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【質問箱】 風景描写について

 有難いことに質問をいただいたので、私なりにお答えします。

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 風景描写について。

「ジャンルによる」というのはまさにその通りだと思います。たとえばエンタメ小説であるにもかかわらず、とりたてて著者の意図がない(意図の感じられない)風景描写がくだくだと並んでいたら、そりゃ楽しめませんよね。一方で純文学的なアプローチで描きたいはずの題材で、風景描写をすっ飛ばしてセリフとト書きだけの「小説」なら、いっそ映画や舞台のシナリオにでもしてしまったほうがいい。

 どんなジャンルであれ、私が風景描写において重視したいのは「作品内時間の流れ」です。
 小説を読んでいるあいだ、読者が体感する「作品内時間」と呼ぶべき流れがあるとします。この時間が流れるスピードの基準を、私はまず「カギカッコで括られたセリフ」に置きます。セリフの一言一句は、登場人物の口から発せられた音声情報そのものですから、黙読して読み進め、頭のなかに構築される時間の流れは、そのまま作品内時間と称しても不自然ではないかと思われます。
 時間を惜しむ読者によっては、何行かを読み飛ばしてスピードアップを図る人もいらっしゃるでしょう。作り手にとっては地の文もすべて含めて「作品」ではあるのですが、これだけ数多のコンテンツが溢れ、サブスクなどで触れ放題の現代です。おこがましくも「こう読んでください」とはお願いできません。これは「サブスクで配信される映像作品を倍速で鑑賞するのは邪道なのか問題」にも近しいですね。

 しかし、どんなに読み飛ばそうと、瞬時に要不要を取捨選択して飛ばしにくいのが「カギカッコで括られたセリフ」という要素です。

「どう?」
「うん」
「わかった?」
「えーと」
「もっかい説明する?」
「いや」
「もう行くね」
「ちょっと待って」

 即興で適当に書きましたが、飛ばし飛ばしに読んでいる人であっても、これだけ続く冗長なセリフ群を不要と判断して飛ばすことは、あまりないと思います。人によって読む速さの違いはあれど、少なくともこれらの字面の上に目を滑らせて、内容を認識してはいるはずです。
 だって、そのために小説ではセリフがカギカッコで括られているのだから。ほかの地の文を読み飛ばしたとしても、ここだけは追ってね。そう強調するために、カギカッコで括られているわけです。これ、じつは相当な発明です。
 極端な話、必要最低限のト書きとセリフだけがあれば、ストーリーの開示それ自体は成立します。先ほど「セリフとト書きだけの『小説』なら、いっそ映画や舞台のシナリオにしてしまったほうがいい」と書きましたが、取りも直さずセリフとト書きとは、シナリオの成立要件そのものだからです。

 さて、作品内時間の流れるスピードの基準をセリフに置くとすると、ト書き=「説明」はぶつ切りで時間をすっ飛ばしたり巻き戻したりできる性質のものになります。

 あれから三年が経った。
 寿人は大学生になっていた。

 たとえばこんなひと言だけで、時勢はいきなり三年後に飛びます。映画でいえば、ブチっとシーンが切り替わって、テロップで「3年後」とか出てくるやつです。

 一方、風景描写が長く挿入されればされるほど、多くの場合において作品内時間はスローダウンします。景色、音、匂い、それらの文字情報が読者の脳で像を結ぶ。このとき映像媒体とは異なり、小説が頼るのはひとえに読者の記憶です。風景描写を通じて、読者はそれぞれ異なる記憶を喚起され、情景を思い浮かべます。しかもセリフでは聴覚のみで済んだところ、風景描写では視覚や嗅覚などの記憶まで呼び起こさねばならない。処理すべき情報量が煩雑なこともあって、いかに速読していようと、風景描写に目を通しているその一瞬においては相対的に、もっさりと重たい感覚が生じるはずです。
 風景描写を入れる意図はまさにそこにあります。セリフやト書きのあいだに、ゆったりとした「間」がほしいとき。場面が変わったことを印象づけ、ストーリーの展開を急がず、リアルに想像させたいとき。それによって情緒を加えたいとき。読み飛ばされるかもしれなくても、風景描写はとても有効な手段です。
 長く長く記憶に焼きついて残るであろう鮮烈な一瞬の感動や、いつまでもいつまでも続いてほしい涙の抱擁や、とてもとても静かな時間の移り変わり。実際の時間の長短ではなく、あくまで作品内時間の流れを調節する機能が風景描写にはあると思っています。
 だから、極端な例として、同じ三年を飛ばすにしても、風景描写を用いれば毛色はかなり異なると思います。

 入学式の日に花吹雪を散らして寿人を出迎えた校門前の桜の木が青々と新緑を湛え、秋になって葉を落とし、長い冬を耐えて二度目の春、新たな花を芽吹かせる。同じような営みが三度目の春もまた繰り返され、これからもずっと続くものだと思っていたのに、寿人が周囲の反対を押し切って土壇場で理系から文系に転向し、猛勉強の末に受験戦争を勝ち抜いた冬は例年にない暖かさで、卒業式の日にはまたあの桜が、盛大な花吹雪でもって寿人の門出を祝ってくれた。
 だから大学一年生の春、ひとり文学部のスロープを登って入学式に向かう寿人の頭上に、舞い散る桜の影はもうなかった。

 これまた即興で下手な例文を書いてしまって申し訳ありませんが、あくまでも比較のための一例です。文章の内容自体は決して褒められたものではありませんが、ご容赦ください。
「あれから三年が経った」の一文でブチっと切り替えられるところ、わざわざこうやって風景描写を挟むと、映像でいえば、定点カメラが超高速で早送りされて、桜が散って緑になって葉を落としてまた咲いて……という雑景が挿入されることになります。これにより、ブチっと途切れることのない地続きの時間の経過を表現することができます。ついでに上の悪文では、永遠不変の営為などないという無常観とか、文学部のスロープを上がる寿人の孤独感とかを、色気を出して意図してみました。
 とりたてて異常なく三年間が過ぎただけなら「あれから三年が経った」の一文で構いませんが、その三年の営為を地続きで見せたい場合などに、風景描写を加えるという手も選択肢に入りうると思います。

 以上のような性質があるため、風景描写の適切な分量というのは、他の要素――説明(ト書き)やセリフ――の分量と比べて相対的に決まってくるものだと思っています。あくまでも「ケースバイケース」としかいいようがなく、定量的な答えを出すことができません。
 作品内時間を早く流すべきところは少なく、ゆっくり流したいところには詳しく丁寧に。小気味よくスピーディーに展開させたいはずの戦闘シーンの真っ最中に、背後の桜吹雪の乱れ飛び具合やら、舞い上がる砂塵の白さやらを長々と描く人はいませんよね。そういった描写は戦闘前の睨み合いの場面で、永遠にも感じられる緊張の一瞬を演出するためにこそ有効です。
 大事なのはリズムです。風景描写それ自体の詳細度ではなく、風景描写以外の要素との分量、緩急のバランスなのです。
 全体を通して読んだときに、作品内時間が緩急をつけつつ、スムーズに気持ちよーく流れてくれるかどうか。その感覚を、一編集者として重視しています。

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