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【石川県】能登国一宮・氣多大社と氣多本宮(2024/06/06)

今回はテキスト少なめ、写真メインでお送りします。

氣多大社

薄曇りのベールに覆われたような天候のなか、能登国一宮・氣多大社( 旧称は「氣多大神宮」)を参拝。

能登国一宮・氣多大社

石柱には、旧社格である「国幣大社」と刻まれています。
現在は神社本庁に属さない単立神社です。

氣多大社 公式サイト

由緒書

かすれて読みづらい…歴史を物語る由緒書の看板。

幸せの大国天

「氣多の幸せの大国天」さま。子孫繁栄、開運招福、金運にご利益があると云われています。

境内

静かで落ち着いた雰囲気です。

手水舎

手水舎に紫陽花やモミジが生けてあって涼しげ**

注連縄

大黒様の米俵を連想させる太い注連縄。

重厚な門

歴史を伺わせる重厚な門。鋲も芸術的。

奉賛金のお願い

能登地震により拝殿や本殿にも修復を要する箇所があるとのこと。
また鎮守の森の維持費も募られていましたので、少額ながら寄付させていただきました。

「ご寄付いただいた方へ」の封筒の中に、「氣」の書の写しやステッカーが入ってました!

拝殿

手前に柵がしてあり、まっすぐではなく回り込むようになっています。

時計回りな感じ

御祭神は大国主神(オオクニヌシ/大己貴命オオナムチノミコト)

祭神の大己貴命は出雲から舟で能登に入り、国土を開拓したのち守護神としてこの地に鎮まったとされる。
古くから北陸の大社として知られ、中世・近世には歴代の領主からも手厚い保護を受けた。

気多大社 - Wikipedia より
本殿もチラリと

社伝(『気多神社縁起』)によれば、第8代 孝元天皇の御代に祭神の大己貴命が出雲から300余神を率いて来降し、化鳥・大蛇を退治して海路を開いたという。
また『気多社島廻縁起』では、気多大菩薩は孝元天皇の時に従者を率いて渡来した異国の王子とし、能登半島一帯を巡行して鬼神を追放したと記される。
『気多社祭儀録』では、祭神は第10代 崇神天皇の御代の勧請とし、神代からの鎮座とする説もあると記される。
一説として、孝元天皇の御代には七尾市に鎮座(現・気多本宮)し、崇神天皇の御代に当地に遷座したとも伝えられる。

気多大社 - Wikipedia より
左側に「入らずの森」

本殿の背後には、約1万坪の社叢林(しゃそうりん)「入らずの森」が広がっています。立ち入り禁止区域です。

森の中の奥宮には須佐之男尊(スサノオノミコト)、奇稲田姫命(クシナダヒメノミコト)が祀られています。

「入らずの森」木製の鳥居

古来、斧を入れることなく、この地域の自然林の様相をよく伝えており、学術的価値の高いところから昭和42年(1967)に国の天然記念物に指定されました。
この自然林を保護し、後世に伝えてゆくため、当大社では『神木の杜造成事業』を進めています。その一環として日本海側に鎮座する神社の神木で、国の天然記念物に指定された神木の種子や苗木を譲り受け、当地で養成し、石川県巨樹の会の指導により、社叢林の周辺に植え育てているところです。

案内板より
森から流れる清流

小さいながら綺麗な渓流。「入らずの森」は約三百㎡の広さだそうで、そこから生み出された水だと思うと有り難みが増します。

むすび神苑

大きな丸い岩に刻まれた文字は、右から「むすび神苑」と読めます。
「パワースポットの石」と紹介されているサイトが多く見られ、周囲にある小石を拾って大岩の上に乗せると幸せになれるらしい。

縁結びの神様として崇敬を集め、毎月1日に行われる「ついたち結び」には大勢の女性が訪れるそうです。

太玉神社

写真:右側上下=何かの礎石? 鳥居があったのかな、と思ったのですが左右の大きさが違いました。

狛犬様

どっしりとした狛犬様。

太玉神社

占い・神事祭祀の神様「天太玉命(あめのふとたまのみこと)」

パノラマ撮影

位置関係は、このようになってます。
拝殿・本殿 ー 入らずの森 ー 太玉神社

菅原神社

そして、菅原神社。

石垣に根を張る

野面積みのような石垣の上に育った巨木。よくぞ倒れずにここまで大きくなったなぁと感動。

生け垣に埋もれてる看板

大鳥居を出て回り込んだら案内板があることに気づいた。生け垣に埋もれていて、真下を通ったら半分しか見えない。


正覚院

正覚院

すぐ隣に、正覚院(しょうがくいん)というお寺があります。

当山は、氣多大社の神宮寺(別当院)として創建され、元正天皇御代養老2年(718)に越前の大徳泰澄大師が夢想のお告げから一堂を建立したと伝えられている。

案内板より
白寿(ぼけ封じ)観音

その後、文徳天皇斉衡2年(855)に亀鶴蓬莱山氣多太神宮寺の勅号を給い、同時に「常住の僧を置き、出家の定数三人を認めるから永久に絶やすことのないように」との指令が出される」(文徳実録)
以来、一千有余年、神社に奉仕してきたが、明治維新の神仏分離令により、直接の関係を絶つ。

案内板より
梵鐘

しかし今での神仏混淆当時の面影を残し、もと本殿奉安「八咫(やた)の神鏡(しんきょう)」をはじめ、開かずの宮といわれる護摩堂本尊「不動明王」、重要文化財「阿弥陀如来」など多くの寺宝を秘蔵する。

案内板より

大穴持像石神社

写真がなくてすみません。
地震おさえの霊石と伝わる“地震石”がある神社。
祭神の形代である磐座(いわくら)とも言われ、この石を汚したり触れたりすると祟りがあると云われています。

今回、失念しておりました…。
地震鎮めの参拝は心にあったのですが、離れた場所に別の神社として存在してると知らなかった。
リサーチ不足でした、すみません。


氣多本宮

続いて、氣多大社の元宮と云われている、石川県七尾市に鎮座する氣多本宮へ。

GoogleMAPで確認したところ駐車場がなさそうだったので、近くのホームセンターに停めて(お買い物しました)徒歩で向かう。

神社の裏側に出たようで、正面に行くにはどうしたらいいのか…と迷っていたら、ちょうど近所の方が庭仕事してらしたので尋ねてみたところ、
「そこから入っていけるよ」
「えっ、いいんですか?」
幼稚園(その名も本宮保育園)の脇から出入りできました。

氣多本宮

正式には、能登生国玉比古神社(のといくくにたまひこじんじゃ)と称するらしい。

御祭神は氣多大社と同じく大己貴命。
第8代 孝元天皇(紀元前273-158)の治世に創祀されたと伝えられる。
第10代 崇神天皇(紀元前148-30)の御代に羽咋の竹津浦に祭神を分霊し気多神社(氣多大社)が創祀、それから気多本宮と称するようになった。
能登国総鎮守で、上代(平安時代以前)には「能登の大神」と仰がれていた。
気多本宮 - Wikipedia 参照>

氣多大社 公式サイトに掲載されている由緒と合ってますね。

神橋

地震の影響か、地面の舗装もあちこちにひび割れが残っています。

古くから守っている狛犬様

いったい、いつから破損してしまっているのか…

比較的あたらしい狛犬様

まだ、お口の中の紅も鮮やかな狛犬様。

氣多本宮

天正年間(1573〜1592)に、前田利家によって現在地へ遷座。
明治5年3月23日、県社に列し、同39年12月29日に神饌幣帛料供進神社(しんせんへいはくりょうきょうしんじんじゃ)に指定された。
大正12年、神門及び拝殿を銅葺とし、昭和42年より46年に亘り社殿を大修理した。
石川県神社庁 より抜粋>

こちらの石川県神社庁ウェブサイトには、「能登生國玉比古神社」が鹿島郡中能登町にもあると掲載されてました。
名称は同じなのに、御祭神は多気倉長命(タケクラナガノミコト)、市杵嶋姫命(イチキシマヒメノミコト)、少彦名命(スクナヒコナノミコト)。
まるで違う。

多食倉長命は神代の昔、能登国に巡行された大己貴命や少彦名命と協力して国土の平定に神功をたてたまい、能登の国魂の神と仰がれた。
その姫神(娘)市杵嶋姫命(またの名を伊豆目比売命)は少彦名命の妃となって菅根彦命を生み給うた。
これ金鋺翁 菅根彦命で金丸村村主の遠祖である。神主・梶井氏はその末裔である。

石川県神社庁 より

次回は、こちらも参拝しなくては。

* * * * *

御朱印を頂こうと、注連縄が張られた社務所を訪ねたら「こちらは気多本宮ではなく、~~~(聞きとれず)神社です」
(もしかして能登生国玉比古神社と言ったのだろうか? だとしたら「別の神社」という言い方はヘンか?)

「気多本宮の御朱印は、あちらのお宅で授与してます」
教えていただいた建物は一般的な人様の住居に見え、訪ねるのに躊躇したけど無事に御朱印をいただくことができました。


GoogleMAP

氣多大社・大穴持像石神社〜氣多本宮


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