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シリーズものの宿命

 前回、軽くセガをdisってしまったので、

 誤解のないように、セガへの愛も語っておこうと思います。

 昨年12月に発売されたゲームソフト『新サクラ大戦』の話です。

「サクラ大戦」シリーズには、その昔、中高生だった頃から抱き続けた特別な思い入れがあります。舞台となるのは架空の時代、大正ではなく「太正」の帝都東京。蒸気機関が高度に発達したスチームパンクな世界観で、霊力という不思議な力を持つ女性たちが、霊子甲冑というドラム缶みたいな、一見すると鈍重そうな兵器に乗って悪と戦う物語です。

 江戸時代を舞台とする、いわゆる「時代劇」をあまり見てこずに育ってきた私にとっては、生まれて初めてどっぷり体験する時代浪漫の世界観が、この帝都東京でした。もちろん現実にはあり得ない突飛なファンタジーの世界観ではありますが、上の世代の人たちが時代劇の江戸時代にユートピアを見出して郷愁を覚えるように、私にとっては太正こそが、時代浪漫の原点であり郷愁の対象だったのです。

 個性豊かな女性キャラクターたちとの交流、恋愛模様もこのゲームの魅力のひとつでしたし、個人的には「都市」そのものもまた、重要なキャラクターだと感じていました。帝都東京、巴里、紐育。そこに息づく人々の生活と文化が描かれていました。戦闘のクライマックスでは浅草仲見世通りがパカッと開いて蒸気飛行船が飛び出したり、凱旋門が巨大なリボルバーカノンに変形したりと、それはもうトンデモな発想でしたが、その大胆さがまたいい。

 そしてなんといっても、音楽の魅力。秘密部隊「帝国華撃団」の世を忍ぶ仮の姿は、劇場で歌い踊る「帝国歌劇団」。キャラクターの成長とともに展開されるミュージカルの楽曲も多彩で凝ったものばかりでした。歌曲集を何度も何度もリピート再生して聴いていたのはいい思い出です。

 そんなサクラ大戦が、十数年ぶりに復活する。第一作目からのファンにとって、これほど嬉しい報せはありません。
 ところが、蓋を開けてみると、ネットを見る限り、ファンの反応はいまひとつだったのが気がかりでした。旧作で馴染みの深かったキャラクターは、ひとりを除いて全員不参加。主要なスタッフも作曲家を除いてほぼ刷新。時代設定は旧作から十年後。おまけに秘密部隊であった華撃団はいまやオープンな存在となり、異国の華撃団とオリンピックのような「世界華撃団大戦」を繰り広げるのだという。

 正直、私にも不安がなかったわけではありません。特別に好きだった作品だからこそ、理想像を壊されたくないという心理も働きます。

 しかし、もともとサクラ大戦は新しいことに挑戦していた斬新な作品でした。声優が舞台に立って歌って躍るのは、いまでこそ当たり前になっていますが、当時はチャレンジングなことだったと思います。そもそもキャラクター造型も王道の可愛い美少女ばかりを集めるのではなく、国際色豊かでアクの強い面々。霊子甲冑「光武」はずんぐりむっくりしていて寸胴どころかまん丸で、とてもガンダムのようなスマートなカッコいいフォルムとはいえません。おまけにシナリオは正義を貫く「クサい」セリフのオンパレード。
 いわば「ダサかっこいい」を地で行く作品だったわけです。最初は多少の違和感があっても、遊び続けていくうちにスルメのように中毒性を帯びてくる。そういう作品でした。

 だからこそ、ファンも変わることを恐れてはいけないな、と思っていました。
 エンターテインメントの本質は、身も蓋もない表現かもしれませんが「拡大再生産」だというのが持論です。『小説の書きかた私論』で物語の類型化を試みた際に縷々書いたので、ここでは繰り返しません。

 近年、サクラ大戦に限らず、懐かしいタイトルがアニメや映画などで復活するのをよく見かけます。ディズニーですら、名作アニメを実写化したりしていますよね。誰もが知っている作品は、それだけで鑑賞に臨むためのハードルが下がり、幅広い支持を期待できます。
 どちらかというとカルト的人気を誇った、メインストリームではなかった作品にしても同様です。エヴァンゲリオンは新劇場版でずいぶんメジャーになりましたし、ブギーポップや魔術士オーフェンが再びアニメになって動くなんて想像もつきませんでした。

 テレビCMを見ても、最近は耳馴染みのあるメロディーや、誰もが知っている昔話の主人公が頻繁に登場します。十五秒そこらの短い時間で視聴者の興味を惹くには、誰もが既に知っているもののリバイバルが、説明を省略できて都合がよいという側面があるのかもしれません。

「新しさ」も、ほとんどの場合は「拡大再生産」の延長線上で生まれます。だから『新サクラ大戦』においても、変わる部分、変わらない部分がそれぞれあって然るべきです。

 まず特筆すべき英断は、旧作のキャラクターをひとりを除いて総入れ替えしたこと。その理由づけがまた痛快で、ストーリーの根幹にかかわるため詳しくは書けませんが、旧作のキャラクターたちは少なくとも帝都東京からは遠く離れた場所にいて、すぐに駆けつけられる状態ではないようです。しかも生死すら不明の状態とされています。

 旧作のキャラクターをほぼ総入れ替えすることで、新作のキャラクターを活き活きと深掘りしていくことに成功しています。先の「私論」でも述べましたが、登場人物が増えれば増えるほど、ひとりひとりの人物描写の掘り下げが浅くなってしまうのは道理です。新シリーズと謳うにあたって、旧作キャラクターを出してしまうと、既に思い入れのあるそちらに支持が集まってしまい、新キャラクターに人気が集まらなくなってしまうおそれがあります。まずは「新生・帝国華撃団」をプレイヤーに愛してもらうこと。それが「新サクラ大戦」立ち上げの主眼にあったのだと推測します。
 しかも、続編が実現した場合に、旧作のキャラクターを少しずつ合流させられる物語的な余地をしっかり残している(というのは、旧作からのファンの願望か)。これはニクい仕掛けだなぁと勉強になりました。
 同時期に発売された『ポケットモンスター ソード・シールド』で、旧作のポケモンが大量に登場しなくなった=「リストラされた」と一部のファンから批判を浴びていましたが、このほど追加コンテンツで200体ほどが復活することが発表された途端、掌を返したように歓迎する声がTwitterなどで多く見られました。これと同様の現象が、二作目、三作目以降で起こらないとも限りません。思えば旧・帝国華撃団のメンバーも、続編でふたり追加されて初めて全員揃うことになりましたし、3と5ではそもそも巴里・紐育と舞台ごと変更になり、主要キャラクターの総入れ替えが行なわれてきたのでした。

 秘密部隊がオープンになるのも、ある意味では時代の流れを反映しているのかもしれません。実際、ストーリー構成のイシイジロウ氏がこのように語っています。

僕はそのこと自体は、世界的なエンターテインメント大革命の潮流に乗った、ポジティブな変化だと捉えています。ここ十数年で世界のヒーロー像は劇的に変化していて、かつてのウルトラマンや仮面ライダーといった“正体不明の存在”ではなく、映画『アイアンマン』で登場し、その後『アベンジャーズ』シリーズなどで定着した“正体を隠さない、オープンな存在”が席巻しているんです。だから今回のこの設定はまさに英断だったと考えています。設定を作り直すのはたいへんでしたが(笑)。

 不思議な符合だなぁと思ったのは『ポケットモンスター ソード・シールド』でも、ポケモンリーグが巨大なスタジアムで観客を集める一大興行になっていたこと。これまでは、ジムバッジを集めた者しか会うことが許されなかった密室のなかの「四天王」という枠組みを廃止し、公の場に引っ張り出してしまったわけです。
 この奇妙な符合も、現代のエンターテインメントの潮流を読み解くうえでは看過できないかと思われます。

 とはいえ、変わっていない部分もある。作曲家は続投していますから、当然、作品の根幹のひとつとなる「音楽」は、昔のまま正統進化を遂げています。

 この曲に出会えただけでも、私にとっては大収穫でした。

 とかくネット上に有象無象のレビューが溢れ、酷評されているのを見ると購入を躊躇ってしまいがちなご時世です。約束されたクソゲーだとか、公式による贅沢な二次創作だとか、云々。しかし、モノづくりの現場では、まだまだ面白さを追求する創作の火が消えているわけではありません。
 変わることを恐れるのは、作り手側にしたって同じです。それはシリーズものが避けては通れない宿命であり、永遠の課題です。既に結果が出ている手法があるならば、それを踏襲することで、少なくとも大コケするリスクは減るでしょう。変化することは、作り手側にとってリスクでもあるのです。にもかかわらず、人気シリーズがあえて変化を見せた場合には、作り手側になんらかの強い意図があるはず。その意図を汲み、いい意味での「裏切り」を期待して投資してみることは、シリーズの存続を願うファンにできる、最大の応援といえます。

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