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書く掻く描く

 たまたまフォローしてくださった方の記事を興味深く読みました。

「書く」の語源が「掻く」だから、パソコンに「打つ」のでは違和感があるってことですね。いちおう紙に物を書くときもペン先で紙の表面を掻いてシミをつけているわけで、語源にそぐいます。ところがパソコンだとキーを打ち込むので「掻く」という動作に実感がなく、確かに違う。その意味ではプロフィールに記すなら「小説を表現しています」とか「小説の表現者です」とか「小説を物しています」としたほうが、語源的には近いのかもしれない。

 ただ、いまでは石板に引っ掻いて文字を書いている人なんてほとんどいないわけで、言葉の意味は移り変わっていくものです。「パソコンで文章を書く」というのは人口に膾炙した表現としてあまりにも有用ですから、使わない手はありません。コンピュータの内部情報に「書き込み」をする段階で、引っ掻いて物理的な痕をつけるわけでなくとも、代わりに0と1の電気信号を確かにどこかに刻みつけてはいるわけで、広義の「掻く」と捉えられないこともありません。

 同語源に「描く」もあります。こちらのほうが「書く」よりもさらに引っ掻いているイメージが弱い気がします。たとえば「思い描く」なんて、脳内に物理的な傷痕をつけているわけでは決してありません。それに、筆を走らせるという物理的動作そのものよりも、「描く」には無形の抽象的なもの、独創的なものを作り出すという意味合いが強く含まれます。もはや「掻く」とはまったくかけ離れているわけです。かように言葉の意味って、どんどん広がっていくんですよね。

 パソコンでイラストを投稿している人が「イラストを描いています」とプロフィールに記してなんら違和感がないように、やっぱり「小説を書いています」とプロフィールに書くのも、言葉の定義としてはまったく問題ないと思います。もちろん言葉の語源を遡って知っておくことは文章を書くにあたって非常に有益ですし、「パソコンで文章を書く」という表現に違和感を持つその感性それ自体は得難いもので、大切にしていくべきだと思います。しかし、語源と語義は別ものなのです。語源にばかり拘りすぎると、場合によっては窮屈になってしまいかねません。

 言葉はあくまで借りものの伝達手段なので、現代そして未来の人に認識を共有できるのならば、なにをどうしたっていい。遥か過去、その言葉を発明した誰かに絶対的な忠誠を誓う必要は、じつはあまりないのです。

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