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【即興習作】 遅刻

 新入社員の松原がオフィスに姿を現わしたのは、午前十一時十一分だった。エントランスのセキュリティーゲートにかざすICチップ内蔵の社員証で入退館を記録しているから、部長の園橋はいつでも手許のパソコンで、分刻みの正確な時間を閲覧することができる。就業規則に定められた始業時刻は午前九時。もう二時間以上の遅刻だ。
「申し訳ありません、遅れました」
 入室するなり園橋のもとに歩み寄ってきて深々とお辞儀をする松原。その殊勝さは買うが、だったら二時間も連絡ひとつ寄越さず堂々と遅刻してくるとはどういう了見か。まったく最近の若いやつらの考えていることは読めない。こうべを垂れているのも表向きの演技に過ぎないのではないか――園橋は疑り深い目で松原を見やり、𠮟責した。
「遅れてしまったものは仕方ない。しかし遅れるなら遅れるで、社会人として電話くらいすべきだとは思わんか」
「はい。申し訳ありませんでした」
 ようやく顔を上げた松原が、今度は園橋の目を見つめ返しながら詫びる。かつて見たことのない松原の真っ直ぐな目に園橋は一瞬たじろぐが、努めて威厳を保ちつつ応じた。
「君は、申し訳ありませんしか言えないのか。言うだけならさぞ楽だろうがな、仕事を甘く見ないほうがいいぞ」
「はい、申し訳ありませんでした」
「壊れたテープレコーダーか、君は。少しは自分の言葉で喋ったらどうだ」
 語気を強めて言ってしまってから、園橋は少し後悔した。二年前、園橋の部下になった新入社員が、わずか五ヶ月で退職するという過去があった。ある日突然、手続きは退職代行サービスなる部外者によって淡々と進められ、退職の理由ひとつ知らされなかった。もしパワハラだなんだと言われて松原まで辞めるとなれば、さすがに自身の管理能力が疑われかねない。しかも松原は配属されてまだ三ヶ月。最短記録更新という嬉しくない事態だけは是が非でも避けなければならない。
「ですから、本当に申し訳はないのです。弁解や言い訳の余地は、ひとつもありません」
「それは屁理屈というものじゃないか」
「と言われましても、それが事実なのです」松原は悪びれるふうもなく説明した。「昨夜遅くまで新発売のゲームで遊んでいた私は、今朝うっかり寝坊してしまい、目が覚めて時計を見ると既に午前十時十六分。これはまずいと慌てて飛び起きて、取るものもとりあえず着替え、一分一秒たりとも惜しまず一直線にここまで駆けつけたわけです。それ以外に申し開きのしようがありません」
 十時十六分。やけに正確な表現に引っかかりを覚える園橋だったが、いまどきの若い子たちはスマホで時計を見るのが習慣なのだろうと思い直す。スマホなら大抵はデジタル表示だ。「10:16」と見たままを記憶していても不思議はない。デジタル全盛の管理社会、現にこの会社とて、社員の勤怠をパソコンで管理しているではないか。
「取るものもとりあえず? なにも食べずにきたというのか」
「はい。もちろん最低限のエチケットとして、歯は磨いてきましたけど」
「当たり前だ。風呂は?」
「昨日の夜、ちゃんと入りました」
「寝ぐせは?」
 言いながら、園橋は松原の後頭部を見やる。くせのなさそうな短髪ということもあるが、見た限り、寝ぐせと思しき乱れはない。
「ありません」
「髭は?」
「剃っていません」
 白い不織布マスクの下で松原が答えた。鼻から顎にかけてすっぽり覆われているせいで、髭があるかないかは窺い知れない。
「剃っている暇があったら、一分一秒でも早く駆けつけるべきだと考えました」松原が答える。「幸いこのご時世、仕事中はマスクが必須ですし、会議もすべてリモートですから、他社の方々にお見苦しいところを見せるおそれはありません」
 なるほど松原の言う通りだった。実際、社内規定により、部下を持たない若手社員の出社は月一回までと厳しく制限されている。それ以外の日はすべてリモート。朝昼夕の定例会議に始まり、一時間に一回程度は映像回線をつないでの打ち合わせが頻繁に行なわれているから勤怠管理に抜かりはないし、松原も新人とは思えないほどバリバリ活躍してくれている。
 ここ一、二年で、すっかり世の中は変わってしまった。居酒屋や喫煙所でのコミュニケーションがほぼ絶滅したのは寂しい限りだが、慣れれば慣れるものだと園橋は思う。
  この大学を卒業したばかりの若者は、毎朝九時の始業報告を、いつも自宅のパソコンの前で行なっているのだ。下手すると寝起き後十分もあれば、上半身だけ着替えてマスクで顔半分を隠して、立派に始業できてしまう。たとえ下がパンツ一丁でも、誰にも気づかれないし迷惑をかけないのだ。
 そのサイクルに身体が慣れてしまったら、片道一時間の電車通勤すら長く無駄なものに感じられるだろう。いつもより一時間以上早く起きて身だしなみを調えて出社するというのも、あるいは彼にとっては、とてつもなく高いハードルなのかもしれない。多少は寛大に見てやるべきだろうか。
「わかった。次からは気をつけるように」
「はい。本当に申し訳ありませんでした」
 松原が再び腰を折り、頭を下げる。
 そういえば、この松原の顔を間近で見るのはたったの五度目だということに、園橋はいまさらながら思い当たる。四月の入社式のときに一度、研修明け五月の配属挨拶の日に一度、それから六月、七月の出社日にそれぞれ一度。今日が八月の松原の出社日だ。部内には園橋と松原以外に人影はなく、隣の部に女性社員がひとりいるだけ。ほかは全員リモートだ。オフィスは無駄に広く、閑散としている。
「あのう、もう行ってもよいでしょうか……」松原がやや上目遣いとなって控えめに申し出る。「じつは、本当に急いで駆けつけたもので、その……大きいほうを、我慢したままでして」
 画面越しに毎日のように顔を合わせているはずの相手なのに、まるで別人の顔、別人の声のようにすら、園橋には感じられた。
「わかった。行ってらっしゃい」
 園橋は苦笑して頷いた。

 数分後、松原が戻ってきた。すっきりした顔で自分の席に座り、社用パソコンを起動する。その様子を遠目で見ながら、園橋の違和感は増大した。
 なにかが引っかかる。
 園橋は先ほどの会話を思い返した。
 松原が起床したというのが十時十六分。
 オフィスのセキュリティーゲートを通過したのが十一時十一分。
 しかし、リモート勤務が染みついている彼ならば、習慣として九時には目が覚めるものではなかろうか。よりにもよって出社日の朝だけ一時間以上寝坊するということがあるだろうか。
 些細なところだが、どうにも気に懸かる。
「なあ松原くん」園橋は三人分の空席越しに声を掛けた。「マスク、取ってみてくれないか」
 言われて松原は、さして疑うそぶりもなくマスクを外した。
 果たして、その下には髭が生えていなかった。
「君、髭剃ってこなかったんじゃないのか」
「え? あ、いやー……」
 急にたじろぎ始める松原。
 やはり、なにかがおかしい。
「よくよく考えると、顔も声も変わっていないか? さっきの松原と」
「いやだなあ園橋さん、どういうことですか」
「君、今朝起きたのは何時何分だ」
「えーと……だいたい九時ちょっと前、ですけど……あっ」
「あっ……ってなんだ。あっ……て」
「いやその、十時十六分でした。そうでした。スマホ見たんで間違いありません」
「さては君、嘘ついてるな」
「どういうことですか」
「入れ替わってるだろ。トイレに行く前と後とで」
 硬直する松原。どうやら図星のようだ。
「変ですよ園橋さん。そんなわけないじゃないですか。だいたい証拠はあるんですか、証拠は」
 そこで一瞬、返答に詰まったが、今日の園橋は冴えていた。
「君に与えられている社員証は一枚しかない。もし誰かと入れ替わったなら、セキュリティーゲートを通っているはずだ。偽松原くんがトイレに行くふりをしてゲートをくぐり、外で待ち構えている本物の松原くんに社員証を返し、松原くんはその社員証で再び入館する。君は知らないかもしれないが、じつはゲートの出入り時間は管理者権限で見ることができてね……」
 話しながら、園橋は勤怠管理画面にログインする。

松原栄太
入館 11:11
退館 11:20
入館 11:20

「どういうことかな?」
 手をひらひらさせて松原を呼び寄せ、園橋は画面を指さした。
「いやー、バレちゃいましたか」
 つい先ほど見せていた殊勝な態度はどこへやら、マスクをつけ直した松原が、ヘラヘラと笑う。
「謝罪代行サービス使ったんすけどね。口裏合わせるのうっかり忘れてました」
「謝罪代行サービス?」
「知らないんすか園橋さん。いま人気なんっすよ。今朝起きたら普通に九時で、マジ焦ったっすよ。今日出社日なの忘れてた、って。そんで急いで電話してお願いして。だから打ち合わせもそこそこで、口裏合わせるのも難しくて。でももう謝ったんだからいいじゃないですか、ね?」
 怒りを通り越して呆れる園橋の頭に、さらなる疑念が過った。先ほど、偽松原が本物の松原に入れ替わったと推理したが、それで正解だったのだろうか。いつも画面の向こうに見ている松原こそ、偽物だったのではないか。だから新人とは思えないほどバリバリ活躍してくれていて……。
 いや、そんなまさか。
 開き直ったのか気まずさを隠すためなのか、ヘラヘラ笑い続ける軽薄そうな松原を見ながら、園橋はどれが本物の松原なのかわからなくなっていた。

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