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上手い文章とは? ~SNSと小説

はじめに
 この記事は、おもにプロの小説家・作家を志望されている方に向けて書いています。そのため、ややシビアかもしれない表現が含まれています。もちろんプロを目指すだけが創作ではありません。世に出て文章で食べていくつもりはなく、趣味で書いて気ままに投稿する。それも立派な創作の在りかた、楽しみかたです。その姿勢を否定するつもりは毛頭ありませんので、あらかじめその点お断わりしておきます。

 プロフェッショナルとアマチュアの違いは、どこにあるのだろうか。
 プロフェッショナルというからには、アマチュアよりも相対的に上手いはずだ。ときどきプロ野球の二軍三軍が大学の野球部に負けたとか、サッカー天皇杯でプロがアマに負けたとかニュースにはなるが、それは局所的な番狂わせであって、統計的に均していけば、やはりプロのほうがアマを上回るだろう。1993年のJリーグ発足以降、天皇杯の優勝チームには、Jリーグで馴染みの深いチームばかりが名を連ねている。

 では、プロに値する文章の上手さとは、なにか。
 いかなる判断基準をもって、上手い文章と判断されるのか。

 一編集者として私見を述べるならば、

「そんなことは分析しようがないし、興味もない」

 としか、いいようがない。
 私はつねづね「小説の面白さを素因数分解するように分析したい」と書いているが、文章の巧拙そのものについては、ほとんど言及してこなかった。

 先ごろTwitterで【編集者からのお願い】と題し、著者やライターの方々に向けて、

・という
・と思います
・こと
・もの
・過剰な敬語など

 が頻出するのは悪文だから直してから送れ(意訳)という暴論ツイートが話題になっていた。非難轟々で、悪くいえば「炎上」しかけていた。

 たしかにこれらの表現が過度に頻出する場合には、担当編集がママでOKかどうか、ゲラに鉛筆を入れて著者に問うことはある。
 しかし、編集の基本スタンスは「好きに書いてほしい」ではなかろうか。その著者が好きに書いたものが面白いと思ったからこそ、編集は次の原稿を依頼するわけで、編集が著者の文章に惚れ込んでいなくてどうする。
 ちなみに「思う」は文脈によっては「思われる」にするとイイ感じになったりするので、文末が「思う」一辺倒になりがちだという自覚のある人は、頭の片隅に置いておくと損はないかもしれない。とりわけ客観的な事実を示す場合には「思われる」とすると、それだけで文章が締まる。

 それはさておき、文章の巧拙について。
 プロの作家にさえも文章の上手い下手の差はあると、仕事で生原稿に接しながら思わないことはない。ほとんど直しが要らない先生もいれば、二度三度と赤を入れていくうちに見違えるように洗練されていく先生もいる。編集がたくさん鉛筆を入れることでなんとか最低限の体裁を整えている先生も、正直にいえば、皆無ではない。
 プロの世界には、文章そのものはさほど上手くなくても、圧倒的な面白さだけでもって認められたという人が、少なからずいる。
 認めたのは、誰か。
 小説でいえば、それはほかでもない、公募の文学賞の選考委員である。

 投稿サイトからの供給ルートが確立されつつある「なろう系」異世界転生ものならいざ知らず、現代の一般文芸作品に限れば、商業出版デビューする正攻法にして唯一の近道は、やはり公募の文学賞だと思う。
 もちろんSNSで話題沸騰となって書籍化……という道も有り得ないわけではないが、それは運や縁故などさまざまな要因が複雑に絡んだ、必然とはいいがたいレアケースだろう。狙ってできることでは、なかなかない。

 なぜか。
 それは、SNSでは不特定多数の目に触れるため、理論上は青天井で何十万、何百万ものビュー数を稼ぐことが可能ではあっても、読者層や需要を特定、把握することが難しく、しかもそれらがつねに流動的だからだ。誰に向けて書いてもいいという自由さは、誰に向けて書いたところで最適解にはなりえないという不可能性を孕む。極端な話、読者数がゼロの可能性だってあるのだ。読まれなければ、評価されることはありえない。
 ただSNSに公開しているだけでは、どんなに「上手い」文章だろうと、いつ誰の目に留まり、ピックアップされて話題となり、やがてプロの高みへと押し上げてもらえるかは、まったくもって読めないのだ。というより、そんな何百万分の一、何千万分の一ほどの奇跡、まず起こらないと考えたほうがいい。
 著名人や評論家、編集者に対して直接売り込むなどの能動的な働きかけをすれば話は別だが、それはどちらかというとオフラインに近い、クローズドなレベルでの行動だ。SNSでの自然発生的な承認ではない。
 不特定多数の目に触れるとなると、得られるのが賞賛だけとは限らない。読者の母数が大きくなればなるほど、理不尽な誹謗中傷の度合いも高くなってくるだろう。非難の声は、内容によっては書き手の糧になることもあるが、たとえ本人が気にしていないつもりでも、じわじわと精神的ダメージとして蓄積される。それはやがて踏み込んだことを書こうとしたとき、要らぬ躊躇や萎縮を生んでしまいかねない。

 noteをはじめSNSには「作品の質で認められたい」「文章の上手さで有名になりたい」「ネットには評価されていないだけで埋もれている名作がいっぱいある。あるはずだ。それらにもっと光が当たるべき(だから私の作品を見て)」といったような書き込みが散見される。いってしまえば、自己顕示欲が垂れ流しになっているような状態だ。

 しかし、SNSでは往々にして、書き手の自己顕示欲と実際の読者の反応とに、だいぶ乖離がある。イラストや漫画ならパパっと読めるかもしれないが、小説となると読むには一定の時間がかかるし、読み込むための労力も大きい。他者に読ませるというのは、書き手が思っている以上に遥かに大変なことなのだ。
 思うような反応がないと、やはり小さな精神的ダメージとして書き手のなかに蓄積されていく。よくない循環だ。小説を書いて公開するとき、自己顕示欲というのは魔物であり、しばしば抑え込むべき敵にすらなりうる。その意味で、SNSと小説とは、一見すると親和性が高いようでいて、じつは相容れないほど親和性が低いのではなかろうか。少なくとも、志高くプロを目指すのならば。

 一方、文学賞ではどうだろう。
 文学賞に応募された原稿は、その賞を運営する者が定めた下読み、そして選考委員に、少なくとも一度は必ず読まれることになる。最終選考ともなれば、第一線で活躍している現役の先生らの手に渡るだろう。
 限られた少ない人数ではあるが、確実に「選ぼう」とする者の目に入るのだ。しかも、それは「賞」という明確な特色と目的を持ったクラスタである。応募規定に書いてあるそのもの(いや、規定を満たしつつ、さらには既成の概念を打ち破るような目新しく革新的なもの)を、彼らは求めている。
 たとえばまさか、謎解き要素の一切ないベタベタなラブストーリーを、江戸川乱歩賞に送るバカはいないであろう。『世界の中心で、愛をさけぶ』は素晴らしいベストセラーだが、あの作品がもし江戸川乱歩賞の俎上に載せられたとして受賞が叶ったかというと、その可能性は限りなく低いと思う。

 SNSではたまに「自分の作品はどの賞の枠にも収まらない」とか「その賞向きではないのはわかりきっていたけどダメもとで応募してみた」とか、なんなら「オレが賞に合わせるんじゃなくて、賞のほうからオレに寄ってこい」といった発言を見かける。たしかに「規定を満たしつつ、かつ既成の概念を打ち破るような目新しく革新的な作品」を主催者側が求めているのは事実だが、あくまでも「規定を満たしつつ」だ。主催者側とて絶対の自信を持って応募してほしいだろうし、わざわざSNSで「ダメもとで」と書くのはたんなる自己保身、セルフハンディキャッピングでしかない。余計なことをあれこれ書いてしまうなら、賞に応募する人にとっても、やはりSNSは相性がよくない。

 文学賞には、SNSにない点が三つある。
 ひとつは、応募規定と締め切りがあるということ。
 参加者が一斉に横並びでよーいドン、期間中に規定に沿った作品を書いて出すからこそ、誰もが同じ条件で平等に競うことができる。
 もうひとつは、ライバルがいるということ。
 応募者が百名いるとすれば、自分以外の九十九名が明確なライバルとなるわけだ。この九十九名より優れていれば自分が受賞できるという、あまりにも明白な事実がある。
 最後のひとつは、ライバルの原稿を読むことができないクローズドな戦いであるということ。
 原稿のみがモノをいう厳しい戦いである。だから、応募者はみな、バチバチの真剣勝負だ。自己顕示欲など、あって当たり前。自己顕示欲の多寡や自信のほどは、そもそも問題にならない。原稿に込めた思いを、原稿とは別の手紙に縷々書いて同封して送ってこられても、おそらく選考委員は目にも留めないだろう。

 文学賞の最終選考クラスともなると、基本的に「文章は上手くて当たり前」になってくる。そのうえで肝心な決め手となるのは、既成概念を打ち破る画期的・圧倒的な面白さだ。
 ここでいう「文章の上手さ」とは、言葉では名状しがたい、とても感覚的な概念である。だから私は最初に「分析しようがないし、興味もない」と書いた。
 誤字脱字誤用、「てにをは」の間違い、主述のねじれといった言語化可能な明らかな瑕疵が正されているのは、最低限の基礎の基礎だ。そんなのは最終選考クラスではできて当たり前、いまさら問題にするほどでもない。
 読みやすさ、わかりやすさ、平易さが「上手さ」の要件かといえば、それだけでもない。もちろん一文一文が短く歯切れよく、中高生でも知っているかんたんな言葉で書かれた文章で、名文・名調子はいかようにも生み出せる。しかし、長ったらしく複雑怪奇にこねくり回していても、通して読んで見るとなぜか不思議と理解するのに妨げがなく、むしろ味が出てくるという稀有な文体は存在しうる。いわゆる「ヘタウマ」と呼ぶしかない文章もある。
 文章を書くのが上手くなりたいと思ったら、とにかくたくさん読んでたくさん書く、それしか道はない。最初は誰かの猿真似になってしまうかもしれないし、好きな作家の影響は、誰にでもいつまでも、いずれプロになってからも、少なからず残り続けるだろう。文章、いや言語それ自体が他者と共有しなければ成立し得ない借りものに過ぎないのだから、完全オリジナルの文章など、端から存在しないのだ。
 ただし「上手い」だけでは、受賞には至れないだろう。上手い文章を読みたいだけならば、消費者は古今東西、既にたくさん出版されている名作・名文を読んでいればいいのだから。

 最終選考クラスの「面白い」小説を書けるほどのエンターティナーであれば、それなりに聡明であるはずだから、わざわざ出版レベルに達している未発表の長編作品をSNSに公開しようとは、あまりしないだろう。発表するとしても、自信のある落選作を潔く公開するといった程度か。もしくは自分のことを知ってもらうために差し出す、名刺代わりの短編や掌編。長編ならば、もう堂々と有料にしてしまってもいい。
 いかに「上手さ」のうえに「面白さ」が上乗せされた作品であっても、SNSに発表するだけでは、やはりいつ誰の目に留まるか未知数だ。大衆に発掘され支持され、出版されて有名になる確率は、砂漠に落ちた一本の針を探し当てるよりもはるかに低い。
 その無為さ、無謀さ、徒労感を知っているからこそ、最終選考クラスの面白い作品を書ける応募者は、SNSの次元にはあまり頻繁に顔を出していないのではないか。SNSをやっている時間があったら、そのぶんを作品にぶつけていておかしくない。

 かように公募とは苛烈な競争の場であるのだが、文字どおり「公」に「募る」以上、主催者側から見た応募者はまさに「不特定多数」となる。主催者は応募者を選べない。となると玉石混淆、なかには「てにをは」すら怪しい作品が紛れ込むことが、当然ながらある。そのために初期の選考には、いわゆる「下読み」が用意されているのだろう。明らかに「上手くない」文章は、ここでふるい落とされる。
 それなりに「上手い」ことはまずもって選考通過の絶対条件だから、もし一次で落ち続けて悩んでいる人がいたら、どうやら自分の文章には「上手くない」部分があったのだと自覚すると、次につながるだろう。もう一度初心に返って、たくさん読んでたくさん書くしかない。
 逆に、いつも二次、三次までは行くよという人は「上手さ」の部分に関しては及第点に達しているはずだから、自分の文体に自信を持っていいだろう。その文体を突き詰めつつ、さらなる「面白さ」を積み上げていけばいい。

 ところで、いわゆる「なろう系」異世界転生小説がなぜ多くの書籍化作品を生み出しているのかというと、あれは異世界もののテンプレ作品を嗜好する読者が特定のサイトに「寄ってきた」からであり、作者も作者でテンプレに「寄せている」からだと思われる。つまり、厳密にいえばそれらの小説投稿サイトにおける読者は「不特定多数」ではない。異世界ものを嗜好する「特定の」クラスタなのだ。だから読まれやすいし、サイト内ランキングがそれなりの指標として機能する。ある意味、狭い世界での需要と供給バランスがとれているのだ。
 とはいえ、異世界転生ものだけが文芸ではない。文芸作品の裾野は、もっともっと広大だ。「なろう系」隆盛のサイトに、なろう系以外の一般文芸作品を投稿して「思ったように評価されない」と嘆くのは、いってしまえばお門違いだろう。SNSで嘆く暇があったら、自分の作品に合った公募を探したほうがいい。

 ちなみに、noteには公式・非公式の「コンテスト」が存在する。これらにはたしかに応募規定と締め切りが設けられていて、文学賞に近い性質があるといえる。
 興味深い試みだとは思うが、一方で私の目には、まだちょっと危なげに映るのも事実だ。
 まず、フォローアップの問題。
 せっかく受賞したり、最終選考に残ったりしても、次の仕事につながりにくい。この点については、note社が文藝春秋さんと業務提携したというから、いずれは受賞ないし最終選考の時点で担当編集がつくというような、フォローアップのしっかりしたコンテストが開催されるかもしれない。
 次に、金銭関係の問題。
 プラットフォーム自体に投げ銭や「オススメ」できる機能が実装されているので、とりわけ非公式コンテストにおいては、選考に際して金銭的な利害が絡んでしまうおそれが皆無だとはいえない。たとえ金銭の流れがなかったとしても、外野から嫉妬含みの要らぬ詮索や憶測が飛ばされるかもしれない。自己顕示欲が垂れ流しのSNSでは、同時に嫉妬も渦巻いているものなのだ。これらの言動や諍いをコンテストの運営側が適切に把握しハンドリングしていくのは、骨の折れることだろう。
 最後に、ライバルが可視化されすぎている問題。
 noteのコンテストでは基本的にハッシュタグをつけることで応募完了と見做されているようなので、応募者はハッシュタグを辿れば、ほかの応募者の作品をいくらでも読むことができる。しかも、応募記事はそれぞれ応募者のアカウントに紐づいている。これでは、惜しくも受賞に至らなかった応募者が、受賞作および受賞者に対して「自分のほうがこれこれの点で優れている」と、個人的な攻撃をやりかねない。なにしろ嫉妬渦巻くSNSなのだ。この危険性も無視できない。
 以上のような理由から、私はかねてよりコンテストの類については、主催も協力も応募もしないことにしている。考えるだに、SNSと小説との相性は最悪だな……と暗澹としてしまう。
 本当に平等を期そうと思ったら、選考委員にバイアスのかからない完全匿名のコンテストがいいということになるのだろうが、運営するのはなかなかに面倒くさそうだ。割に合うと思ったら本業のほうでやるし、少なくともこのアカウントではやらないだろう。

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