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西武山川選手に学ぶ

 先日、こんな記事を読みました。

 改善策として「シンプルに行きたい。構えも、とらえ方も」と原点回帰を目指すが、キッカケとなったのは意外にも、オフの小学生を相手にした野球教室だった。
「野球教室でトスを上げると、小学2、3年くらいの子はまだ力がないから、すごくシンプルに真っすぐバットをボールに当てられる。もう少し大きくなって力が付くと余分な動きが入ってくる。小2くらいのスイングが形としては理想」と気がついたという。
 シンプルな打撃は最高峰の打者にも通じる。
「バリー・ボンズやマイク・トラウト、ミゲル・カブレラ。みんな最小限の動きでボールをとらえている」

 西武の山川選手といえば、パ・リーグ本塁打王にして一塁手のベストナインにも輝いた第一線級のバッターです。

 そんな選手が、小学二年生からも貪欲に学ぼうとしている。
 文章力の場合は単純に語彙量の差が出てくるので、小学二年生から学べることは少ないかもしれませんが、しかし、子どもならではのクセのないシンプルでストレートな表現、あるいは大人でもドキッとさせられるような意外な比喩表現などを書けないとも限りません。

 私が書いている「小説のメカニクス」というのもつまり、小説の文章をその構造的役割から細分化して解析し、つねにゼロから積み上げていく動的な表現として捉え直すことにあります。そして読者が目を動かして文字を読み取っていくフィジカルな動きをあらかじめ想定して誘導し、小説ならではの情感の創出を目指そうとするものです。それはスポーツの動作解析のようなもので、一流打者が「みんな最小限の動きでボールをとらえている」のはなぜかを探ることと似ています。そのためには小学生レベルの作文を見直すことも決して無駄だとは考えません。

 プロの天才バッターですら、これほどの姿勢を見せているのですから、小説の書き手も自身の選んだ「小説」という表現形態の仕組みについて、無自覚でいていい道理はありません。

 小説はともすると文化的な、感覚的芸術的なものとされ、フィジカル的な、論理的技術的な視点からは遠ざかりがちですが、その面白さは本当に言語化し得ない、捉えどころのない曖昧なものとばかり決めつけてしまってもよいのでしょうか。

 小説をもっと動的なフィジカル的な表現形態として捉え直し、その方法論を深めていくこと。それが私の追い求める小説論です。

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