着物が内包する日本の美の感覚、うつくしい所作。
昨日、次男の入学式に際して、着物に袖を通しました。
いったん着物を身にまとってしまうと、女性の方ならお分かりかと思いますが、あらゆる動きに制限が伴います。
わたしも昨日、たった半日着物で過ごしただけですが、いかに普段の洋服との違いが大きいかということを、身に沁みて感じました。
まずは着物そのものの重量。言わずもがな洋服のような軽さは和装にはないので、着ているだけでも身体にずっしりときます。さらに着崩れを防ぐための数々の紐たちによって身体はキュッと締められ、最終的には帯でギューっと巻かれ、ガッチリ固定される。
着たあとはもう、自由な動きなどはできない。
階段の昇降には裾を持ち上げなくてはならないし、ちょっとでも着崩れしないように、動きは最小限に抑えなくてはならない。
でもこれを通してわたしは昨日、日本人特有の美の感覚について考えていたのです。着物とは、実にうまくできているなと。
どういうことかと言うと、着物を美しく着こなすための所作が、日本人が美しいとする所作の理想そのものだなと思ったのです。
例えば和装においては、腕や脚を他人に見せることを避けます。
そのため、腕を上げるときには袂を押さえようとするし、足元が肌蹴ないようにと、裾を持つ。
逆に言えば、腕を大きく上げることや遠くのものを取ろうとするような所作そのものが、美しくないとされているということです。大股で歩くこともそう。着物ではそれが不可能になるわけですが、それはその動き自体が日本古来の美の定義から言って、美しくないからなのだろうと。
つまり着物を美しく着こなすためには、日本人の美の定義を守らざるを得ないということです。別の言い方をすれば、着物には、日本人が美しいとする所作が完璧に内包されているなと思ったのです。
そしてそれは、西洋の洋服の価値観とは、全くもって交わらないものであるとも。例えば、洋服を着ている時は何気なくやってしまう脚を組む動作でさえ、着物においてはあり得ないことでしょう?着物で座るならば脚をきちんと揃えて、膝をくっつけておかなくては、形にならない。
姿勢においてもそう。洋服を着ている時はつい、斜めになってしまったり前のめりになってしまう姿勢も、和装においてそんな姿勢をとっていては、品や佇まいが台無しになってしまう。ピンと背筋を伸ばした姿勢あってこその、和服。和装と姿勢の関係性は特に、切っても切れない。だらりとした姿勢では、着物の存在価値すら失くなる気がします。
これらのことを鑑みても、着物というのは、美しい所作を身体で学ぶにおいては最適であると思ったのです。
わたしも(わずかな時間ですが)着物を身につけていた間は、普段とはうって変わって、お行儀良くできました。笑
首と背筋を伸ばし、小股で歩き、頭頂が上から引っ張られているような姿勢を保ち。確かに疲労を伴う動作ではあるのですが、こういう所作を体験できるのは、着物のおかげだなあと。
そして和装を纏っているときは、バタバタと急いだり慌てたりするのも、似つかわしくない行動。ゆったりとした、しなやかな動き。着物を身に纏うにおいて相応しい所作。これこそが日本女性の美しい所作、その集大成と呼べるべきものだなと。
わたしもお着物を身につけることなど滅多にないのですが、たまに着ると、自分の所作から姿勢から何もかもが変わるので、それを含めてその新鮮さを楽しんでいます。それと素材の高級感。正絹などの質の良い反物を纏うと、自分も質の良いものになったような気分になるので、それも着物の愉しみだなと思っています。
これから歳を重ねていくにおいて、着物を美しく着こなすことのできる美しい所作の体得や、まっすぐな姿勢を保つためにも、できるだけ多く着物と接していきたいなと思うのでありました。
日本の美は、実に奥深く、深遠で、わたしにはまだまだ、手が届かない。
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