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【質問箱】 凡庸な表現?

 こんな質問をいただきました。

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 想像するに、この質問をされた方は文章に強いこだわりをお持ちの反面、ちょっと性急さがあるかもしれません。

 常套句や凡庸な表現を避けたいというこだわりは、私も実感として、よくわかります。そのこだわりは書き手として、持ち続けたいものです。
 ただ、小説において常套句、凡庸な表現は、本当にただ直すべき「瑕疵」、忌避すべき「悪玉」なのでしょうか?
 お決まりの表現は、ある意味「つきもの」です。この質問箱シリーズでも既に書きましたが、言葉というのは所詮は代替物、記号の羅列でしかありません。文章表現は「伝わらなさ」を知って絶望するところから始まるのです。その意味で、どこかで見たような凡庸な決まり文句は、じつは最強の伝達ツールだったりします。
 最初は誰だって、憧れの作家の真似から入るものです。実際に私もそうでした。いまでも文体に影響を大きく受けています。
 小説でよく見る月並みな表現を「書ける」ということは、むしろひとつの武器ではないでしょうか。一定の素養と習熟がないことには、文章中に定型句が適材適所で自然にすんなり出てくることだってありません。小説を書くのってだいぶ特殊な能力で、お定まりの言い回しを「書けない」人だって、いっぱいいるはずなんですよ。
 新人賞の選評などを読むと「手垢がついた表現」なんてマイナスの文脈で語られるのを、ご覧になったことがあるかもしれません。たしかに新人賞は既存の枠に囚われない突出した才能を求める催しですから、陳腐な表現の安易な多用は「逃げ」と取られてしまうことが、ないとも言いきれないでしょう。ただ、当の選者が自身の作品のなかで本当にありふれた言い回しを一句たりとも使っていないかというと、必ずしもそうではないはずです。
「手垢がついた」表現は、裏を返せば「誰もが知っている」「誰もに馴染みのある」表現です。それを使えば、伝わらないわけがない。最強の伝達ツールなんです。
 平凡だな、月並みだな、陳腐だな、ありきたりだな、無難だな、通俗的だな……と思っても構わないから、まずは気にし過ぎることなく書いてみるほうがいいと私は思います。どこかで読んだような、誰かの借りもののような表現でも、書いていくうちに自家薬籠中のものとする部分があるかもしれません。
 そもそも「凡庸ではない」「まったく新しい」「誰も見たことのない」文章表現などというのは、本当に存在するのでしょうか? そんなのは幻想だと私は思います。
 言葉には無限の組み合わせがあるからといって、どこまでもどこまでも未開の地平が広がっていると、小説だけを特別視しないことです。たとえばプロのギタリストだって、その土台には「コード」という先人による画期的な発明がありますよね。とんでもない不協和音みたいなオリジナルコードだけで楽曲の全編を彩ったところで、それはおそらく不協和音以上にはなりえない。質問者さんの表現を借りれば「逆に密度を高くしすぎて読みにくくなって」しまうことでしょう。
 そして、借りもののコードのうえに成り立つギタリストには、それぞれ「手癖」があるといいます。ともするとマンネリを生む一因になってしまいますが、その手癖がやがて個性となり、味となる。
 小説も一緒です。誰にでも少なからず「手癖」があるはずです。あって然るべきだし、それを排除しようと思ったら、逆説的に、結局は判で捺したような無味乾燥な均質な表現しか書けなくなってしまうことでしょう。たとえ紋切り型の表現であっても、組み合わせは無限大。その組み合わせかたに個性が出てきて、やがては「文体」と呼ばれるようになります。

 もちろん「純文学」寄りなのか「エンタメ」寄りなのか、読者の志向によっても、いわゆる「凡庸な表現」を作品内にどれくらいの割合で組み込むべきか、最適なバランスは変わってくるかと思われます。
(ここでいう「純文学」「エンタメ」の区別とは、作者ではなく、あくまで読者が作品に求める志向としています)
 エンタメ志向ならば、金太郎飴的な表現は、むしろ歓迎される傾向があるでしょう。だって難しいことを考えずに読みやすいから。頭からっぽにしても楽しめるから。
 小説というと必要以上に高尚なもののように書き手は身構えてしまいがちですが、名前からして「大説」でなく「小説」ですよ。もともとは中国由来の言葉なのだそうですが、天下国家を語る「大説」の対義語としての、民間の小事件や風俗を扱う、下世話な「小説」。
「三文小説」や「パルプ・フィクション」という俗称があるように、平俗だろうが凡俗だろうが、下手すると低俗だろうが、なんでもOKなんです。書くからには「読み捨て上等」と思っておいたほうがいい。実際、読者には無限の時間があるわけではありません。エンタメに限らず純文学でも同様ですが、いかな名文・名調子であろうと、全員が全員、味わってくれるとは思わないほうがいいです。
 一方、純文学では、より言葉を洗練して「非凡な発想」「稀有な表現」「唯一無二の境地」が喜ばれるでしょう。そういう需要も、当然ながらある。そのこと自体を否定はしませんし、読者を瞠目させる斬新な表現を突き詰めたいということであれば、止めはしません。その先にはとんでもない絶望の荒野が広がっているであろうと、私なんかは後ろ向きに考えてしまいがちなんですけどね。

 あ、そうそう。
 冒頭で「この質問をされた方には、ちょっと性急さがある」とプロファイリングしましたが。
 いただいた質問文自体に、私なら次のような推敲を加えると思います。

 推敲が苦手です。
 物語を書く時、ストーリーを形にしようとすると、常套句のオンパレードになってしまいがちです。それを後から直すのですが、凡庸な表現を見逃していないか、逆に密度を高くしすぎて読みにくくなってはしないかと心配になります。でも、最初から全部の文を意識的に書こうとすると、どうしてもスピードが落ちるで、それも良くないのではと思います。
 どのような態度で第一稿、推敲にあたればスムーズでしょうか。

 推敲が苦手です。
 物語を書く時、常套句のオンパレードになってしまいがちです。それを後から直すのですが、凡庸な表現を見逃していないか、逆に密度を高くしすぎて読みにくくなってはいないかと心配になります。でも、最初から全部の文を意識的に書こうとすると、どうしてもスピードが落ちるで、それも良くないのではと思います。
 どのような態度で第一稿、推敲にあたればスムーズでしょうか。

「物語を書く」と「ストーリーを形にしようとする」は、字義的には似通っていますよね。私なら、後者を推敲の段階で省くと思います。
 あとのふたつは、単純な誤字脱字ですね。「見逃していないか」と対応させるために「読みにくくなってはいないか」としましたが、ここは「読みにくくなってはいまいか」としてもアリだと思います。
 ただの質問箱ですからそこまで神経質になる必要もありませんが、もし推敲に苦手意識をお持ちだというのなら、日常的に書く短文やTwitterの呟きなどについても、投稿する前にしっかり立ち止まって、再読、三読して推敲する癖をつけることをオススメします。この癖をつけることで、だいぶ苦手意識は軽減されるはずですよ。
 そして推敲をされる際には、必要以上に「常套句」を禁則としてしまわないことです。「凡庸な表現」は使い勝手のよい、最強の伝達ツールでもあるわけですから。

 最後に蛇足。
 さんざん「凡庸な表現」「凡庸な表現」と書いてきましたが、これでも私、この記事中で「凡庸な表現」を、ありとあらゆる形に換言してみようと努力したんですよ。同じ言葉の単調な繰り返しは読者の「飽き」や「呆れ」につながってしまいかねませんが、別の語に言い換えるだけでも、だいぶ「凡庸さ」は減じるのではないかと思っています。

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