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小説の面白さを感覚的に表現してみた

 気がつけば昨日で連続投稿100日を達成していた。

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 いつか誰にも読まれなくなったらやめようと考えていたのに、脈絡のない与太話にビューやスキがつくのだから有難い話だ。やる気が続く限りは続けたいと思う。

 これまで私は、小説の「面白さ」という得体の知れない幽霊のようなものを、できる限り理詰めで素因数分解するように言語化してみたいと考え、記事を書いてきた。その集大成が『小説の書きかた私論』だった。

 が、たまには感覚的な言葉を使って「面白さ」のイメージを伝えてみたいと思い立ったので、試しに即興で書いてみることにした。
 思いつくままに書いていくので、理路整然とした論理展開にはならないかもしれない。ふざけた言い回しも用いるだろう。その点はご容赦願いたい。


「ツカミが大事」と何度も何度も書いてはきたものの、じつは序盤の面白さの本質は、起承転結でいえば「転」=クライマックスとあまり変わらないと思っている。
 ことエンタメにおいては、ツカミにはツカミとして奏功する「ツカミ専用技」のようなものはほとんどない。いきなり万人の心をグイッと引き込みグワァーーっと読ませる言葉の魔力なんてものは、ありもしない幻想だと考えていいだろう。もしそれができるならばよっぽどの短距離走者で、とっくに詩歌やら純文学の世界で大成している。
 短編であれ長編であれ、エンタメは基本的に長距離走だ。ツカミにおける読者の没入度は八分、九分くらいで構わない。むしろ初めから十全の没入を著者が求めると、たとえそれが叶ったとしても読者が途中で息切れを起こしてしまいかねない。この辺りの書き起こしの力感のイメージは保坂和志先生の論に影響を受けているので、気になる方はご参照いただきたい。

 野球の先発ピッチャーだってペース配分を考えて、八分、九分くらいの力感で投げているはずだ。打順がひと回りするまでは特定の変化球を封印しておくなど、手の内の見せかたにも工夫が凝らされている。それと同じで、小説も初っ端から全力投球でなくていい。

 とはいえ、ツカミの面白さの本質は、クライマックスと変わらない。
 どういうことか。
 たとえばミステリの場合、優れたツカミとは「序盤に魅力的な謎が提示されること」とされている。謎が魅力的だからこそ、ページを繰る原動力となっていくわけだ。
 かつて私もある種の「暴論」として紹介したように、ミステリを書きたいなら、とりあえずまずは冒頭に死体を転がしておけばいい。奇怪な格好で殺されていたり、どう考えても人間には犯行不可能な状況で殺されていたりすると、なおいい。逆にいえば、全体の半分、いや三分の一くらいを超えても死体が出てこない殺人もののミステリは、改善の余地があるかもしれない。

 でもちょっと待てよと。死体が転がるってのは、起承転結でいえば立派な「転」じゃないのか? と。それはそうだ。前段まで明るく元気に生きていたはずの人物が、いきなり亡くなるのだ。これほどの「転」はない。
「まさかあの人が」という意外な人物が殺されたとなれば、安全だと思っていた床が抜けて穴に転落するような驚きを、読者は感じるであろう。
 そう、面白さの本質は「転」にある。思わぬ展開/転回に戸惑い、作者の掌のうえでがされる。そこにこそ、読者は面白さを感じるのだ。

 ことはミステリに限らない。『鬼滅の刃』では、主人公が親兄弟を殺されるところから物語が始まった。典型的な「復讐譚」のツカミだろう。

 流行りの「異世界もの」だって同じことだ。なんといったって、自分が住んでいるのとは別の世界に行ってしまうのだ。これ以上の「転」はない。
 全6章立ての「異世界もの」があるとして、おそらく中盤を過ぎた第4章に至っても異世界に到達しない作品というのは、ほとんどないだろう。だいたいが第1章で早々に異世界に辿り着いているはずである。
 あるいは、崖から滑り落ちて記憶喪失になったり。
 本来は高貴な生まれであるはずなのに孤児となって辛酸を舐めたり(貴種流離譚)。

 では、なぜ優れたエンタメのツカミには冒頭から「転」の性質を持った「面白さ」が現われるのかといえば、そもそもエンタメの起承転結というのが入れ子構造になっているからだ。小さな小さな起承転結が積み重なって、最終的に作品全体としての大きな起承転結が描かれる。作品全体を構成する起承転結だけが、起承転結ではないのだ。

 7日が1週間を形成し、4〜5週間が1ヶ月を形成し、だいたい四半期の3ヶ月で次の季節に移り、12ヶ月で1年となる。これが12年経てば干支が一巡する。1日単位での起承転結があれば週単位での起承転結もあるだろうし、月単位、季節単位、年単位で見れば、もっと大きな落差のある「転」が生じうるだろう。

 お笑いに喩えてみる。漫才を見ていて、なかなか最初の笑いどころが訪れず、もどかしく感じてしまったことはないだろうか。笑い噺には「枕」という概念がある。話を落とす(=転を作る)ためには、まず枕話をして、エピソードを積み上げておかねばならないだろう。「フリ」などと呼ばれたりもする。上げて、落とす。この小さな起承転結をスピーディーに手数多くできればこそ、後半にドッカンドッカンウケるヤマ場を作ることができる。

(「出オチ」などの変則的なテクニックがあるにはあるが、ここでは考慮の外に置いておく)

 そこへ行くと、以前も書いたが世界のナベアツは天才である。

 懐かしくて死んでしまいそうになるが「3の倍数と3がつく数字のときだけアホになる」の、あの人である。

 あの笑いの落としどころを書き出してみる。

1 2  4 5  7 8  10
11 笑 笑 14  16 17  19 20
 22 笑 笑 25 26  28 29 
笑 笑 笑 笑 笑 笑 笑 笑 笑 40

 ……いやもう天才である。
 美しすぎて涙が出る。

 4段階の起承転結ではスピード感に欠けて笑いを取るには遅いので、3の倍数=「序破急」を小さな単位とし、全体でも上手いこと「序破急」を形成しているのである。
 これを物語の「序破急」に置き換えてみよう。

序 破  序 破  序 破  序
破 急 急 序  序 破  序 破
 序 急 急 序 破  序 破 
急 急 急 急 急 急 急 急 急 序

 なにこれ。
 もう理想的なプロットの構成じゃん、これ。
 プロットのテンプレートができてしまった。
 これを基礎にすれば、売れるエンタメのプロットが作れるのではないか。
 序破急の「急」は、緩急の「急」にも通ずる。
 読者の感情が盛り上がる場面となるのだ。
 急急急急急急急急急!
 クライマックスは、文字どおり超急展開である。
 ここまで来ると、もうフルスロットル。誰にも止められない。

 個人的に、優れたエンタメ小説を読んでいると、この「急急急急急急急急急!」の部分で脳内に黄色信号が点滅し始める。黄色信号が点滅し始めたらめっけもので、できる限り読むのを中断せずに一気に読む。仕事柄、移動時間や待ち時間、休憩時間などに細切れに読むことが多くなってしまうが、たとえ昼休みが長引こうと、ここばかりは譲らない。
 この黄色信号が灯らないまま結末まで行ってしまう小説も、巷には数多くある。そういう作品を読んだ場合、ちょっと残念だったね……と内心でため息をついて、そっと本を閉じる。面白くなくはないかもしれないけれど、とんでもなく面白かった! と手放しで絶賛することはできない。

 一方、急急急急……に至るまでの枕の部分、「起」「承」では、いつ中断してもいいような心構えで読んでいる。読み手に回っても八分、九分の力の入れようだ。で、実際ぶつ切りになりながらでも読む。面白い小説なら、中断しても続きが気になるので、自然と次にまた早く読みたくなるものだ。
 面白くない小説は、たいてい「起」「承」の段階で興味が薄れ、心が離れてしまう。というか「起」「承」の段階で面白くない小説は「転」「結」を経ても面白くはならない。それはそうだ。「上げて、落とす」を面白さの基本原理と考えるなら、前半の「起」「承」で盛り上げてもらえないと、後半の「転」「結」での落差は生まれようがない。こればっかりは人間だから、合う合わないが絶対にある。
 絶望的に合わないときは「転」に行く前に潔く読むのをやめてしまう。そのほうが、時間を無駄にしなくて済むし、精神的な徒労感、ダメージは少ない。邪道で残酷かもしれないが、エンタメはあくまで余暇であり、楽しみのためにあるのだ。苦痛を伴うくらいなら、無理して「転」「結」まで読む必要はない。

 話を「世界のナベアツ」に戻そう。
 いま、あなたはテレビで「世界のナベアツ」の芸を見ていることとする。
 その際、隣にいる同居人に突然、予告なくチャンネルを替えられてしまうとしたら、どちらのタイミングで邪魔されるのが、より腹立つだろうか。

 1 2  4 5  7 ブチッ
 28 29 笑 笑 笑 笑 笑 ブチッ

 どうだろう。
 私なら、圧倒的に後者のほうが腹を立てるだろう。
「ああっ! ちょうどいま面白いところだったのに!」
 となる。

 前者であれば「うん、まあ……いいか、どうせ続き知ってるし」で終わる可能性が高い。
 そう、まったく初見の場合を除き、この芸はネタが割れているのだ。いやむしろ初見でも、あらかじめ「3の倍数と3がつくときだけアホになる」と宣言されているのだから、ネタは十分に割れている。勘のいい人なら「はいはい、後半アホになり続けるのね」と察せてしまうだろう。

 にもかかわらず、かつてテレビであれだけのブームが巻き起こったのは、単純にネタが優れていて、わかっていてもなぜか面白かったからだ。
 完全なる予定調和。お約束。
 結局のところ「わかっていても面白い」がいちばん強い。

 そういえば、これとよく似た構造の遊びがある。
「いないいないばあ」だ。

 幼い子どもと遊んでみるとよくわかるけれど、子どもは「いないいないばあ」を、わかっていて楽しんでいるふしがある。

「いない、いない……」
(あれ? お母さんいない……。どこ行っちゃったんだろう……?)

 などと真剣にキョロキョロする赤ん坊は、おそらくいない。

「いない、いない……」
(おっ、さては「いないいないばあ」だな。来るぞ来るぞ……!)

 と、ニヤニヤキャッキャしながら待ち構えているはずだ。

「ばああーっ!」
(うわぁ! お母さんそこにいたのか! びっくりした、あはは!)

 と驚く赤ん坊は、やっぱりいないだろう。

「ばああーっ!」
(来たーーーーー! いつもの「ばああーっ!」だ! ここ笑うとこ!)

 となっているように見えるのだ。
 思えば「いないいないばあ」も、見事な序破急で成り立っている。

「いない(序)」
「いなぁ~い……(破)」
「ばああーっ!(急)」

 優れたエンタメとは「いないいないばあ」である。
 語弊を恐れずにいえば、エンタメの読者とは「いないいないばあ」の「ばあ」で、頭からっぽにしてゲラゲラ笑っていたい存在なのだ。

 最後には悪者が倒されると、わかっていても面白い。
 最後には恋愛が成就すると、わかっていても面白い。
 最後には犯人が明かされると、わかっていても面白い。
 最後には世界平和が訪れると、わかっていても面白い。

 もちろんハッピーエンドだけがエンタメではない。
 ショッキングな結末や、ぞわっとモヤッとする幕引き、あるいは結末が示されないリドルストーリーもありうるだろう。
 ただし、そこに至るまでには、やはり相応の原因が示されているはずだ。
 因果応報。
 少しずつ、ほんの少しずつ、不穏な綻びが見え隠れしていて、最後に一気に崩壊する――とか。

 ここで「世界のナベアツ」に「いないいないばあ」を代入してみよう。

いない いない ばあ! いない いない ばあ!
いない いない ばあ! いない いない ばあ べろばあ!
いなばあ! いない いない ばあ!
いない いない ばあ! いない ばあ、ばあ!
いない いない ばあ!
いない いなぁ~い……
ばあ べろばあ ぶる べろ ぶぶ ぶちょ
ぶるぅろわ
 べろべろ ぶるぼろ ばあーーーーー!
いない

 ジャブストレートのワンツーも、フェイントをかけた奇襲も、最後のラッシュも完璧。こんな「いないいないばあ」をやっているやつがいたら、ただのアホである。近寄りたくない。でも、おそらく子どもにはウケるだろう。クライマックスは、大仰にやればやるほどウケる。

 大人が読むエンタメ小説だって、本質を突き詰めれば、この「いないいないばあ」と大差ない。
「ばあ べろばあ ぶる べろ ぶぶ ぶちょ ぶるぅろわ べろべろ ぶるぼろ ばあーーーーー!」で笑える読者は幸福である。

 私が折に触れて、
エンタメはつねに拡大再生産される
 と書いているのは、つまりそういうことだ。

 さて、残すは起承転結の「結」のみとなった。
「世界のナベアツ」が優れていると感じるもうひとつの点は、最後の最後のオチ「40」にもある。
 狂気じみたアホっぷりのナベアツが急にクソ真面目な顔で「40」と言うとき、クライマックスとは異なるベクトルの笑いが生まれる。綺麗に余韻が残って後に引かない、すっぱりとしたオチだ。
 もし、ここから続けて、

41 笑 笑 44  46 47  49 50

 とやっていたら、それこそナベアツは、救いようのない正真正銘のドアホになってしまうだろう。
 これぞ「蛇足」というやつである。

 優れたエンタメ小説を読むとき、私は「結」の部分で、清々しい「終わりの匂い」を感じる。行間から漂う、作品全体を畳もうとするときの匂いだ。
 もちろん紙の本であれば残りのページ数でだいたいの切れ目は予想がつくし、電子書籍でも「残り何パーセント」とか「読み終わるまであと何分」といった表示が出てくる。しかし、そういった外的要因に関係なく、いい小説の末尾では「いい匂い」がすると思うのだ。
 そういう匂いを感じた小説は、えてしてエピローグが短めで、スパッと気持ちよく終わる。蛇足になることがない。

 一方、匂いがしない文章だと、蛇足のように感じることがある。事の顛末を仔細に語ろうとするあまり、作品世界を畳もうとする気配がなかなか見えないのだ。
 もちろんハッピーエンドに限った話ではない。
 身の毛もよだつ恐怖、グサッと刺さる衝撃、ズーンと来る重い暗鬱……。
 たとえばこれらの余韻を残して終わらせたいなら、最後はスパッと切り上げるのが得策だ。恐怖や衝撃や暗鬱といった感情を縷々説明してしまっては、読者が興醒めしてしまうおそれがある。

「結」を書くときは、作品世界を畳もうとする気配をあからさまにプンプン匂わせつつ、短く潔く、スパッと。書き急ぐでもなく、未練がましくダラダラ書き続けるでもなく、終わるべくして終わらせたい。

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