子に善政。
はじめ織田信長に仕えた。
佐々成政に仕官、肥後国人一揆平定戦などに活躍したが、佐々家の改易により浪人となる。
朝鮮出兵には小西行長の配下として出陣するが、その後徳川家康に仕える。1600年の関ヶ原の戦いでは東軍の加藤清正の軍で戦功をあげる。この功績により、5,000石の旗本となる。
徳川家康の信任が厚く、名古屋城築城普請奉行、大坂の陣の陣奉行、山田奉行として伊勢神宮造営にも尽力する。
1613年から1629年には美濃国代官(美濃郡代)となり、治水奉行として尾張国の御囲堤築堤のさいの美濃国側の工事を指揮する。
農民保護政策や治水事業に力を入れ、美濃国の独自の国役普請制度である「濃州国法」の原型をつくる。猿尾堤を発案した人物という
1631年には5,300石の旗本となり、揖斐陣屋を設置する。

(8)山田氏

本姓は橘氏で、遠祖は左大臣橘諸兄の子孫・楠木正成と言われる。

山田宗純
山田宗俊
山田宗重(1538-1618)
山田去暦

山田宗重
(1538-1618)
山田宗純の次男
子に宗登
阿波仁宇城主。
信長に仕える。
本能寺の変で明智光秀が信長を襲撃した時、宗重の兄・山田宗俊(喜兵衛)は近江長浜城を守備していたが、宗俊は光秀に招かれ光秀に協力する旨を神前に誓い神水を呑んだ。その為、羽柴秀吉は山田宗俊を、謀叛人として征伐した。
山田宗重は蜂須賀正勝に仕えて、志津、山高北荘の城攻め、泉州岸和田攻め、日向高鍋城攻め、相州小田原攻め、朝鮮征伐、関ヶ原合戦などに従軍。特に岸和田城の合戦では軍功著しく「朱塗りの柄の槍」を褒賞として賜った。
1585年、蜂須賀家政が阿波国へ入ると宗重も家臣としてこれに付き従った。
この時、仁宇城主・仁宇伊豆守らが蜂須賀氏の入領に反対して仁宇谷一揆を起こした。宗重はこれを鎮圧した。
宗重は仁宇城代として知行5000石を有し、のち和食に居城を移す。

山田去暦
()

山田宗純の三男。
子におあん(雨森氏行(儀右衛門))ほか
本能寺の変後、石田三成に仕え近江国に知行300石を領して彦根に住した。
1600年、関ヶ原の戦いでは、石田方の武将として出陣。
その後、山内一豊の家臣となっていた近江出身の親族雨森氏康(九太夫)を頼って、1601年に土佐国へ来住。

(9)今川那古野家

今川基氏の長男である今川頼国が北条氏・名越高家の子・名越高範を養子としたことに始まる。

今川氏豊

(10)山口氏


山口氏は周防国大内氏の一族と言われる。

山口教房()桜中村城主
山口教継()
山口教吉()

山口教継
()
教房の子。
織田信秀に従い、小豆坂の戦いで戦功を挙げる。
信秀に重用され、三河との国境の要地である鳴海城を任されたが、信秀の死後、子の信長の代になると、織田氏から離反して今川氏に寝返る。
鳴海城を子・教吉に守らせ、自らは中村に立て籠もった。出陣してきた信長と戦い、引き分けている(赤塚の戦い)
教継は織田方の大高城、沓掛城を調略を用い奪取したが、その後駿河へ呼び寄せられ親子共ども切腹させられた

(11)戸部氏


戸部政直

戸部政直
()
山口教継と同一人物とも。
初め織田氏に従っていたが、今川氏とも関係を持ち、安城合戦で織田信広が今川方に降伏した際、今川義元に信広助命の仲介をした。
織田信秀の死後は今川義元に寝返り、義元の妹婿になったともいう。
その後、織田方の寺部城主・山口重俊に攻められるが撃退し敗死させた。
政直の寝返りに怒った織田信長が、右筆に政直の筆跡を真似て練習させ、信長に内通する書簡を偽造。それを商人に化けさせた森可成に駿府城下へ持ち込ませた。書簡を見て裏切りを信じた義元の命により、政直は三河国吉田で処刑されたという。

(12)近藤氏


近藤伊景()知多郡沓掛城主。
近藤景春(-1560)
近藤重郷
近藤重勝(1553-1604)
近藤政成
近藤重直

近藤景春
(-1560)
伊景の子。九十郎。
沓掛近藤氏第9代。
三河国の松平広忠の傘下にあったが、後に尾張国で勢力を拡大していた織田氏に従った。
1559年、尾張侵攻を目論む今川義元に寝返っていた尾張鳴海城主・山口教継によって今川氏に降った。
1560年、沓掛城を今川家臣の浅井政敏に預け、支城の高圃城に移って織田軍に備えるが、桶狭間の戦いで今川義元が戦死して今川軍が駿河へ退いたため沓掛城に戻るが、直後に織田軍に攻められて戦死した。

近藤重郷

近藤重勝
(1553-1604)
近藤重郷の子。
はじめ万見重元の家臣だった。
1578年、伊丹城攻めの際に重元が戦死したため、堀家一門の家臣となる。
1585年、堀秀政が越前北ノ庄を与えられると、重勝も5000石を賜る。
秀政の死後はその次男の親良に仕え、1598年に親良が越後蔵王堂に4万石を与えられると、そのうち1万石を与えられた。
1604年、死去。秀政の四男・政成が養子に迎えられて跡を継いだ。

【8-3】服部党

伊賀服部氏とは別系統で、伊勢国奄芸郡が発祥とされる。
戦国時代、尾張国河内(海西郡)に勢力を持っていた一族。
党首・友貞は伊勢長島城の城主も務めたが、1568年に織田信長の謀略にかかり討ち取られ、服部一門は長島一向一揆に参加し織田氏に抵抗し続けた。
長島一向一揆の崩壊後は、友貞の子・正友ら服部一門が織田氏の許可を得て復帰し、市江島(現在の弥富市)を開墾し、江戸時代を通じて存続した。

服部友貞
(-1568)
尾張国荷ノ上の土豪・服部党の当主。
1560年5月、桶狭間の戦いでは今川方として参加し、今川義元の討ち死により荷ノ上へ引き返す。
1568年正月、北畠具教に年賀の挨拶をするために霧山城へと登城する最中に織田軍の刺客に囲まれ伊勢国米野の陰涼庵で自害に追い込まれた。
友貞の死後、服部党は長島一向一揆に参加している。

服部正友
()
長島一向一揆崩壊後、服部正友ら服部一門が織田氏の許可を得て復帰し、市江島を開墾した。

服部政家
(1492-1536)
織田信秀に仕える。

服部政光
(1516-1585)
政家の子

【9】水野氏と知多の武将

【8-1】水野氏

鎮守府将軍・源満政を祖として、満政の7世孫の小河重房の代に至って尾張知多郡阿久比郷小河に住して小河氏と称して、その子・重清は春日井郡水野郷に一時期住して、水野とも称するようになったことにはじまる。
南北朝時代に小河正房は土岐直氏の攻撃をうけ、子の信業と共に戦死し(小河合戦)、孫の信安は先祖の故地・春日井郡水野郷へ移り再び水野を称した。その後、曾孫水野忠義は知多郡小河に戻った。
水野貞守の代、尾張国知多郡小河に緒川城と、尾張国と狭い入り江を挟んで隣接する三河国碧海郡に刈谷城の二つの拠点を置いたのに始まる。その後、戦国期において水野氏は勢力を伸ばし、水野氏は知多郡大野の佐治氏、渥美郡の戸田氏と争いながら勢力を広げ、大高城、常滑城、亀崎城、宮津城、鷲塚城などを有した。
水野信元の代、親今川路線を変更し、織田信秀と同盟(織水同盟)を結んだ。
1575年、水野信元は突如、武田勝頼への内通を疑われ、織田信長の命を受けた徳川家康により殺害された。この時、跡継ぎであった水野信政も殺害され、水野氏は断絶した。
1580年、信長に再興を許され、水野忠守は尾張国小河の、水野忠重は刈谷の旧領に復した。

小河正房
小河信業
水野信安
①水野貞守
②水野賢正
③清忠(信政)
④水野忠政(1493-1543)
⑤水野信元(-1576)忠政の次男
⑥水野信政

下総山川藩主家
水野忠守(1525-1600)忠政の子。
水野忠元
上野安中藩主家(布土水野氏)
水野忠分(1537-1579)忠政の八男。
水野分長
備後福山藩主家
水野忠重(1541-1600)忠政の九男。
水野勝成
常滑水野氏
水野忠綱
水野守隆(-1598)尾張国常滑城主。
水野守信

(1)緒川水野家

水野貞守
(-1487)

水野賢正
(-1514)

水野清忠
(-1509)
子に清重、忠政、元興、娘(松平信忠室)、娘(奥平貞勝室)

水野忠政
(1493-1543)
清忠の次男。通称は藤七郎、右衛門大夫、下野守。幼名:牛息丸。初名は妙茂
正室:松平昌安の娘、継室:華陽院(大河内元綱の養女)
子に近守、信元、於丈の方(松平家広室)、信近、忠守、於大の方(松平広忠室)、妙春尼(石川清兼室)、女(水野豊信室)、近信、忠勝、藤助、屋鍋(中山勝時室)、女(水野忠守室)、忠分、忠重。
緒川城および刈谷城の城主。
1533年、三河国刈谷に新城(刈谷城)を築いた。
織田信秀の西三河進攻に協力しつつ、他方では岡崎城主松平広忠、形原城主松平家広などに娘を嫁がせて、領土の保全を図った。

水野信元
(-1576)
忠政の次男。初名は忠次。通称は藤四郎(藤七郎)。
母は松平信貞娘。

(2)下総山川藩主家

水野忠守
(1525-1600)
忠政の子。
母は華陽院(大河内元綱養女)
子に吉守(金蔵)、守重、忠元、守信、娘(奥平次左衛門室)、重家、元吉
1580年、忠重が旧領に復した際に忠守は緒川城主となった。
1590年、徳川家康が関東に入部すると、玉縄城の守備を命じられ、知行を得た。

水野忠元
(1576-1620)
忠守の三男。
1616年、水野忠元は下総国山川領の領主となり、3万石の大名となった(下総山川藩)。

(3)上野安中藩主家

水野忠分
(1537-1579)
忠政の八男。
室は佐治信方の妹。
子に分長、義忠、重央、吉勝、松平勝政、女(松平家忠室)
天文年間(1532年-1555年)、布土城主であった。
有岡城の戦いにおいて戦死。

水野分長
(1562-1623)
忠分の長男。幼名:藤次郎
室は山口重勝の娘。
子に元綱
はじめ叔父の水野忠重に属した。
1584年、小牧・長久手の戦いで首級を挙げて武功を挙げた。
小田原征伐にも忠重に属して従軍する。
その後、水野氏を去って蒲生氏郷に属し、九戸政実の乱で先陣を務め戦功を挙げた。
1599年に家康から呼び戻され大番頭に任じられ、1600年の関ヶ原の戦いに参陣する。
1601年、尾張緒川藩1万石を与えられた。
1604年、備後守に任ぜられる。
1606年、三河新城に移封され、設楽・宝飯郡内で1万石を与えられた。
1614年、大坂の陣にも家康付大番頭として従軍する。
1616年、家康が亡くなると徳川秀忠に仕え、近江国栗太郡内で2000石を加増された。
1620年、徳川頼房に付けられて水戸藩に移る。この際に新城の領地は長男の元綱に譲り、分長は安房国・上総国内で1万5000石を与えられた。
1623年3月死去。享年62。死後、安房・上総国内の領地は相続する者がなく収公された。

水野重央
(1570-1621)
忠分の三男。官位:対馬守。重信→重央→重仲。別名:藤四郎、藤次郎
子に重良、定勝、しゃむ姫(大関政増正室)、水野義重室、小笠原義治正室、松平康信正室、有馬豊長継室
1576年、母方の従兄に当たる徳川家康に初めて謁見し、のち家康に近侍して5,500石を知行する。
1588年に大番頭となり、
1592年、武蔵国埼玉郡・上総国山辺郡内に1,500石を加増される。
1600年、関ヶ原の戦いでは大番頭として従軍。
1601年、従五位下・対馬守に叙任。
1606年、家康の十男・徳川頼宣の後見を家康から託され、1608年に頼宣の家老となり、常陸国内に1万石を与えられた。
幼少である頼宣に代わり、水戸藩では重央が国政に当たる。
1609年、頼宣が駿河国駿府藩に転封されると、重央は遠江国浜松城主となって2万5,000石を与えられた。
1619年、頼宣が紀州藩に移ると、重央は紀伊国新宮に3万5,000石を与えられ、安藤直次と共に頼宣の附家老としてその補佐に務めた。しかし附家老という身分上、大名としての資格を失うことになった。
 1621年11月死去。享年52。

(4)備後福山藩主家

水野忠重
(1541-1600)
忠政の九男。
子に、勝成、忠胤、弥十郎、忠清、清浄院(加藤清正室)、忠直、女(安部信勝室)、女(森本右近室)。
初め水野家惣領であった異母兄・水野信元に仕える。
1561年、三河岡崎城の松平元康(徳川家康)の傘下に入る。
1575年、信元が武田氏との内通の嫌疑をかけられて岡崎へ逃亡したが、信長の命令で家康は信元親子を自害させた。佐久間信盛の讒言とも言われる。
1580年8月、佐久間信盛が織田家を追放されて三河刈谷城も没収されると、忠重は信長より刈谷城を与えられ、9月23日に入城した。水野家当主となったことで信長の家臣となった。
1582年、本能寺の変後は、織田信雄に仕える。刈谷、緒川のほか北伊勢にも所領を持ち、都合1万3千貫文を領する。
1590年、小田原の役では、250騎を率いた。同年9月、伊勢神戸城4万石に移封された。
1595年、本領・三河刈谷城主に戻され、石高は2万石となった。
1600年、浜松から越前府中の新領に帰る堀尾吉晴を歓待して酒宴を催した際、同席した加賀井重望(秀望)と口論になって殺害された

水野勝成
(1564-1651)

水野忠胤
(-1609)
忠重の次男。
母:都筑吉豊の娘

(5)常滑水野氏

水野忠綱

水野守隆
(-1598)
子に保雅。
尾張国常滑城主。
 はじめ織田信長に仕え、1570年8月、野田城・福島城の戦いでは平手久秀とともに川口砦に置かれ、1574年7月の長島攻めでは他の尾張衆とともに船から攻撃を行った。
 1576年5月、佐久間信盛らとともに天王寺砦の定番となり、1577年3月には信長より住吉城の普請に対して労を犒われている。
 1580年8月、信盛・信栄父子が追放されると、守隆は織田信忠の麾下に組み込まれ、1581年1月には水野忠重とともに遠江国横須賀城の番手として派遣され、1582年の甲州征伐では信忠に従軍している。
 1582年6月、本能寺の変では安土城で明智光秀に供奉したため、戦後に居城を没収された。
 その後は山城国嵯峨に隠遁し、1598年4月21日に没した。

(6)一族

水野清重
()
清忠の子。

水野元興
(-1571)
清忠の子。

水野近守
(-1556)
忠政の長男。藤九郎。

水野信近
(1525-1560)
忠政の三男。
幼名:千代松、通称は十郎左衛門、藤四郎、藤九郎。
子に信政(元茂)、信行、村瀬重治室。
刈谷城主。
忠政の死後、刈谷水野氏を継いだ。
1560年、桶狭間の戦いの直後、今川家臣の岡部元信に城を攻められて討死した。

水野近信
(?-1602)
忠政の五男。通称:伝兵衛。

水野忠勝
(?-1568)
忠政の子。通称:弥平大夫。
子に康忠。
今川義元・氏真の2代に従う。
1567年、敵対する武田信玄に内通して密書を送ったことが露見したため、自害した。

水野信政(元茂)
()
信近の子。

水野信行
()
信近の子。

(7)家臣

熊谷新蔵
()くまがいしんぞう
水野信元家臣。知多郡熊谷屋敷を拠点とする。

【9-2】佐治氏

佐治氏は尾張国知多郡に勢力を持った氏族であり、大野城を拠点とした。近江国甲賀郡から移り住んできたとされる。
代々知多半島の大半を領した豪族で、伊勢湾海上交通を掌握する佐治水軍を率いていた。

佐治宗貞(-1532)
佐治為景()
佐治信方(1553-1574)
佐治一成(1569-1634)
佐治為成()

佐治宗貞
(-1532)
通称:駿河守。
三河守護一色氏の家臣。知多郡大野城主。30,000石を領した。

佐治為景
(-)
宗貞の子。

佐治信方
(1553-1574)
佐治為景の嫡男。初名:為興。通称:八郎
室はお犬の方(織田信秀娘)
子に一成、秀休。
尾張国大野城主。桶狭間の戦いの後に信長に臣従するが、妹を妻に与えられ、信長の字を拝領されて「信方」と改名するなど、待遇は一門衆並みであった。
信方は信長の嫡男信忠に従って、伊勢長島攻めに加わるが、1574年9月、織田軍に追い詰められた一揆衆の捨て身の反撃を受け、ここで討ち死にしてしまう。

佐治一成
(1569-1634)
信方の嫡男。
母はお犬の方(織田信秀娘)
室は於江(浅井長政・三女)。継室:織田信長の娘・於振。
子に 為成。
1574年、父・信方が伊勢長島攻めに従軍して戦死したため、幼少の一成が家督を相続する。祖父の佐治為景の後見を受ける。
1584年3月の小牧・長久手の戦いにおいて、家康が三河へ帰陣する途中の佐屋街道の渡しにおいて船を提供し、秀吉の怒りを買い、改易処分に処される(佐屋の渡一件)。
その後、織田信包に仕え5,000石を領した。

佐治為成

(2)内海佐治氏

佐治宗貞の弟である佐治為繩が岡部城を築いて内海佐治氏の祖となった。

佐治為繩
佐治為成

(3)荒尾氏

荒尾空善()小太郎
荒尾善次(1508-1572)
荒尾善久(1539-1572)
荒尾成房(1556-1630)
荒尾隆重()
荒尾成利
荒尾嵩就
荒尾久成()
荒尾成政()

荒尾空善
(-1555)
通称:小太郎
知多郡木田城主。
織田信長に従い今川義元勢と戦い討死した。

荒尾善次
(1508-1572)
佐治為貞の次男。荒尾空善の養子。通称:作右衛門、美作守。
室:荒尾空善の娘。継室:水野信元の娘
子に 善久、成房、隆重、善応院( 織田信時室、のち池田恒興正室)
知多郡木田城主。

荒尾善久
(1539-1572)
荒尾善次の長男。
知多郡木田城主。
信長に仕えて6万石の知行を得た。
1572年、徳川氏への援軍として参加した三方ヶ原の戦いで戦死。享年34

荒尾成房
(1556-1630)
荒尾善次の次男。通称:平左衛門、遠江守。
室は水野清忠の娘。継室は織田信直の娘。
子に成利、嵩就、和田三正、久成、成政、津田元匡室
1572年、兄の戦死により家督を継ぐ。池田恒興に仕え若森城と3000貫の知行を領した。
輝政が三河吉田城主となると、牛久保城代となる。
1600年の関ヶ原の戦いの後、輝政が播磨姫路52万石の領主となると、龍野城代となり1万石の知行を賜る。
1625年、隠居して嫡男・成利に家督を譲り、隠居料として3000石を賜る。

荒尾成利
(1589-1655)
成房の長男。
正室:池田長政の娘
子に成直、利純、成美、池田知利正室、勝(栄久院、伊木忠貞室)、津田元茂室、和田三信室

荒尾嵩就
(1592-1669)
成房の次男。

(4)稲生氏
稲生政勝
稲生光春

稲生政勝
()
通称:七郎左衛門。
知多郡・亀崎城主
稲生氏はもともと伊勢国奄芸郡の稲生城主であった。
水野信元が新海淳尚の宮津城を降して後、1543年に知多郡・亀崎城を築城し、稲生政勝をおいた。

稲生光春
()
室は稲生政勝の娘。
水野信元の成岩城攻めの頃、飯森城に稲生光春を置いて守らせた。

【9-3】戸田氏


戸田氏は尾張国海部郡の戸田荘を支配して戸田氏を称するようになったという。

戸田宗光(1439-1508)田原城主。二連木城主
戸田憲光()宗光の子。田原城主。
戸田政光()憲光の子。
戸田康光()政光の子。
戸田宣光(-1568)康光の子
戸田重貞(-1564)宣光の子
戸田忠重(-1567)宣光の子
戸田康長(1562-1633)忠重の子
戸田宣成(-1546)憲光の子。今橋城主。

戸田光忠
戸田忠次


戸田宗光
(1439-1508)
戸田実光の子。通常:弾正左衛門尉。法号:全久
子に憲光、家光
室町幕府政所執事・伊勢貞親の被官。
京都から正親町家の領地であった三河碧海郡上野に移り住み、上野には古城を築城したという。三河渥美郡田原(田原市)に田原城を、朝倉川南岸で同じく渥美郡仁連木に二連木城を築城し、両城の初代城主となる。

戸田憲光
()

戸田政光
()

戸田康光
()
政光の子。
子に尭光、宣光、重真。

戸田宣光
(-1568)
戸田康光の子
子に 重貞、忠重

戸田重貞
(-1564)
宜光の子。
三河国渥美郡仁連木城主戸田氏の15代当主。

戸田忠重
(-1567)
宜光の子。通称:甚平、弾正
子に松平康長、宣直、甚五郎、松平真乗の室
二連木城主戸田氏15代目当主。
兄の重貞は徳川家康に従って3,000貫を領したが、1564年、吉田城攻めで戦没した。
父・宜光は、重貞の妻が妊娠していた重貞の子への家督移譲を願ったが、家康は弟の忠重に相続させた。
1567年、二連木において病死。
嫡男の虎千代(康長)は当時まだ6歳だったが、家康より特に目をかけられ、忠重の家督継承と松平氏を称することを許された。

戸田宣成
(-1546)
憲光の子。通称は金七郎・橘七郎・三郎兵衛尉。
1537年、牧野氏の今橋城を奪い城主となった

【9-4】久松氏

久松定義()
久松俊勝(1526-1587)
久松信俊()

【9-5】一色氏

一色詮範(1340-1406;位:1391)若狭・三河守護、尾張知多郡
一色満範(位:1392-1409)若狭・三河・丹後守護、尾張知多郡
一色義貫(位:1409-1440)若狭・三河・丹後守護、尾張知多郡
一色義遠(位:1451-)義貫の子。尾張知多郡を治める。

一色義遠
()
丹後一色家・義貫の子。
1451年、教親が嗣子が無いまま没すると、義貫の子の一色義直が家督を継ぎ、丹後国・伊勢半国守護となり、その後、三河渥美郡・若狭の小浜も所領とした。
義直の弟である義遠は尾張知多郡を継承した。
1467年からの応仁の乱では、細川成之の所領の三河に侵攻した。
1477年11月、西軍が解体され応仁の乱が終結し、1478年2月に一色氏は三河を文書で放棄、尾張知多郡も東軍に没収されたため、義遠は本拠の丹波に移った。

(2)尾張一色氏
尾張国知多郡宮山城(大野城)は一色氏の居城であり、 範氏の子・範光の子孫が代々領した。
満貞の子・詮定が久松氏として分かれる。

範房
詮光
満貞
満氏
満重
貞範
一色光貞()
一色氏勝()光貞の子
一色範重()氏勝の子
一色範直()氏勝の子
一色詮勝()範直の次男
一色範春()範直の
一色教重()範直の三男

【10】城郭・古戦場・地理


【1】春日井郡

清州城
春日井郡()
1405年、尾張・遠江・越前守護の管領斯波義重によって築城された。

守山城

比良城

品野城

【2】丹羽郡

岩倉城
丹羽郡(平城)
1479年頃、「織田伊勢守家」当主の織田敏広によって築城された。
1559年3月、信長に攻撃されて落城した。そのまま廃城となった。

犬山城
丹羽郡()
1537年、織田信康が築城。

木ノ下城

【3】葉栗郡


【4】中島郡


【5】知多郡

緒川城
知多郡()
文明年間(1469年-1487年)、小河重房の屋敷跡(高藪城)に水野貞守(小河貞守)が築城。
1606年、廃城

大高城
知多郡()
 
土岐頼康が尾張守であった南北朝期には池田頼忠が城主を務め、永正年代には花井備中守や、水野為善とその息子の忠守が居城したことが伝えられている。
 天文年間も引き続き水野氏が治めたが、織田信秀の支配下にあった。1548年、今川義元の命で野々山政兼がこの城を攻めたが、落とすことができず政兼は戦死する。
 しかし信秀の死後、息子の織田信長から離反した鳴海城主の山口教継の調略で、大高城は沓掛城とともに今川方の手に落ちる。
 この脅威に対して信長は「丸根砦」と「鷲津砦」を築き、大高城に圧力を加える。
 1559年、朝比奈輝勝が義元の命をうけ大高城の守りに入る。
 1560年には、大高城の包囲を破りそのまま鵜殿長照が守備についた。
 大高城に松平元康が兵糧を届け、長照に代わり元康が城の守備についた。やがて信長の攻撃による義元の死(桶狭間の戦い)を確認した元康は岡崎城に引き下がったため、大高城は再び織田家の領土となった。
 まもなく廃城となった。

常滑城、亀崎城、宮津城、鷲塚城

大野城
知多郡()
 1350年ごろに三河国守護の一色範氏が知多半島に勢力を伸ばし、その子一色範光が伊勢湾を見下ろすこの城を築き、大野湊を中心とした伊勢湾の海運を手中に収める。
しかし、一色氏は将軍足利義政と対立し、三河守護職を失い、応仁の乱を経て次第に勢力を衰退させ、尾張守護・土岐氏に大野城は奪われ、家臣の佐治宗貞が入城し、四代百年あまりの支配が続いた。
三代信方の頃に織田氏に従うが、信方は若くして討ち死に、四代一成は羽柴秀吉と敵対して追放され、城主として信長の弟である織田長益が入るが、大野城の水利の悪さから、すぐ真向かいに大草城を築城して移り、大野城は廃城となった。

大草城


【6】愛知郡

那古野城
愛知郡
大永年間(1521年 - 1528年)、今川氏親が築城

古渡城
1534年、織田信秀が東南方に備えるために築城。
信秀は那古野城を、嫡男吉法師(織田信長)に譲り、この城を拠点とした。
1548年、美濃に侵攻した信秀の留守を狙い、清洲の守護代織田信友の家臣坂井大膳らが城下に攻め寄せ、町が焼かれた。
信秀が末森城に移ったため、1548年に廃城。

末森城

下社城

稲葉地城

荒子城

沓掛城
愛知郡
室町時代を通じ、近藤氏が沓掛城主となった。
戦国時代に入り、9代目の近藤景春は松平広忠の家臣となっていた。
1541年頃より尾張国中に織田信秀の勢力が強くなり、三河へ出兵するようになると、近隣の土豪とともに信秀に追従した。
しかし、1551年の信秀死後は二転して、鳴海城主山口教継・教吉父子とともに今川義元の傘下に入った。
 1560年、駿河・遠江・三河の兵約2万5千の大軍を率いた今川義元は、池鯉鮒を出立して沓掛城に入った。この時の城主は近藤景春であった。
 城主近藤景春は沓掛城に戻り、刈谷城攻めを行ったりしたが、織田勢により城攻めを受け落城、景春は討死して近藤氏による支配は終わった。
 変わって城主になったのは、桶狭間の戦いで勲功一番と称され、沓掛三千貫文を与えられた簗田政綱(簗田出羽守)であった。
 1575年、簗田政綱は加賀天神山城主となって去り、その後は織田信照、川口宗勝が城主を勤めた。
 1600年、関ヶ原の戦いにおいて川口宗勝は西軍に参陣、敗戦後捕らえられて伊達政宗にお預けとなった。ここで沓掛城は収公され廃城となった。

鳴海城
愛知郡
 
天文年間には尾張国の織田信秀の支配下にあり、配下である山口教継が城主を務めていた。
 しかし信秀が没すると、息子の信長を見限った教継は今川氏に城ごと寝返った。その後、教継は息子の山口教吉に鳴海城を任せる。
 1553年、信長は800の兵をもって鳴海を攻めるが落とすことができなかった。やがて教継父子は義元により切腹に追い込まれた。
 結果的にいつ寝返るかわからない外様の山口氏から今川家譜代の岡部元信に城主が変更され今川家直轄の重要拠点になった。これに対抗すべく、信長は1559年ごろに鳴海城の周囲に丹下砦、善照寺砦、中嶋砦を築いた。
 1560年に桶狭間の戦いが起こり、今川軍はまず大高城に付けられた織田方拠点の各砦の排除を敢行し、残りの鳴海城に付けられた三砦の排除を残すのみとなり作戦は順調かにみえたが、本隊が総大将義元が討ち取られ総崩れとなってしまった。
 しかしあくまで本隊が敗北したのみで、砦排除のため待機中であった鳴海城兵はかなりの兵数を維持、無傷であった。信長との交渉の結果、元信は義元の首級と引き換えに城を明け渡すという条件を呑み、ついに城は信長の手に落ちた。
 戦後、佐久間信盛・信栄父子が城主をつとめ、天正末期に廃城になったといわれる。

熱田神宮

【7】海東郡

勝幡城
海東郡(中島郡を跨ぐ)
清洲三奉行の一家「織田弾正忠家」の拠点。
永正年間ごろに織田信定が築城した。
信定の跡を継いだ信秀が今川氏豊から那古野城を攻め取ると、信秀は那古野城に移り、勝幡城には家臣の武藤雄政(武藤掃部)を城代として置いた。
本拠地が清洲城に移ると、武藤掃部は尾張野府城へと転属された。


【8】海西郡

荷之上城
服部党、服部左京進友貞が拠点とする。
1568年、友貞は織田方の刺客に襲われ落命した。残った服部党が1570年の長島一向一揆に参加。
1576年、友貞の子ともいわれる服部正友が、信長の許しを得て荷之上に      入植して屋敷を構えた。


一宮城
犬山城(白帝城)
今村城
入尾城
岩崎城
大草城〈現・知多市〉
大草城〈現・小牧市〉
大留城
大野城〈現・一宮市〉
大野城〈現・愛西市〉
奥城
小田井城
楽田城
上菱野城
苅安賀城
九之坪城
黒田城
光明寺城
小折城
小牧山城
下大留城
下之一色城
下奈良城
上条城
白山城
高田城(河田城)
西溝口城
早尾東城
守山城
横山城
吉田城(柏井城)
竜泉寺城
北島城

 

参考文献
『織田信長の家臣団―派閥と人間関係』 和田裕博 中公新書




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