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愛するということ、守るということ。

人を愛するということは、どういうことなのだろう。

例えば、amazonで「愛」に関する本を検索かけると40,000件以上がヒットする。
例えば、愛に関するJ-popの歌はいくつ世に出ているのだろう。
(失恋フェス2019の来場者49人が作ったプレイリストは81曲。全人類に置き換えると、、、無限にある。はい。)

もうわかっていることだけれど、
”愛”とは、人類にとって、永遠の問いなのではないか。

私自身も、失恋を何度か経験をする中で、ずっと考え続けていて、
本を読んだり、人と話したり、失恋博物館をしたり、失恋フェスをやったりする中で、人間26年目、やっと一つ、私の中で答えが出た。

”愛する”とは、
相手のことを心から尊敬し、相手に尽くす中で、相手が豊かに生きることそれ自体が自分の喜びにも直結している状態
なのではないかと思う。

当たり前だが、定義は人それぞれ多様であって良い。

しかし、おそらく一つ明白なのは、
”愛する”とは、一対一の関係性であり、
周りのだれがなんと言おうと、
あなたと私、二人の話、なのである。

何を言われようとも、

うるせえ、愛し合ってるんだよ!!

その一言で一蹴できるし、

愛してるよ。
私も。

その二言で完結するのだ。

愛って素晴らしい。
恋は盲目というけれど、愛も盲目なのだと思う。
その人の嫌なところ弱いところすら、愛おしさを覚えてしまうから。

今の所は、納得感を持っている答えだ。

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と、ここで一つ問いが生まれた。

相手を”守る”、とはどういうことなのだろう。

「僕が君を守るよ。」

という歌詞をよく耳にする。

日本国民のアイドルグループ嵐も”WISH”で、
「二人生きてゆけるなら僕が君を守る 誓おう〜」
と歌っているし、

かの有名なMr.children桜井和寿も”Everything (It's you)”で、
「守るべきものはただ一つ君なんだよ。」
と叫んでいる。

でも、実際、人を守るってそんなに頻繁に起こることなのだろうか。
不審者に襲われた時?悪く言われた時?誰かに狙われた時?
おそらく、日常ではそんなにないのかもしれない。


ここで少し私の話をしようと思う。
守りたかった、話を。

私には愛していた人がいた。
もう三年も前のことになるが、今振り返ってみても、愛していた、と心から言える。

その人のことを心から尊敬していたし、その人のために精一杯尽くした。そして、私と一緒にいるその人はいつもくしゃっとした笑顔で幸せそうだったし、時々ぽろぽろと涙を流していたけれど、結局最後はくしゃっと笑顔になった。そんなその人の姿を隣で見てる私はとても幸せだった。世界一幸せだと思っていた。

しかし、あるとき、その人が守りたいものが危機に晒された。
私と別れなければならないほどの危機に晒されていた。
その時、私は目を背けた。
その人に打ち明けてもらった時、
周りなんか気にしないで、二人の世界にいよう。
そう言った。

私が愛しているから、相手は幸せだ。

そんなことを思ってしまった。
その人が恐れているものから、逃げてしまった。
まだその人が恐れてるものはなくなっていないのに、まだそこにあるのに…

私は守りきれなかったのだ。
大切な人を守れなかった。
ヘルプを出してくれたのに、守らなかった。
というか、守り方すら知らなかった。
なのに、愛せている、と錯覚してしまった。
愛していたのは事実だろう。
しかし、愛し続けるために、守るべき時に守りきれなかったのだ。

もう、こんな後悔はしたくない。
”愛する”ということと”守る”ということは、同列でどちらも大切だ。

愛しているから、守りたくなる。
愛しているから、守ることができる。

どんな時でもどんなことが起きても守れるように、愛を注ぎ愛し続けることが必要だ。
そして、何かが起きた時には、相手の恐れているものに、決して目を背けず直視して、自分自身が対峙して戦い抜くこと。

二人の世界にいよう、
そんな甘っちょろい覚悟では、大切な人なんて守れない。
まだまだ私は未熟だ。

大切な人を愛せる自分に、
大切な人を守れる自分に、なってゆきたい。

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