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【質問箱】 伏線と因果

 昨夜も寝つきが悪く、ついスマホを見ながら夜更かしをしていたら、今朝30分ほど寝坊してしまいました。
 因果応報。

 小説創作に関する、こんな質問をいただきました。

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 伏線。
 まず、伏線の定義について明らかにしておきましょう。

1 小説や戯曲などで、のちの展開に備えてそれに関連した事柄を前のほうでほのめかしておくこと。また、その事柄。「主人公の行動に伏線を敷く」

2 あとのことがうまくゆくように、前もってそれとなく用意しておくこと。また、そのもの。「断られたときのために伏線を張る」

(デジタル大辞泉)

 ミステリなどで顕著ですが、小説における伏線とは、もっぱら作者の作為によって埋め込まれているものです。

『小説の書きかた私論』からも、該当部分を引っ張ってみます(一部、文脈に合わせて文章を省略・編集してあります)。

 伏線とは、著者が意図して仕込むものだ。
 伏線は、読者に気づかれるか気づかれないかは別として、必ず読者の目の前に晒され、そして回収される。フラグは読者が勝手にそれと解釈するものだが、伏線は後段で回収されたときに、前段のそれが伏線であったことがさかのぼって規定されるのだ。つまり、伏線の成立要件とは、後段における伏線の回収である。伏線の回収があって初めて、伏線そのものが成り立つ。
 伏線には、二種類が存在する。
 気づかれることを意図して書かれるのが「明示する伏線」。
 気づかれないように企図して書かれるのが「忍ばせる伏線」である。

 詳しくは『私論』に書いたので繰り返しません。

 伏線はもっぱら著者の意図によって機能する。伏線は前段に張られ、そして後段に回収されることで初めて機能するもので、どちらか一方でも欠けたら成立しません。ただ張られただけで回収されなかったらミスリードか、あるいは回収し忘れた残念な伏線のなり損ないか。伏線は、著者の完全なるコントロール下に置かれていなければなりません。

 ですので、質問者さんが言うところの「伏線」は、厳密にいうと伏線ではないかもしれません。伏線は著者が意図して「潜ませる」ものではありますが、著者も意図しないうちに筆が乗って、登場人物たちの些細な言動の端々に「勝手に宿る」ような性質のものではない。もしそれが「伏線」ならば、どんな「些細なやり取りや心の動き」であっても、削ってしまっては伏線になりえません。伏線は、前段と後段で一対一対応が原則です。
 いうなればプログラムと一緒です。
 前段の「A」という入力に対し、後段で「B」が出力されるプログラム。

 もしかすると質問者さんはリアリズム志向の、どちらかというと純文学寄りの、たとえば私小説ふうの、人間の心の機微を大事にするような作品を描かれているでしょうか。
 そういった作品において、著者も意図せぬままに登場人物たちの些細な言動に宿り、そして後段に影響を与えるものがあるならば、それは「伏線」ではなく「因果」とでも呼ぶべきものではないかなと思います。「業」とか「縁」とか「運命」とか、呼びかたはいろいろです。それはとても人間的なもので、著者の意図するにせよしないにせよ、人間が人間を描くからには、どんな作品にもついて回るものです。

 文学賞の選評などで「人間が描けていない」という言葉を目にすることがありますよね。あれ、どうなんでしょうね。私は懐疑的です。
 たしかに読者はひとりの人間ですから、リアリティーという意味において、人間としての実感は選考基準になりえます。でもそれって、ひたすら主観的なものですよね。
 AIが書いた小説ならばいざ知らず、人間が人間を観察対象にして描いた登場人物ならば、それはもう「人間」です。どんなに血の通っていない冷酷な殺人マシーンでも、人間の想像の産物である以上、単なる記号にはなりえない。どこかになにかしら、人間的なるものが宿るはずです。
「人間が描けていない」という評者には、ためしに「人間が書いたショートショート」と「最新のAIが書いたショートショート」を読み比べていただいて、どちらが「人間の書いた人間」であるか、当ててみてもらいたいところですよね。
 もし「人間を描く」ことについて有効な評価基準を設けるとすれば、複数の登場人物の描き分けができているかどうか――ではないかと思います。作品内で同じような性格・思考の人物ばかりが出てきてしまったら、それは小説としては失敗かもしれません。「著者に似たような人物ばかりが出てくる」「善人しか出てこない」というような指摘は、登場人物の多様性の不足、作品としての広がりの不足を評したものです。
 とはいえ、その判断も結局は主観に頼るほかない。創作も評価も、人間のすることだからです。

 人間の生活は因果にまみれています。
 意識するとしないとにかかわらず、あらゆる言動には理由があり、縁があり、巡り合わせがある。
 寝つきが悪くて夜更かししたら、そりゃ誰だって寝坊もします(ここで冒頭の伏線回収)。でも、それが大事な会議のある朝だったら、無理してでも起きたかもしれませんよね。でもでも、無理してでも起きなければならない大事な朝に寝坊することだって、人間だから、やっぱりある。
 伏線は「A→B」と、入力と出力が必然的に対応していました。
 そうなるように意図したものだから、当たり前です。
 しかし、人間の因果は「A→C」にも「A→D」にもなりえます。
 もしかすると「A→ 」と、出力すらされないかもしれない。
 それでもなお、あとから見ればどれもが「原因」と「結果」なのです。
 作者が意図した「伏線」でない限りは、登場人物たちの「些細なやり取りや心の動き」に敏感になりすぎて、無理して削る必要もないのではないかと思います。なにしろ、執筆の過程で自然と生まれてきた登場人物たちの「些細なやり取りや心の動き」は、作者であるあなたの「人間的なるもの」の発露なのですから。そこには、なにかしらの意味があるはずです。「意図」ではなく「意味」が。それを早計に「無駄」と切り捨ててしまうのは、ちと勿体なくないですか。たしかに作品を仕上げるのに「削る」作業は重要ですが、一見「無駄」と思われる箇所が本当に不要かどうか、せめて立ち止まって熟考してみるだけでも損はないと思います。
 プログラムを書いているわけではないので、小説で描く事象すべてに原因と結果を用意しなくてもいいと思います。なんの前触れも罪もなく、突然事故に遭って死ぬかもしれないし、なにかの原因と見えたものが、未回収のまま宙ぶらりんになってもいい。だって人間だもの。

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