見出し画像

文の「腰」

 文章とは書けば書くほど、少なくとも下手になることはあまりない性質のものだと思う。
 野球のピッチングや素振りなら、一度変な癖がついてしまうと矯正するのに余計な手間と時間がかかるけれど、文章の場合は、たとえ変な「手癖」がついたとしても、極めればそれが味になり文体になることだってありうる。文章は自由だ。正解があるものではない。
 さすが定期的に書かれているだけあって、タイムラインに現われるフォロワーさんたちのnoteは、ほとんどが破綻することなく綺麗な文章になっている。だからいまさら釈迦に説法、失礼千万なことかもしれないが、意外とプロの作家でも見落としがちな、文章を推敲するときに気をつけておきたい点をいくつか、自分のための覚え書きがてら、書き留めておきたい。
「そんなこといわれなくてもわかってるよ」とお𠮟りを受けそうだし、詳細な説明を端折ったかなりの暴論だが、そこはご了承願いたい。

 よく「一文は短く簡潔に」という文章論を見かける。たしかに一文は歯切れよく明快に書かれていたほうが伝わりやすいし、文章全体にテンポも生まれやすいだろう。しかし、短い文ばかりが並んでも単調になってしまいかねない。短く切りながら書き手独自のテンポを作り出すのは、それはそれでけっこう至難の業だったりするのだ。だらだら長い文を書きたければ、それでも構わない。書き続けるうちにその手癖が味になり、やがて文体となってくるかもしれないのだから。

 ただし、どんなに長い文を書くときにも、ひとつの文にはひとつの「腰」があると私は思っている。「腰」というのは喩えだが、この腰が据わっていればどんなに長い文でもしっかり決まることが多いし、逆に腰がふたつもみっつもあるようだと、くねくねと折れ曲がり過ぎて安定感を欠き、ともすると文として破綻してしまいかねない。

 具体的に、私が考える一文の「腰」は、たとえば次のようなものである。

(1)逆接の接続助詞
(2)一部の同じ目的を持った順接の接続助詞
  (並立の「たり」など例外あり)
(3)主格を示す助詞「は」
(4)「こと」「もの」
(5)「という」
(6)同じカテゴリ内の対象(場所や時間)を示す格助詞「に」「で」

 これらの表現は基本的に、ひとつの文にふたつ以上入れないように心がけておくほうが無難だ。
 ほかにも探せば挙げられるかもしれないが、パッと思いついたのはこれくらいだった。

 まず(1)逆接の接続助詞。
 逆接は、文の意を明確に反転させる行為なので、よほどトリッキーな論理展開を行ないたい場合を除いては、一文につき一箇所を心がけておいたほうがよいだろう。

 私は慌てて駆け出したが、段差につまずいて転びそうになったものの、なんとか踏ん張って走り続けた。

 逆接が続くと、一度裏切った文の意をもう一度裏切ることになるので、なんとも腰砕けで据わりが悪くなり、迷走感が出てしまう。

 次に(2)同じ目的を持った順接の接続助詞。
 小説でよくやりがちなのが、動作を順接「と」でつなぐ局面だ。

 彼は打席に入ると、足場を固めてバットを固めると、マウンドの上の投手を鋭い目つきで睨みつけた。

 動作をつなぐのに「と」はとても便利な接続助詞だ。だからこそ、多用には気をつけたい。

 理由を示す「ので」「から」も、一文のうち一発で綺麗に決めたいところだ。

 寒いので、コートを着たから、走ったら汗をかいた。

 ただし順接の接続詞のうち、たとえば並立の「たり」などは例外だ。むしろ並立して例を挙げる「たり」は、二度以上使わなければ収まりが悪い。

 雨が降ったり槍が降ったりした。

(3)主格を示す助詞「は」の説明はちょっと複雑で、この記事には収まらないかもしれないので、いつか別の機会があれば詳しく書きたい。
 ここでは暴論だが、同じ主格の「が」と比べると、

主格の「は」>主格の「が」

 という力関係にあるということだけを抑え、なるべく一文のうちに「は」は一度きりにするよう意識すればよいだろう。

 彼打席に入ると、足場を固めてマウンドの上を投手を睨みつけ、投手不敵に笑い、振りかぶった。

 べつに厳密に誤りというほどではないかもしれないが、主格を示す「は」が一文のうちに重なると、ふたつの文章が混在しているように見えて、なんとも据わりが悪い。改善方法はいくらでもあるが、たとえばこうするのはどうか。

 彼打席に入って足場を固め、マウンドの上の投手を睨みつけると、投手不敵に笑い、振りかぶった。

 こうすると、この一文の動作の主格は明確に「投手」ひとりとなる。
 一方「が」で示される「彼」の動作は副次的なものとなり、投手の「不敵な笑み」を導出する誘因として機能するのだ。
 ついでに、順接の接続詞「と」も「腰」の役割を果たすので、序盤の「打席に入ると」から中盤の「睨みつけると」に動かした。こうすることで「と」以前までが「彼」の動作であり、以後が「投手」の動作であることが明確に区別される。これが「腰」だ。

 暴論だが、主格の「は」は「が」よりも強い。
 そう覚えておけば、どこかで役に立つかもしれない。

(4)「こと」「もの」(5)「という」は、かつて一度「上手い文章とは?」と題したnoteに書いた。

 ある編集者がTwitterで書いていた「お願い」にあった文言だ。
 べつに私はこれらの表現が頻出しても構わないと思っているし、編集を担当する文章において目に余るほど頻出する場合には、ママでOKかどうか、ゲラに鉛筆を入れて著者に問うだけの話である。
 ただ、一文のうちにふたつもみっつも「こと」「もの」「という」が重なってしまう場合、文の「腰」という意味においてはたしかに据わりが悪くなってしまいかねないので、慣れないうちは避けたほうが無難かもしれない。
 案外「こと」を「の」に置き換えるだけでも、すっきりまとまる局面がある。頭の片隅に置いておくとよいだろう。

 最後の(6)同じカテゴリ内の対象(場所や時間)を示す格助詞「に」「で」も詳述していると日が暮れそうなので、またの機会に譲るとして、たとえばこんな場面である。

 彼女は満員電車でお尻を触ろうとしてきた男に、顔面一発ビンタをお見舞いした。

「男」も「顔面」も、同じ対象を示している。

 彼女は満員電車でお尻を触ろうとしてきた男の顔面に、一発ビンタをお見舞いした。

 このようにひと括りにしてしまえば、文意が伝わりやすいだろう。

 彼はラーメン屋で、カウンターの片隅ビールを煽った。

「カウンターの片隅」は「ラーメン屋」に包含される。だから、

 彼はラーメン屋カウンターの片隅で、ビールを煽った。

 と括ってあげると、腰砕け感が薄れやしないだろうか。
 もちろん「の」をふたつ以上重ねることを嫌う人もいるので、そこは各人の好みだろう。

 以上、かなり駆け足の暴論ではあったが、少しでも参考になれば幸いだ。

サポートは本当に励みになります。ありがとうございます。 noteでの感想執筆活動に役立てたいと思います。