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[Column] 国語の勉強は国語の勉強になるのか

読めば読むほど心配になる作文力

筆者は塾講師という仕事柄、毎年受験生を指導しているわけだが、近ごろ年を追うごとに危機感の増していることがある。それは中学生の作文力。


国語の力というのは大きく2つに分けられると思っている。

文を読み取って理解する力、すなわち読解力と、自身の思想や感情といった内面を文字を使って読み手に伝える表現力である。その表現力を支えるものが漢字の書き取りの力であり、語彙・ボキャブラリーである。かつて、戦前の国語教育は大きく2系統に分かれていて、「読方(よみかた)」と「綴方(つづりかた)」があったそうだが、まさにそのとおりなのである。


「漢字の書き取り」と言ったが、これは、書けるようになることよりも、正しい字があてはめられるかどうかが重要である。とくに昨今はキーボードで文字を打ち込み、それを漢字に変換する機会が多くを占めるのであるから、適切な漢字を選択する力は非常に重きをなすことになる。

[筆者注]
だからといって、「手書き」の力を軽視するわけではありません。むしろ、電子的なやりとりが増えて、誰が書いても同じフォントになってしまう現代においては、美しく手書きができることはある種の優位性となるでしょう。ただし、それはどちらかというと文化的素養に位置づけられるもので、一般的な「読解」「表現」の力とは少々ずれたところにあると思うわけです。

日本の国語教育を考えてみると、これは圧倒的に読解に偏っていると言える。それは自分たちが受けてきた国語の授業を思い返してみれば明らかである。それもそれで、どうせ読むのなら古今の名著と呼ばれるものを、サワリだけでなくじっくり読ませてほしかった、と思ったりもするのである。

一方の表現力についてだが、これはもはや放し飼いと言っても良い。

確かに課題は出る。読書感想文などはその典型的な例であるし、宿題としての日記もそのひとつである。近年は中学生でも大学のようなレポート課題を出されることもある。しかしそこで問題なのが、課題を出すまでは良くても、それを添削して直すまでは滅多にしないという現状である。


国語教育の欠陥

よく考えてみるとおかしな話ではある。

数学でも英語でも、問題を解き間違えれば、それを指摘されて突き返される。国語も漢字の間違いは同様に指摘される。にもかかわらず、作文課題における語法の間違いは、なにか特別の添削講座を受けたりでもしない限り、改めて清書しなおすようなことはしないのである。これが、わが国の国語教育における欠陥であると感じる点の第一である。

第二は、読書感想文なりレポートなり、課題は出されるのに、その書き方や書式についてのレクチャーが事前に何もない点である。国語の授業に最近組み込まれているディベートなどでも同様のことが起きていて、主題だけ与えられて、あとは放置されるのだ。手順というか作法というか、そういったものは、ろくに教えられなかった。

これはひとえに、国語教育者の怠慢と慢心、そして、ある程度まで国語が使いこなせるようになった大人たちの認識が甘いのだと筆者は考えている。実際に文を書いてみればすぐにわかることだが、作文の力というのは、書かなければ伸びはしない。

言語学で言われているとおり、言語とは「後天的」なものであって、子どもはこの世に生まれてきて初めて、母親や周囲の人間から言葉を学んでいくのである。「聴く」「話す」にしてからがそうなのだから、人類が数千年前にようやく発明した文字を扱うのは、より時間をかけなければならないというのは、これは当然の道理ではないか。

英語の4技能ばかりがクローズアップされる昨今だが、国語の技能とて訓練しなければ伸びるものではないはずで、個人的には、そこが軽視されていることこそが、全体的な学力低下の要因の1つと言えるのではないかと思っている。

[筆者注]
ひとつだけ、現在の国語教育をある意味で擁護するならば、日本語の文章そのものが、諸外国語(とくに欧米、インド・ヨーロッパ語族に属する言語)と違って、正語法というか、語順に関して“正調”と呼べるものがなくて、表現者によって大きな差を生じるために、教授しづらいという点があります(そのために国語の授業でたくさんの文に触れるのだとも言えますが)。

しかし、課題として出される以上、点数化して序列が決まるわけですから、学校教育が良しとする、お手本的な文というものは確かにあるはずなのですけれど、実際のところ作文の良し悪しというものは、押しなべて読み手の主観による評価となるので、学校で好意的に評価される作文が必ずしも良文であるとは言えないし、その逆もまた然りなのです。

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